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朝夕(あさゆう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-23 12:47:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「いつたい、雑作だのがらくたを仕末してどの位出来る?」
「雑作なんて、家主に家賃のかただぜ、がらくた売つた処が二束三文で、せいぜい一晩泊りで、近かくの温泉へ行ける位のもんだらう‥‥」
「温泉か、温泉もいゝわね。桜もそろそろ咲きかけてるのに、厭ね、私たち‥‥」
 なか子は五六年前、観桜会とかで足が痺れる程、一日立ちづめで働いた料理屋の生活を思ひ出してゐた。嘉吉は嘉吉で戸外の寒いやうな風の音をきくと、酒でものみたいやうな気持ちになるのであつた。
「ねえ、あと五六日で四月ぢやないの?」
「考へてみると、一緒にならなきやよかたつて云ふンだらう?」
「どうとも御判断に任かせます」
 すると、嘉吉は褞袍を蹴るやうにして起きあがると、冷へた茶をごくんと飲んで、「仕末して、いつそわかればなしが決まつたんだ、温泉にでも行つてみるか」と云つた。
 いまゝで煤けたやうに悄気てゐたなか子は、嘉吉に、温泉にでも行くかと云はれると、娘のやうに眼を晴々とさせて、「まア」と嬌声をあげた。一日のばしにして細々と長らへてゐるより、いつそ、ばたばたと売り払つて温泉にでも行つて、それから二人でちりぢりになつても、遅くはないし、かへつて後くされがなくていゝかも知れないと、「そりア素的よ。考へて御覧なさいな、こんな処でくよくよしてたつて仕方がないぢやないの」と、早、なか子は店から帳面を取つて来て嘉吉の前へ広ろげるのであつた。
「その白い処へ何がどれ位つて、一寸書いて御覧なさいよ」
「がらくたの相場かい?」
「がらくただつて、レジスターだの、陳列箱だの色々あるぢやないの?」
「うん、あるにはあるさ、だけど、あんなのはみんな担保にはいつてしまつて仕様のないもんばかりだぜ‥‥」
「まア、担保つて、何時、そんなことをしたの?」
「何時つて、とつくだよ、吾々は何も身についたものありやアしないさ」
 なか子は、そんなものまで嘉吉が金に替へてゐるとは思はなかつた。
「ぢや、夜逃げでもしなきや、昼の日なか何も売れやしないぢやないの?」
「さうなんだよ」
「厭ね、別に贅沢してるつてわけでもないのに、相場だの競馬だのつて、こんな小さなうちなんか雀の涙よ。おまけに私に黙つて高利の金を借りたりさ、厭々‥‥」
 なか子はそれでも、温泉へ行くと云ふことがうれしかつた。何でもいゝ家中の物を売り払つて汽車へ乗つてみたくて仕方がなかつた。「ねえ、何とかやりくりして行きませうよ、お互ひそんな思ひ出位あつてもいゝぢやないの」と、なか子は部屋の隅の電気をまぶし気に見あげた。

 その翌る日、人目にたゝぬやうに、嘉吉は通りすがりの年寄りの屑屋を呼び、台所道具から寝具に至るまで二束三文に売り払つてしまつた。――埃のたつやうな花びよりであつたが、藁店の路地の通りは、何時ものやうに森閑としてゐる。なか子は、打水をするやうな様子をして、家主の神さんや、問屋の番頭が来はせぬかと、冷々しながら屑屋が帰へつて行くまでは、馬穴をさげて溝板の上をざぶざぶ濡らして歩いてゐた。屑屋が、幾度も足を運んで、細々した荷物を運んで行くと、二人は、がらんとした奥の居間で顔を視合はせて呆んやり笑つた。
「いくらに売れたの?」
るたよまる、さ」
「さう、仕方がないわね、弐拾七円八拾銭なんて、もう一寸で参拾円ぢやないの?」
「これだけ買つてけば上等の方さ‥‥」
 鏡台も長火鉢も売つてしまつた。流石に箪笥は大きかつたので、そのまゝにしておくことにしたのだが、何となく、なか子にはその箪笥を嘉吉が売りおしんでゐるやうな気がしてならなかつた。――日が暮れると、お互ひに着られるだけのものを身につけて小さいトランクへ二人のものを押しこみ、宵の口に戸締りをしてしまふと、二人はわざと肩をならべて戸外へ出て行つた。「あゝさばさばした」なか子は、まるで里帰へりのやうな陽気さであつたが、流石に嘉吉の心の内には苦味いものが走つてゐた。丁度六年もあの店に坐り、小さいながらも今日までやつて来た事を考へると、鼻の裏が何となく熱い。路地の出しなに、何気なく振り返へつて見ると、黄昏の灯火の下の屋根看板が、嘉吉にはおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた。あの家にも別れ、此女とも別れてしまつたら、いつたい、自分はどこをどう歩き、どこに住んでいゝのかと、嘉吉の心の裡には何とも云ひやうのない落莫としたものが去来するのであつた。
 神楽坂の通りは埃が激しくて、うすら寒むかつたが、町が明るく人通りが壮んなので、何となく活気があつた。
「ねえ、小山は、また陳列を増やしたのね、羊印のメリヤス類ときたら、家より一割五分も高く売つてるのに、どうしてあんな店がさかるのか、本当にわけが判からないわね」
「そりやア、資本だよ。あゝして陳列を増やしたり、ミツマメホールを造つたりすれば、どうしたつて足が向いてゆくよ」
 二坪ほどの一枚硝子のはまつた陳列の中に、洒落れたスウイス製のスポーツ襯衣や、中折帽子、ステツキの類まで飾ざられて、トンボの眼のやうに頭髪を光からせた洋服姿の店員が、呆んやり煙草を吸つたりしてゐる小山洋品店の前まで来ると、二人は思はず陳列の前に暫く立ちどまつてしまつた。別に立ちどまつたところで、かへつて二人とも懐古的になるだけのもので、一つ一つの品物が、二人の眼の中へ鮮かに印象されてゐると云ふわけのものでもない。
 埃の激しい町を、嘉吉となか子はそれから当てもなく新宿の方へ出て行つた。
「歯ブラシを一つ買ひたい」
 嘉吉が歯ブラシをほしいと云ふので、二人は人ごみのなかを抜けて百貨店へ這入つて行つた。夜間営業で、店内は頭痛のするやうな明るさで、造花の桜の枝が方々に飾ざつてある。化粧品売場で、安い歯ブラシをあれこれと選らんで、嘉吉が不図なか子の方を振りかへると、なか子は黙つて頬紅の円い箱を飾棚の蔭の方へ滑らせてゐた。これは悪いところを見たと、嘉吉は周章して勘定を払ひ、なか子をうながしてづんづん百貨店の裏口へ出て行つた。嘉吉はさり気ない風であつたが心のうちでは、かへつて無数の百貨店へ復讐したやうな気持ちでさへあつた。なか子は、お花見時は随分埃が激しいけれど、月が赤くつていゝとか、汽車へ乗るのは何年振りだらうとか、平気な顔をしてゐる。

 その夜の汽車で二人は熱海へ発つて行つた。
 海からはよほど遠い山手よりの小さい宿屋へ泊つた。部屋の窓を開けると、大きな月が靄でかすんでゐる。嘉吉にとつて、女を連れて旅をすると云ふことはかつて一度もないことなので、再び青春が還へつて来たやうに、なか子よりも酒がすゝんだ。あんな店がなんだ。もつと大きい商売をしてお前を愕かせてやるつもりだ。と、何時にない上機嫌で、嘉吉はなか子の肩をびしやびしやと打つたりする。――嘉吉があんな店は何だと、捨てゝ来た店の話を始めるとなか子は亡くなつた前の女房の骨壺が、かたかた音をたてゝ空を走つて来るやうなそんな、錯覚にとらはれるのであつた。女の古里へ分骨して、神棚の上に、小さい骨壺がそのまゝになつてゐたが、なか子は、嘉吉もその亡妻の骨のことを、いま考へてゐるのではないだらうかと、「あんな家なんか」と云はれる度に眉を顰かめて見せた。
 嘉吉は酔ひがまはつて来ると、「せめて五百円位あつたら」とか、「わかれたところで仕様がないぢやないか」と、子供のやうになか子の膝で声をたてゝ泣き始めたりする。

 熱海へは二晩泊つた。
 もう羽織をぬぎたい程な温かさで、裏山の梅の木林には、小さい芽がもえてゐた。呆んやりして土手の上の梅林を見てゐると、その梅林の上を汽車が走つてゐるのが時々見える。なか子はそんな景色を見ると、不図嘉吉と死んでしまひたいやうな気もするのであつたが、それはただ空想してみるだけのことで、伸びたみゝずのやうに、温い陽射しのなかへ、なか子は宿から講談本を借りて来てごろりとしてゐた。
「さア、いよいよ今夜は御帰京だな‥‥」
「‥‥‥‥」
 なか子は、何時まで未練だらだらなのと云つた嶮はしい眼つきで黙つてゐる。――二人[#「二人」は底本では「一人」]はまた夜の汽車へ乗つた。二夜を旅空であかしたけれども、これといつて、二人に徹して来るものもなく、只、他愛のない離別の雰囲気が二人を何時までも苦しめるばかりであつた。――なか子にしても、さて、現実にぶつかつて見ると、年齢もとつてゐる、自分の躯のつかれもよく知つてゐた。嘉吉とちりぢりになつて、すぐその日から幸福がやつて来やうとは思はれなかつた。嘉吉にしても、金さへあれば、妻の一人や二人そんなに未練もなかつたが 金もなく家も捨てゝしまへば、妻と別れて孤独になることは何としても淋しくて耐へられない。文字通りの身一つで、これから立つてゆかなければならないと云ふことは妻の前では雄々しいことではあつたが、四十近かい男にとつては、何とない風の吹くやうな空威張りのところが漂ひ、嘉吉にはその空虚さが何となくたまらなかつた。まだ、妻と二人で飢えた方が、どんなにか気安いのだ。
 東京へ帰へつて来ると、二人は汽車の中で相談したやうに、新宿裏の小料理屋をたづねて、女中の口を探がしてみることにした。兎に角、なか子の落ちつき場所をこしらへておいて、それから、自由な方向へ嘉吉が歩ゆんで行くと云ふのだ。
「ねえ、何だか雨が降つて来さうね」
「あゝ、少し降るぜ」
 嘉吉は、陽にやけたインバネスの肩羽根をくるりと後へめくつて、空を見上げた。わかればなしを持ち出したものゝ、こゝまで突きあたつて見れば、こいつも淋しいのに違ひないと、嘉吉は、いつそ口が見つからなかつたら、町裏の木賃宿にでも泊る、そんな覚悟でゐた。軒並みにカフヱーやとんかつ屋や、小料理屋の並んでゐる新宿裏の路地へ這入ると、なか子は風呂敷包を嘉吉にあづけて、それらしい小料理屋へ一軒づゝ這入つて行つた。だが、結局決まつたのは小さい縄のれんのやうな飲食店で、なか子は出て来るなり面目のないやうな顰めた顔をして走つて来た。
「いゝさ、当分だもの、腰かけにいゝよ、気のおけない家ぢやないか」
 嘉吉は何故か晴々とした気持ちでなか子を慰さめることが出来、かうして歩いてみて始めて、お前も自分の年齢を考へたゞらうと云はぬばかりの口ぶりで嘉吉はなか子へ風呂敷包を渡した。
「ぢやア、住所がきまつたら知らせやう。それにしても四五日は俺もあつちこつち歩いてみなけりやならないだらうし‥‥、ま、躯を大事に‥‥」
 さう云つて、嘉吉が、砂利の上に降ろしてゐたトランクを持ちあげると、なか子も二三歩それに寄り添つて歩きながら、「さつき、分けて貰つたけど、これ持つてらつしやいよ」と、ハンドバツグの中から、ありたけの銀貨をつまんで嘉吉の手へ周章てゝ握ぎらせるのであつた。
 大粒な雨が、家々の軒に光つて降り始めた。「もう、いゝよ。早く行つて気晴らしに働いた方がいゝ」さう云つて走りかけてゐた嘉吉も、大粒な雨に吃驚してガソリン屋の軒へ這入つて行つたが、雨の歩道に突き出てゐる真黒い自分の影を見ると、実際、それは、途方にくれた姿なのであつた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 ガソリン屋の軒で 二人は、藁店の家で笑ひあつたやうに、口のうちであはあは笑ひあふやうな気持ちであつた。なか子は思ひきつて軒を離れた。何時までたつても際限がないことだし 結局こんなになるものなのなら、いつそさつぱりと、自由な方向へ歩いて行つた方がいゝのだと なか子は後も振りかへらないで、船板に小磯と書いてある縄のれんの家へ這入つて行つた。土間の客は女連れで、鍋物をつゝきながら酒を呑んでゐた。なか子が帳場へ這入つて行くと、赤ん坊に乳房をふくませてゐた神さんが、裏座敷の二畳の部屋へなか子を連れてゆき、「そこいらへ荷物を置いて、表へ出てゝ頂戴」と云つた。二階が二間ばかりあつて、茶碗を叩いて唄たつてゐる客達があつた。女中達は、二人ばかりで、どれも丸髷に結ひ、渋い滝縞のまがひお召か何かで、仲々、小料理屋の縄のれんと云つても馬鹿にはならなかつた。
 疲かれてはゐたが、なか子も地味な矢絣の錦紗に、無地羽二重の片側帯を締めてゐた。女中達は、まづなか子の着物や帯に眼をやり、「暇で困るのよ」と、何気なくこぼしてゐた。

 嘉吉はなか子が去つて行くと、つくづく旅行者のやうな気持ちで、古ぼけたトランクをもてあましながら、軒をひろつて、四谷の方へぶらぶらと歩いた。雨は一寸した驟雨で、泡沫が乾いてゆくと、撒水車の通つた後のやうに、埃くさい街の舗道が、水できらきら光つてゐた。――嘉吉は、洋品店の前で何度か立ちどまつた。鳥打帽子、ネクタイ、Y襯衣、パジヤマ、色々な品物が渦をなして嘉吉の眼の中へ流れ込んで来る。――嘉吉は次から次へと洋品店の前へ来ると足を止めた。いつそ、此足で神楽坂の家へ帰へつてみやうかと思つた。帰へれないまでも自分の家がどのやうになつてゐるのか、せめて遠くからでも眺めてみたいと思ふのであつたが、夜も更けかけてゐる。稲田屋旅館と云ふ商人宿の看板が眼に止まると、嘉吉はふらふらと硝子戸を肩で開けて這入つて行つた。――生涯に於て、嘉吉はこのみぢめさを始めで終りであるやうにと、山から出て来たばかりのやうな、耳朶の真黒い小女が茶を淹れて来ると、暫くは呆んやりとそんな事を祈つてゐた。淋しいと云ふことが、掌のやうなものならば、その痩せた手のやうなものが無数に嘉吉の周囲からつかみかゝつて来る。佗しくて仕方がなかつた。嘉吉は茶をひといきに飲み、二三丁とは離れてゐない処に、なか子が一文も持たないで他人に酌をしてゐる様子を考へると、熱海にもう一晩泊つて来たらよかつたと、愚にもつかぬ思ひごとをしたり、早くから床を敷かせると、嘉吉は女のやうに瞼を熱くするのであつた。言ふことも書くことも出来なかつたが、離れてみると、なか子へ対する愛情が滝のやうに溢ふれ、漂動してゐて、何かとらへどころのなかつた不安が、金や生活ではなく、小さな女の愛情に廻流してゐたのだと、嘉吉はなか子へ向つて、「おゝい、おゝい」といまさら呼びかけるやうな気持ちであつた。
 裏窓の下を郊外電車が走つてゐる。嘉吉は何時の間にか、頭の上に灯火をつけたまゝ疲れて鼾をたてゝ寝てしまつた。

 なか子にしたところで、今度のことは、何となく気にいらないわかれかたで、あんなに、嘉吉の気質に倦き倦きしてゐながら、びつしより濡れたやうになつて働き口をみつけに何処かへ行つてしまつたとなると、女中部屋に眠つてゐても何となく寝覚めが悪るかつた。気の小さいひとだから、自殺でもしやしないだらうか、そんなことも考へる。だが、ひよいとしたら藁店の家へ帰つて平気で寝てゐるんぢやないだらうかと、なか子は嘉吉の不甲斐なさよりも、自分のおちぶれを身に浸みて感じるのであつた。いつそ、こんな佗しい思ひをするのならば、まだ藁店の店を何とか食ひつないでゐる方がよかつたとも思ふのであつたが、ミツマメホールまで経営して客を惹いてゐる小山洋品店や、あの辺一帯の大小の洋品店のことを思ふと、みんな、みんな、自分の店のやうに、はあはああえいでゐるやうな気もして来る。
 嘉吉の前ではどうしてもつけてみる気がしかなかつたが、百貨店でそつとしのばせて来た頬紅も、電気の下でみると案外派手な色であつたので、なか子は、舌打ちしたいやうな気持ちで、あゝ私はいつたいどうなるのだらうと、横になつてゐても眼がさえざえして眠ることも出来なかつた。

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