第四編 宗教
第一章 宗教的要求
宗教的要求は自己に対する要求である、自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の真生命を得んと欲するの要求である。パウロが「すでにわれ生けるにあらず基督我にありて生けるなり」といったように、肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるのである。基督が「十字架を取りて我に従はざる者は我に協はざる者なり」といったように、一点なお自己を信ずるの念ある間は未だ真正の宗教心とはいわれないのである。 現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、徒らに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。されば『歎異鈔』にも「わが心に往生の業をはげみて申すところの念仏も自行になすなり」といってある。また基督教においてもかの単に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真の基督教ではない。これらは凡て利己心の変形にすぎないのである。しかのみならず、余は現時多くの人のいう如き宗教は自己の安心の為であるということすら誤っているのではないかと思う。かかる考をもっているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々の已まんと欲して已む能わざる大なる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。 主意説の心理学者のいうように、意志は精神の根本的作用であって、凡ての精神現象が意志の形をなしているとすれば、我々の精神は欲求の体系であって、この体系の中心となる最も有力なる欲求が我々の自己であるということとなる。而してこの中心より凡てを統一して行くこと即ち自己を維持発展することが我々の精神的生命である。この統一の進行する間は我々は生きているのであるが、もしこの統一が破れたときには、たとい肉体において生きているにもせよ、精神においては死せるも同然となるのである。然るに我々は個人的欲求を中心として凡てを統一することができるであろうか。即ち、個人的生命はどこまでも維持発展することのできるものであろうか。世界は個人の為に造られたる者ではなく、また個人的欲求が人生最大の欲求でもない。個人的生命は必ず外は世界と衝突し内は自ら矛盾に陥らねばならぬ。ここにおいて我々は更に大なる生命を求めねばならぬようになる、即ち、意識中心の推移に由りて更に大なる統一を求めねばならぬようになるのである。かくの如き要求は凡て我々の共同的精神の発生の場合においてもこれを見ることができるのであるが、ただ宗教的要求はかかる要求の極点である。我々は客観的世界に対して主観的自己を立しこれに由りて前者を統一せんとする間は、その主観的自己はいかに大なるにもせよ、その統一は未だ相対的たるを免れない、絶対的統一はただ全然主観的統一を棄てて客観的統一に一致することに由りて得られるのである。 元来、意識の統一というのは意識成立の要件であって、その根本的要求である。統一なき意識は無も同然である、意識は内容の対立に由りて成立することができ、その内容が多様なればなる程一方において大なる統一を要するのである。この統一の極まる所が我々のいわゆる客観的実在というもので、この統一は主客の合一に至ってその頂点に達するのである。客観的実在というのも主観的意識を離れて別に存在するのではない、意識統一の結果、疑わんと欲して疑う能わず、求めんと欲してこれ以上に求むるの途なきものをいうのである。而してかくの如き意識統一の頂点即ち主客合一の状態というのは啻に意識の根本的要求であるのみならずまた実に意識本来の状態である。コンジャックがいったように、我々が始めて光を見た時にはこれを見るというよりもむしろ我は光其者である。凡て最初の感覚は小児に取りては直に宇宙其者でなければならぬ。この境涯においては未だ主客の分離なく、物我一体、ただ、一事実あるのみである。我と物と一なるが故に更に真理の求むべき者なく、欲望の満すべき者もない、人は神と共にあり、エデンの花園とはかくの如き者をいうのであろう。然るに意識の分化発展するに従い主客相対立し、物我相背き、人生ここにおいて要求あり、苦悩あり、人は神より離れ、楽園は長えにアダムの子孫より鎖されるようになるのである。しかし意識はいかに分化発展するにしても到底主客合一の統一より離れることはできぬ、我々は知識において意志において始終この統一を求めているのである。意識の分化発展は統一の他面であってやはり意識成立の要件である。意識の分化発展するのはかえって一層大なる統一を求めるのである。統一は実に意識のアルファでありまたオメガであるといわねばならぬ。宗教的要求はかくの如き意味における意識統一の要求であって、兼ねて宇宙と合一の要求である。 かくして宗教的要求は人心の最深最大なる要求である。我々は種々の肉体的要求やまた精神的要求をもっている。しかしそは皆自己の一部の要求にすぎない、独り宗教は自己其者の解決である。我々は知識においてまた意志において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお半面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一を求めるのである、知意未分以前の統一を求めるのである。我々の凡ての要求は宗教的要求より分化したもので、またその発展の結果これに帰着するといってよい。人智の未だ開けない時は人々かえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問は何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者の要求である。かかる問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。
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第二章 宗教の本質
宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う、而して人とは我々の個人的意識をさすのである。この両者の関係の考え方に由って種々の宗教が定まってくるのである。然らば如何なる関係が真の宗教的関係であろうか。もし神と我とはその根柢において本質を異にし、神は単に人間以上の偉大なる力という如き者とするならば、我々はこれに向って毫も宗教的動機を見出すことはできぬ。或はこれを恐れてその命に従うこともあろう、或はこれに媚びて福利を求めることもあろう。しかしそは皆利己心より出づるにすぎない、本質を異にせる者の相互の関係は利己心の外に成り立つことはできないのである。ロバルトソン・スミスも「宗教は不可知的力を恐れるより起るのではない、己と血族の関係ある神を敬愛するより起るのである、また宗教は個人が超自然力に対する随意的関係ではなくして、一社会の各員がその社会の安寧秩序を維持する力に対する共同的関係である」といっている。凡ての宗教の本には神人同性の関係がなければならぬ、即ち父子の関係がなければならぬ。しかし単に神と人と利害を同じうし神は我らを助け我らを保護するというのでは未だ真の宗教ではない、神は宇宙の根本であって兼ねて我らの根本でなければならぬ、我らが神に帰するのはその本に帰するのである。また神は万物の目的であって即ちまた人間の目的でなければならぬ、人は各神において己が真の目的を見出すのである。手足が人の物なるが如く、人は神の物である。我々が神に帰するのは一方より見れば己を失うようであるが、一方より見れば己を得る所以である。基督が「その生命を得る者はこれを失い我が為に生命を失う者はこれを得べし」といわれたのが宗教の最も醇なる者である。真の宗教における神人の関係は必ず斯の如き者でなければならぬ。我々が神に祈りまたは感謝するというも、自己の存在の為にするのではない、己が本分の家郷たる神に帰せんことを祈りまたこれに帰せしことを感謝するのである。また神が人を愛するというのもこの世の幸福を与うるのではない、これをして己に帰せしめるのである。神は生命の源である、我はただ神において生く。かくありてこそ宗教は生命に充ち、真の敬虔の念も出でくるのである。単に諦めるといい、任すという如きは尚自己の臭気を脱して居らぬ、未だ真の敬虔の念とはいわれない。神において真の自己を見出すなどいう語は或は自己に重きを置くように思われるかも知らぬが、これかえって真に己をすてて神を崇ぶ所以である。 神人その性を同じうし、人は神においてその本に帰すというのは凡ての宗教の根本的思想であって、この思想に基づくものにして始めて真の宗教と称することができると思う。しかし斯の如き一思想の上においてもまた神人の関係を種々に考えることができる。神は宇宙の外に超越せる者であって、外より世界を支配し人に対しても外から働くように考えることもでき、または神は内在的であって、人は神の一部であり神は内より人に働くと考えることもできる。前者はいわゆる有神論 theism の考であって、後者はいわゆる汎神論 pantheism の考である。後者の如く考うる時は合理的であるかも知らぬが、多くの宗教家はこれに反対するのである。何となれば神と自然とを同一視することは神の人格性をなくすることになり、また万有を神の変形の如くに見做すのは神の超越性を失いその尊厳を害うばかりでなく、悪の根源も神に帰せねばならぬような不都合も出てくるのである。しかしよく考えて見ると、汎神論的思想に必ずこれらの欠点があるともいえず、有神論に必ずこれらの欠点がないともいわれない。神と実在の本体とを同一視するも、実在の根本が精神的であるとすれば必ずしも神の人格性を失う事とはならぬ。またいかなる汎神論であっても個々の万物そのままが直に神であるというのではない、スピノーザ哲学においても万物は神の差別相 modes である。また有神論においても神の全知全能とこの世における悪の存在とは容易に調和することはできぬ。こは実に中世哲学においても幾多の人の頭を悩ました問題であったのである。 超越的神があって外から世界を支配するという如き考は啻に我々の理性と衝突するばかりでなく、かかる宗教は宗教の最深なる者とはいわれないように思う。我々が神意として知るべき者は自然の理法あるのみである、この外に天啓というべき者はない。勿論神は不可測であるから、我々の知る所はその一部にすぎぬであろう。しかしこの外に天啓なるものがあるにしても我々はこれを知ることはできまい、またもしこれに反する天啓ありとすれば、こはかえって神の矛盾を示すのである。我々が基督の神性を信ずるのは、その一生が最深なる人生の真理を含む故である。我々の神とは天地これに由りて位し万物これに由りて育する宇宙の内面的統一力でなければならぬ、この外に神というべきものはない。もし神が人格的であるというならば、此の如き実在の根本において直に人格的意義を認めるとの意味でなくてはならぬ。然らずして別に超自然的を云々する者は、歴史的伝説に由るにあらざれば自家の主観的空想にすぎないのである。また我々はこの自然の根柢において、また自己の根柢において直に神を見ればこそ神において無限の暖さを感じ、我は神において生くという宗教の真髄に達することもできるのである。神に対する真の敬愛の念はただこの中より出でくることができる。愛というのは二つの人格が合して一となるの謂であり、敬とは部分的人格が全人格に対して起す感情である。敬愛の本には必ず人格の統一ということがなければならぬ。故に敬愛の念は人と人との間に起るばかりでなく、自己の意識中においても現われるのである。我々のきのう、きょうと相異なれる意識が同一なる意識中心を有するが故に自敬自愛の念を以て充されると同じように、我々が神を敬し神を愛するのは神と同一の根柢を有するが故でなければならぬ、我々の精神が神の部分的意識なるが故でなければならぬ。勿論神と人とは同一なる精神の根柢を有するも、同一なる思想を有する二人の精神が互に独立するが如く独立すると考えることもできるであろう。しかしこは肉体より見て時間および空間的に精神を区別したのである。精神においては同一の根柢を有する者は同一の精神である。我々の日々に変ずる意識が同一の統一を有するが故に同一の精神と見られるが如くに、我々の精神は神と同一体でなければならぬ。かくして我は神において生くというのも単に比喩ではなくして事実であることができる(ウェストコットというビショップも約翰伝第十七章第二十一節に註して「信者の一致とは単に目的感情等の徳義上の合一 moral unity ではなくして生命の合一 vital unity である」といっている)。 かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。即ち我々は意識の根柢において自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである。信念というのは伝説や理論に由りて外から与えらるべき者ではない、内より磨き出さるべき者である。ヤコブ・ベーメのいったように、我々は最深なる内生 die innerste Geburt に由りて神に到るのである。我々はこの内面的再生において直に神を見、これを信ずると共に、ここに自己の真生命を見出し無限の力を感ずるのである。信念とは単なる知識ではない、かかる意味における直観であると共に活力であるのである。凡て我々の精神活動の根柢には一つの統一力が働いている、これを我々の自己といいまた人格ともいうのである。欲求の如きはいうまでもなく、知識の如き最も客観的なる者もこの統一力即ち各人の人格の色を帯びておらぬ者はない。知識も欲望も皆この力に由りて成立するのである。信念とはかくの如く知識を超越せる統一力である。知識や意志に由りて信念が支えられるというよりも、むしろ信念に由りて知識や意志が支えられるのである。信念はかかる意味において神秘的である。信念が神秘的であるというのは知識に反するの意味ではない、知識と衝突する如き信念ならばこれを以て生命の本となすことは出来ぬ。我々は知を尽し意を尽したる上において、信ぜざらんと欲して信ぜざる能わざる信念を内より得るのである。
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第三章 神
神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直にこの実在の根柢と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である。宇宙は神の所作物ではなく、神の表現 manifestation である。外は日月星辰の運行より内は人心の機微に至るまで悉く神の表現でないものはない、我々はこれらの物の根柢において一々神の霊光を拝することができるのである。 ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたというように我々は自然の現象を研究すればする程、その背後に一つの統一力が支配しているのを知ることができる。学問の進歩とはかくの如き知識の統一をいうにすぎないのである。かく外は自然の根柢において一つの統一力の支配を認むるように、内は人心の根柢においても一つの統一力の支配を認めねばならぬ。人心は千状万態殆ど定法なきが如くに見ゆるも、これを達観する時は古今に通じ東西に亙りて偉大なる統一力が支配しているようである。更に進んで考える時は、自然と精神とは全然没交渉の者ではない、彼此密接の関係がある。我々はこの二者の統一を考えずには居られない、即ちこの二者の根柢に更に大なる唯一の統一力がなければならぬ。哲学も科学も皆この統一を認めない者はないのである。而してこの統一が即ち神である。勿論唯物論者や一般の科学者のいうように、物体が唯一の実在であって万物は単に物力の法則に従うものならば神というようなものを考えることはできぬであろう。しかし実在の真相は果してかくの如き者であろうか。 余が前に実在について論じたように、物体というも我々の意識現象を離れて別に独立の実在を知り得るのではない。我々に与えられたる直接経験の事実はただこの意識現象あるのみである。空間といい、時間といい、物力といい皆この事実を統一説明する為に設けられたる概念にすぎない。物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。具体的事実に近づけば近づくほど個人的となる。最も具体的なる事実は最も個人的なる者である。この故に原始的説明は神話においてのように凡て擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的となり抽象的となり遂に純物質という如き概念を生ずるに至ったのである。しかしかくの如き説明は極めて外面的で浅薄なると共に、かかる説明の背後にも我々の主観的統一なる者の潜んでいることを忘れてはならぬ。最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰はこの自己にあるのである。物体に由りて精神を説明しようとするのはその本末を顛倒した者といわねばならぬ。 ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉にすぎない。意識はすべて統一に由りて成立するのである。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総べての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達するのである(意識統一を個人的意識内に限るは純粋経験に加えたる独断にすぎない)。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずるのである。ロイスも「自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている」といっている(Royce, The World and the Individual, Second Series, Lect. IV)。それで自然界の統一というのも畢竟意識統一の一種にすぎないということになる。元来精神と自然と二種の実在があるのではない、この二者の区別は同一実在の見方の相違より起るのである。直接経験の事実においては主客の対立なく、精神物体の区別なく、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。ただかくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。換言すれば知覚の連続においては主客の別はない、ただこの対立は反省に由って起ってくるのである。実在体系の衝突の時、その統一作用の方面が精神と考えられ、これが対象としてこれに対抗する方面が自然と考えられるのである。しかしいわゆる客観的自然もその実主観的統一を離れて存することはできず、主観的統一というも統一の対象即ち内容なき統一のある筈はない。両者共に同一種の実在であってただその統一の形を異にするのである。且つかくいずれか一方に偏せるものは抽象的で不完全なる実在である。かかる実在は両者の合一において始めて完全なる具体的実在となるのである。精神と自然との統一というものは二種の体系を統一するのではない、元来同一の統一の下にあるのである。 かく実在に精神と自然との別なく、従うて二種の統一あることなく、ただ同一なる直接経験の事実その物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、余が前にいった実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢でなければならぬ。然るにすべて我々の意識現象は体系をなした者である。超個人的統一に由りて成れるいわゆる自然現象といえどもこの形式を離れることはできぬ。統一的或者の自己発展というのが凡ての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做される如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は単に比喩ではなくして事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である、否、我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来るのである。小は我々の一喜一憂より大は日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由らぬものはない。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれたのである。 然らばかくの如き意味において宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者であろうか。精神を支配する者は精神の法則でなければならぬ。物質という如き者は上にいったように、説明の為に設けられたる最も浅薄なる抽象的概念に過ぎない。精神現象とはいわゆる知情意の作用であって、これを支配する者はまた知情意の法則でなければならぬ。而して精神は単にこれらの作用の集合ではなく、その背後に一の統一力があって、これらの現象はその発現である。今この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格であるといわねばならぬ。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなさぬものはない、宇宙は神の人格的発現ということとなるのである。しかしかくいうも余は或一派の人々の考うるように、神は宇宙の外に超越し、宇宙の進行を離れて別に特殊なる思想、意志を有する我々の主観的精神の如き者と考えることはできぬ。神においては知即行、行即知であって、実在は直に神の思想でありまた意志でなければならぬ(Spinoza, Ethica, I Pr. 17 Schol. を見よ)。我々の主観的思惟および意志という如き者は種々の体系の衝突より起る不完全なる抽象的実在である。かくの如き者を以て直に神に擬することはできぬ。イリングウォルスという人は『人および神の人格』と題する書中において、人格の要素として自覚、意志の自由、および愛の三つをあげている。しかしこの三つの者を以て人格の要素となす前に、これらの作用が実地において如何なる事実を意味しおるかを明にして置かねばならぬ。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如く意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用の外にない、この統一がかわれば自己もかわる、この外に自己の本体というようの者は空名にすぎぬのである。我々が内に省みて一種特別なる自己の意識を得るように思うが、そは心理学者のいう如くこの統一に伴う感情にすぎない。かくの如き意識あってこの統一が行われるのではなく、この統一あってかくの如き意識を生ずるのである。この統一其者は知識の対象となることはできぬ、我々は此者となって働くことはできるが、これを知ることはできぬ。真の自覚はむしろ意志活動の上にあって知的反省の上にないのである。もし神の人格における自覚というならば、この宇宙現象の統一が一々その自覚でなければならぬ。たとえば三角形の総べての角の和は二直角なりというは何人も何の時代にもかく考えねばならぬ。これも神の自覚の一つである。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識であるといってよかろう。万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神には過去も未来もない、時間、空間は宇宙的意識統一に由りて生ずるのである、神においては凡てが現在である。アウグスチヌスのいったように、時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はないのである。 次に意志の自由ということにも色々の意味はあるが、真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味でなければならぬ。全く原因のない意志というようのことは啻に不合理であるばかりでなく、此の如きものは自己においても全く偶然の出来事であって、自己の自由的行為とは感ぜられぬであろう。神は万有の根本であって、神の外に物あることなく、万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。かくいえば、神は自己の性質に束縛せられその全能を失うように見えるかも知らぬが、自己の性質に反して働くというのは自己の性質の不完全なるか或はその矛盾を示すものである。神の完全にして全知なることと彼の不定的なる自由意志とは両立することはできまいと思う。アウグスチヌスも「神の意志は不変であって時に欲し時に欲せず、況んや前の決断を後に翻えす如きものにあらず」といっている(Conf. XII. 15)。選択的意志というが如きはむしろ不完全なる我々の意識状態に伴うべきものであって、これを以て神に擬すべきものではない。たとえば我々が充分に熟達した事柄においては少しも選択的意志を入るるの余地がない、選択的意志は疑惑、矛盾、衝突の場合に必要となるのである。勿論誰もいう如く知るという中には已に自由ということを含んでおる、知は即ち可能を意味しているのである。しかしその可能とは必ずしも不定的可能の意味でなければならぬことはない。知とは反省の場合にのみいうべきではない、直覚も知である。直覚の方がむしろ真の知である。知が完全となればなる程かえって不定的可能はなくなるのである。かく神には不定的意志即ち随意ということがないのであるから、神の愛というのも神は或人々を愛し、或人々を憎み、或人々を栄えしめ、或人々を亡ぼすという如き偏狭の愛ではない。神は凡ての実在の根柢として、その愛は平等普遍でなければならず、且つその自己発展その者が直に我々に取りて無限の愛でなければならぬ。万物自然の発展の外に特別なる神の愛はないのである。元来愛とは統一を求むるの情である、自己統一の要求が自愛であり、自他統一の要求が他愛である。神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、エッカルトのいったように神の他愛は即ちその自愛でなければならぬ。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛するのである。エッカルトはまた神の人を愛するは随意の行動ではなく、かくせねばならぬのであるといっている。 以上論じたように、神は人格的であるというも直にこれを我々の主観的精神と同一に見ることはできぬ、むしろ主客の分離なく物我の差別なき純粋経験の状態に比すべきものである。この状態が実に我々の精神の始であり終であり、兼ねてまた実在の真相である。基督が心の清き者は神を見るといい、また嬰児の若くにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいているのである。純粋経験というも単に知覚的意識をさすのでない。反省的意識の背後にも統一があって、反省的意識はこれに由って成立するのである、即ちこれもまた一種の純粋経験である。我々の意識の根柢にはいかなる場合にも純粋経験の統一があって、我々はこの外に跳出することはできぬ(第一編を看よ)。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができ(Storz, Die Philosophie des HL. Augstinus, §20)、またエッカルトの「神性」 Gottheit およびベーメの「物なき静さ」Stille ohne Wesen といえる語の意味も窺うことができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して湛然不動でなければならぬ、而も変化はこれより起ってくるのである、即ち動いて動かざるものである。また意識の統一は知識の対象となることはできぬ、総べての範疇を超越している、我々はこれに何らの定形を与うることもできぬ、而も万物はこれに由りて成立するのである。それで神の精神という如きことは、一方より見ればいかにも不可知的であるが、また一方より見ればかえって我々の精神と密接しているのである。我々はこの意識統一の根柢において直に神の面影に接することができる。故にベーメも「天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり」といいまた「最深なる内生に由って神に到る」といっている(Morgenrote[])。 或人はいうであろう、右の如く論じた時には、神は物の本質と同一となり、よし精神的なりとするも理性または良心と何らの区別なく、その生きた個人的人格を失うようになるではなかろうか。個人性はただ不定的自由意志より生ずることができるのである(これかつて中世哲学においてスコトゥスがトーマスに反対せる論点であった)。かかる神に対して我々は決して宗教的感情を起すことはできぬ。宗教においては罪は単に法を破るのではない、人格に背くのである、後悔は単に道徳的後悔ではない、親を害し恩人に背いた切なる後悔である。アルスキン Erskine of Linlathen は「宗教と道徳とは良心の背後に人格を認むると否とに由って分れる」といっている。しかしヘーゲルなどのいったように、真の個人性というのは一般性を離れて存するものではない、一般性の限定せられたもの、bestimmte Allgemeinheit が個人性となるのである。一般的なる者は具体的なる者の精神である。個人性とは一般性に外より他の或者を加えたのではない、一般性の発展したものが個人性となるのである。何らの内面的統一もない単に種々の性質の偶然的結合というような者には個人性というべきものはない。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己自身を限定する self-determination の謂である。三角形の概念が種々の三角形に分化し得るように、或一般的なる者がその中に含める種々なる限定の可能を自覚するのが自由の感である。全く基礎のない絶対的自由意志よりはかえって個人的自覚は起らぬであろう。個性に理由なし ratio singularitatis frustra quaeritur という語もあれど、真にかくの如き個人性は何らの内容なき無と同一でなければならぬ。ただ具体的なる個人性は抽象的概念にて知ることができぬまでである。抽象的概念に現わすことのできない個人性でも画家や小説家の筆にて鮮かに現わすことができるのである。 神が宇宙の統一であるというのは単に抽象的概念の統一ではない、神は我々の個人的自己のように具体的統一である、即ち一の生きた精神である。我々の精神が上にいった意味で個人的であるといい得るように、神も個人的といい得るであろう。理性や良心は神の統一作用の一部であろうが、その生きた精神その者ではない。かくの如き神性的精神の存在ということは単に哲学上の議論ではなくして、実地における心霊的経験の事実である。我々の意識の底には誰にもかかる精神が働いているのである(理性や良心はその声である)。ただ我々の小なる自己に妨げられてこれを知ることができないのである。たとえば詩人テニスンの如きも次の如き経験をもっておった。氏が静に自分の名を唱えていると、自己の個人的意識の深き底から、自己の個人が溶解して無限の実在となる、而も意識は決して朦朧たるのではなく最も明晰確実である。この時死とは笑うべき不可能事で、個人の死という事が真の生であると感ぜられるといっている。氏は幼時より淋しき独居の際においてしばしばかかる事を経験したという。また文学者シモンズ J. A. Symonds の如きも、我々の通常の意識が漸々薄らぐと共にその根柢にある本来の意識が強くなり、遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残るといっている。その外、宗教的神秘家のかかる経験を挙げれば限もないのである(James, The Varieties of Religious Experience, Lect. XVI, XVII)。或はかかる現象を以て尽く病的となすかも知らぬがその果して病的なるか否かは合理的なるか否かに由って定まってくる。余がかつて述べたように、実在は精神的であって我々の精神はその一小部分にすぎないとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは毫も怪むべき理由がない。我々の小意識の範囲を固執するのがかえって迷であるかも知れぬ。偉人には必ず右のように常人より一層深遠なる心霊的経験がなければならぬと思う。
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