絶対矛盾的自己同一の世界の個物として、我々の自己は表現作用的であり、行為的直観的に制作的身体的に物を見るから働く。作られたものから作るものへとして、我々は作られたものにおいて身体を有つ、即ち歴史的身体的である。斯(か)くいうのは、我々人間は何処までも社会的ということでなければならない。ホモ・ファーベルはゾーン・ポリティコンであり、その故にまたロゴン・エコーンである。家族というものが、人間の社会的構成の出立点であり、社会の細胞と考えられる。進化論的に考えれば、人間の家族も動物の集団本能の如きものに基(もとづ)くとも考えられるであろう。ゴリラが多くの牝(めす)を連れて生活しおるのは、原始人の生活と同様であるといわれる。しかしマリノースキイなどのいうように、動物の本能的集団と人間の社会とは、一言にいえば本能と文化とは根本的に異なったものでなければならない(Malinowski, Sex and Repression in Savage Society[『原始社会における性と抑圧』])。エディプス複合の如きものが、既に人間の家族というものが社会的であって動物のそれと異なることを示すものであろう。本能というのは、有機的構造に基いた、或種に通じての行動の型である。動物の共同作業というものも、本能の内的応化によって支配せられているのである。それは人間の社会的構造とは異なったものである。人間の社会的構造には、それが如何に原始的なものであっても、個人というものが入っていなければならない。何処までも集団的ではあるが、個人が非集団的にも働くということが含まれていなければならない。故に動物の本能的集団というものは与えられたものたるに反し、人間の社会というのは作られて作り行くものでなければならない。多くの人が原始社会を唯団体的と考えるのに反し、私はマリノースキイなどの如く始(はじめ)から個人というものを含んでいるという考に同意したいと思うのである。原始社会にも罪というものがあるのである(Malinowski, Crime and Custom in Savage Society[『原始社会における犯罪と慣習』])。それは社会というものが動物の本能的集団と異なり、多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへと動き行くものたるを示すものでなければならない。個物は本能的適応的に働くのではなくして、既に表現的形成的でなければならない。原始社会構造において近親相姦(そうかん)禁止というものが強き意義を有するように、社会は本能の抑圧を以て始まると考えられる。夫婦親子兄弟の関係がすべて本能的でなく、一々制度的に束縛せられる所に、社会というものがあるのである。 かかる社会の成立の根拠は何処にあるか。既にいった如く、それは作られたものから作るものへ、即ち主体と環境との矛盾的自己同一にあるのでなければならない。社会はポイエシスから始まるということができる。動物の本能的集団という如きものから、原始社会が区別せられるのに、色々特徴が挙げられる。しかしそれはすべてポイエシスということから考えられねばならない。私が社会を歴史的身体的と考える所以(ゆえん)である。社会は一つの経済的機構と考えられるであろう。社会は何処までも物質的生産的でなければならない。そこに社会の実在的基礎がある。しかしそれはいうまでもなく、ポイエシス的でなければならない。人間は用具を有(も)つということによって、動物から区別せられる。そして作られたものから作るものへとして、社会の経済的機構が発展して行く。家族制度の如きも、一面にはかかる経済的機構から考えられるであろう。財産制度の起源については、色々の学説があるようであるが、我々が物において自己の身体を有つという歴史的身体的形成から成立すると考えなければなるまい。 矛盾的自己同一として自己自身を形成する世界は、一面には環境から主体へということでなければならない。それを生物的生命的といったが、人間に至ってもそれを脱するというのではない。而して矛盾的自己同一としての人間の世界に至っては、それは単に本能的でなく、表現的形成的でなければならない。それが環境が何処までも自己否定によって主体的となるということである。矛盾的自己同一的な人間の世界では、主体が自己を環境に没することによって主体であり、環境が自己否定によって主体的となることによって環境でなければならない。而して世界が斯(か)くあるということは、何処までも自己自身の中に世界を映し表現的形成的である個物が、自己自身を形成する世界の一角として爾(しか)あるということでなければならない。かかる世界において個物が客観界において自己を有(も)つ、即ち物において自己を有つということが我々が財産を有つということである。故に我々が財産を有つということは、単に個人の働きによって爾いい得るのではなく、客観的世界によって承認せられなければならない、世界において或個人の物として表現せられねばならない、主権から認められなければならない。多と一との矛盾的自己同一として表現的に自己自身を形成する世界は、法律的でなければならない。我々が物において身体を有つということは法律的でなければならない。ヘーゲルによるも(Philos. d.Rechts. §29)、存在が自由意志的存在と見られることが法律である。作られたものから作るものへとして、我々がポイエシス的である、歴史的身体的であるということは、我々の社会が本能的ではなく、既に法律的であるということでなければならない。ポイエシスということが可能なるのは、法律的に構成せられた世界においてでなければならない。人類学者のいう所によれば、原始社会の生産作用も広義において法律的に支配せられているのである。而してまたそれらの社会制度は逆にポイエシス的生産の可能発展の形態ということができる、即ち特殊的な一種の歴史的生産様式であるのである。作られたものから作るものへとしての歴史的生産の世界は、環境的には何処までも物質的生産的でなければならない。そこにマキァヴェリ的なシュターツ・レーゾンの根拠がある。そしてそれが歴史的生産的世界の成立の条件とならねばならない。 作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界は作られたものからとして、物質的生産的でなければならない。社会は経済機構を有たなければならない、物質的生産的様式でなければならない。しかしそれは、世界が機械的だということでもなく、単に合目的的だということでもない。世界が一つの現在として自己形成的だということである。そこには既に矛盾的自己同一として歴史的形成作用が働いていなければならない。世界が矛盾的自己同一的に絶対に触れるということがなければならない。社会成立の根柢に宗教的なるものが働いているのである。故に原始社会はミトス的である。原始社会においては、神話は人間世界を支配する生きた実在であるのである(Malinowski, Myth in Primitive Psychology[『原始的心理における神話』])。古代宗教は宗教というよりもむしろ社会制度であるといわれる(Robertson Smith)。私は社会形成の根柢にはディオニュソス的なものが働いていると思う。ディオニュソス的舞踊から神々が生れたというハリソンの如き考に興味を有つのである(Jane Harrison, Themis)。或地理的環境に或民族が住むことによって、或文化が形成せられると考えられる。地理的環境が文化形成の重大な因子となるはいうまでもない。しかし地理的環境が文化を形成するのでもなく、民族といっても歴史的形成前に潜在的に民族というものがあるのではない。民族というのも、形成することによって形成せられ行くものでなければならない。世界が矛盾的自己同一的現在として自己自身を形成する時、それは生命の世界である、無限なる形の世界、種の世界である。動物においてはそれは本能的であるが、人間においてはそれはデモーニッシュである。そして動物においても然るが如く、それが作られたものから作るものへとして、創造的形成的なるかぎり生きた種であるのである。民族というのは、かかるデモーニッシュな形成力でなければならない。作られたものから作るものへということは、作られたものは、種から作られたものでありながら、作るものを作るとしてイデヤ的である、世界的であるということである、種の形成が歴史的生産様式的であるということである。矛盾的自己同一的に何処までもかかる方向に進むことが歴史的発展の方向にほかならない。