四
それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の聯珠として、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州灘の荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、掛川近くになると疲労しつくした川上は舷で脇腹をうって、海の中へ転げおちてしまった。船は覆ってしまった。奴は咄嗟にあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤をきって根かぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は淡路洲本の旗亭に呻吟する身となってしまった。その報をきいて駈付けた門弟たちは、師の病体を神戸にうつすと同時に「楠公父子桜井の訣別」という、川上一門の手馴れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに叶い、神戸における楠公様の劇である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は弥がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の恢復も速かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも行方定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる仏蘭西の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。 それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の姪の鶴子(在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川雪洲の妻)で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。 亜米利加のサンフランシスコに一行は上陸した。仲に這入った人の言葉ばかりを真に受けて、上陸後四日間ばかりをうやむやに過してしまうと、仲人は逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた莫大な借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば釘附けになって閉されている。開演しさえすればとの儚ないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に糊口にも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、病犬のように蹌々踉々として、僅かの買喰いに餓をしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、乞食の群れも同様に零落れた俳優たち、それがなんで人気を呼ぼう、当ろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも対手にはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が女形であるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。 一行は十月の異国の寒空に、幾日かの断食を修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸を嘗めた。 シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死に瀕した一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、算盤をとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。 座主の方で広告はしないとはいえ、開けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服甲冑に身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、街々を練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重い鎧を着て、勇気凛然たる顔附きをして、雪の大路を濶歩するその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、児島高徳に投げられた雑兵が、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労困憊の極に達していた。百弗の報酬を得てホテルに駈込んだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、潸々としないものはなかったという。 一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、勝れた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して星女優となったのである。しかし、暫くの間はほんの田舎廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気に罹り、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。 「俺が全快するまでは下手なことをするな。」 川上は病いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けも背かなければならなかった。それに為すこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者の髯は綺麗に剃られ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけて梳ずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、柩の中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも安易として清げなさまで、昨日までの陋苦しい有様とはあまり違って、立勝って見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指の爪まで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで繊細な気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。 病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を赫々と昂げさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは亜米利加ワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは英吉利で上村大将に遇い、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は道成寺の踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、仏蘭西のパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品に篩いをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を聳だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一弗が三弗五弗というふうに競上げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が燦としていた。
貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く拡まった。名実は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、星女優は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元(春曙)の諸氏のほかに、中村仲吉という女優(この優は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった)を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを標榜した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の檜舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある演伎を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、沙翁の「オセロ」のデスデモナを、靹音夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、伊太利の歌劇「アイーダ」を上場した。川上の旧門弟とは、貞奴がたてた川上の銅像や、郷里の墓所のことなどから、心持ちの解けあわない事があって出演しなかったが(彼らは川上の望んでいた芝高輪泉岳寺の四十七士の墓所の下へ別に師の墓を建て、東京における新派劇団からの葬式を営んだ)幸いに伊井、河合、喜多村の新派の頭立った人が応援して、諸方からの花輪、飾りもの、造りもの、積ものなどによって賑わしく、貞奴の部屋や、芝居の廊下はお浚い気分、祭礼気分のように盛んな飾りつけであった。福沢氏の催した連中は興行中を通して五千人の申込みで、その多くは招待であった事なども素晴らしい事として語りあわされた。 本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあわせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖出雲のお国と同位に置く。世にはその境遇を問わず、道徳保安者の、死んだもののような冷静、無智、隷属、卑屈、因循をもって法とし、その条件にすこしでも抵触すれば、婦徳を紛紜する。しかし、人は生きている。女性にも激しい血は流れている。人の魂を汚すようなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか? わたしは道学者でない故に、人生に悩みながら繊い腕に悪戦苦闘して、切抜け切抜けしてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇気を讃え嘉したく思う。 ああ! 貞奴。引退の後の晩年は寂寞であろう。功為り名遂げて身退くとは、古えの聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ――それも貴女は味わねばなるまい。しかし貴女は幸福であったと思う。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、楽しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな真剣であった。それゆえ貴女ほど信実の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであろう。その点で貴女は、真に生甲斐ある生活をして来たといわれる。わたしは此処に謹んで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、さようならマダム貞奴!
――大正九年三月――
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