と、あとの人(ひと)が主張(しゅちょう)した。僕(ぼく)はきいていておかしくなった。爆弾(ばくだん)にも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、この人(ひと)たちは知(し)らないらしい。しかし僕(ぼく)にも五十キロの爆弾(ばくだん)ならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。 いよいよごんごろ鐘(がね)は出発(しゅっぱつ)した。老人達(ろうじんたち)は、また仏(ほとけ)の御名(みな)を唱(とな)えながら、鐘(かね)にむかって合掌(がっしょう)した。 鐘(かね)には吉彦(よしひこ)さんがひとりついて、町(まち)の国民学校(こくみんがっこう)の校庭(こうてい)までゆくことになっていた。そこには、近(ちか)くの村々(むらむら)からあつめられた屑鉄(くずてつ)の山(やま)があるということだった。 ぼくたち村(むら)の子供(こども)は、見送(みおく)るつもりでしばらく鐘(かね)のうしろについていった。来(こ)さん坂(ざか)[#「来さん坂」に傍点]もすぎたが、誰一人(だれひとり)帰(かえ)ろうとしなかった。小松山(こまつやま)のそばまで来(き)たが、まだ誰(だれ)も帰(かえ)るようすを見(み)せなかった。帰(かえ)るどころか、みんなの顔(かお)には、町(まち)まで送(おく)ってゆこう、という決意(けつい)があらわれていた。 しかし僕(ぼく)たちは小(ちい)さい子供(こども)はつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松男君(まつおくん)の提案(ていあん)で、新(しん)四年(ねん)以下(いか)の者(もの)はしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]から村(むら)へ帰(かえ)り、新(しん)五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)が、町(まち)までついてゆくことにきまった。 しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]で、十五人(にん)ばかりの小(ちい)さい者(もの)がうしろに残(のこ)った。ところが、そこでちょっとした争(あらそ)いが起(お)こった。新(しん)四年(ねん)だから、帰(かえ)らねばならないはずの比良夫君(ひらおくん)が、帰(かえ)ろうとしなかったからだ。五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)が、帰(かえ)れ帰(かえ)れ、というと、比良夫君(ひらおくん)はいうのだった。 「俺(おれ)あ、今(いま)四年(ねん)だけれど、一年(ねん)のときいっぺんすべっとる(落第(らくだい)している)で、年(とし)は五年(ねん)とおんなじだ。」 なるほど、それも一つのりくつである。しかし五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)は、そんなりくつは通(とお)させなかった。とうとう腕(うで)ずくで解決(かいけつ)をつけることになった。 松男君(まつおくん)が比良夫君(ひらおくん)に引(ひ)っ組(く)んだ。そして足掛(あしか)けで倒(たお)そうとしたが、比良夫君(ひらおくん)は相撲(すもう)の選手(せんしゅ)だから、逆(ぎゃく)に腰(こし)をひねって松男君(まつおくん)を投(な)げ出(だ)してしまった。 こんどは用吉君(ようきちくん)が、得意(とくい)の手(て)で相手(あいて)の首(くび)をしめにかかったが、反対(はんたい)に自分(じぶん)の首(くび)をしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。 そんなことをしている間(あいだ)に、鐘(かね)をのせた牛車(ぎゅうしゃ)はもうしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]をおりてしまっていた。五年(ねん)以上(いじょう)の者(もの)は、気(き)がせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついに鐘(かね)にいってしまわれるおそれがあった。そこで、比良夫君(ひらおくん)のことなんかほっといて、みんな鐘(かね)めがけて走(はし)った。総勢(そうぜい)十五人(にん)ほどであった。鐘(かね)に追(お)いついてみると、ちゃんと比良夫君(ひらおくん)がうしろについて来(き)ていた。みんなは少(すこ)しいまいましく思(おも)ったが、考(かんが)えてみると、それだけ比良夫君(ひらおくん)の熱心(ねっしん)がつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君(ひらおくん)を許(ゆる)してやることにした。 川(かわ)の堤(つつみ)に出(で)たとき、紋次郎君(もんじろうくん)が猫柳(ねこやなぎ)の枝(えだ)を折(お)って来(き)て鐘(かね)にささげた。ささげたといっても、鐘(かね)のそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫柳(ねこやなぎ)をはじめ、桃(もも)や、松(まつ)や、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペン草(ぐさ)までとって来(き)て鐘(かね)にささげた。鐘(かね)はそれらの花(はな)や葉(は)でうずまってしまった。 こうして僕(ぼく)たちは村(むら)でただひとつのごんごろ鐘(がね)を送(おく)っていった。
三月(がつ)二十三日(にち) ひるまえ、南道班(みなみみちはん)子供常会(こどもじょうかい)をするために尼寺(あまでら)へいった。 いつも常会(じょうかい)をひらくまえに、境内(けいだい)をみんなで掃除(そうじ)することになっているのだが、きょうは僕(ぼく)はひとつみんなの気(き)のつかないところをしてやろうと、御堂(みどう)の裏(うら)へまわって、藪(やぶ)と御堂(みどう)の間(あいだ)のしめった落(お)ち葉(ば)をはいた。裏(うら)へまわっていいことをしたと思(おも)った。それは僕(ぼく)の好(す)きな白椿(しろつばき)が咲(さ)いているのを見(み)つけたからだ。 何(なん)というよい花(はな)だろう。白(しろ)い花(か)べんがふかぶかとかさなりあい、花(か)べんの影(かげ)がべつの花(か)べんにうつって、ちょっとクリーム色(いろ)に見(み)える。神(かみ)さまも、この花(はな)をつつむには、特別上等(とくべつじょうとう)の澄(す)んだやわらかな春光(しゅんこう)をつかっていらっしゃるとしか思(おも)えない。そのうえ、またこの木(き)の葉(は)がすばらしい。一枚(まい)一枚(まい)名工(めいこう)がのみで彫(ほ)ってつけたような、厚(あつ)い固(かた)い感(かん)じで、黒(くろ)と見(み)えるほどの濃緑色(のうりょくしょく)は、エナメルをぬったようにつややかで、陽(ひ)のあたる方(ほう)の葉(は)は眼(め)に痛(いた)いくらい光(ひかり)を反射(はんしゃ)するのだ。 じつにすばらしい花(はな)が日本(にっぽん)にはあるものだ。いつかお父(とう)さんが、日本(にっぽん)ほど自然(しぜん)の美(び)にめぐまれている国(くに)はないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思(おも)う。 掃除(そうじ)が終(お)わって、いよいよ第(だい)二十回(かい)常会(じょうかい)を開(ひら)こうとしていると、きこりのような男(おとこ)の人(ひと)が、顔(かお)の長(なが)い、耳(みみ)の大(おお)きい爺(じい)さんを乳母車(うばぐるま)にのせて、尼寺(あまでら)の境内(けいだい)にはいって来(き)た。 きけばその爺(じい)さんは深谷(ふかだに)の人(ひと)で、ごんごろ鐘(がね)がこんど献納(けんのう)されるときいて、お別(わか)れに来(き)たのだそうだ。乳母車(うばぐるま)をおして来(き)たのは爺(じい)さんの息子(むすこ)さんだった。 深谷(ふかだに)というのは僕(ぼく)たちの村(むら)から、三粁(キロ)ほど南(みなみ)の山(やま)の中(なか)にある小(ちい)さな谷(たに)で、僕(ぼく)たちは秋(あき)きのこをとりに行(い)って、のどがかわくと、水(みず)を貰(もら)いに立(た)ち寄(よ)るから、よく知(し)っているが、家(いえ)が四軒(けん)あるきりだ。電燈(でんとう)がないので、今(いま)でも夜(よる)はランプをともすのだ。その近所(きんじょ)には今(いま)でも狐(きつね)や狸(たぬき)がいるそうで、冬(ふゆ)の夜(よる)など、人(ひと)が便所(べんじょ)にゆくため戸外(こがい)に出(で)るときには、戸(と)をあけるまえに、まず丸太(まるた)をうちあわせたり、柱(はしら)を竹(たけ)でたたいたりして、戸口(とぐち)に来(き)ている狐(きつね)や狸(たぬき)を追(お)うのだそうだ。 お爺(じい)さんは、ごんごろ鐘(がね)の出征(しゅっせい)の日(ひ)を、一日(にち)まちがえてしまって、ついにごんごろ鐘(がね)にお別(わか)れが出来(でき)なかったことを、たいそう残念(ざんねん)がり、口(くち)を大(おお)きくあけたまま、鐘(かね)のなくなった鐘楼(しゅろう)の方(ほう)を見(み)ていた。 「きのう、お別(わか)れだといって、あげん子供(こども)たちが、ごんごん鳴(な)らしたが、わからなかっただかね。」 と庵主(あんじゅ)さんも気(き)の毒(どく)そうにいうと、 「ああ、この頃(ごろ)は耳(みみ)の聞(き)こえる日(ひ)と聞(き)こえぬ日(ひ)があってのオ。きんの[#「きんの」に傍点]は朝(あさ)から耳(みみ)ん中(なか)で蝿(はえ)が一匹(ぴき)ぶんぶんいってやがって、いっこう聞(き)こえんだった。」 と、お爺(じい)さんは答(こた)えるのだった。 お爺(じい)さんは息子(むすこ)さんに、町(まち)までつれていって鐘(かね)に一目(ひとめ)あわせてくれ、と頼(たの)んだが、息子(むすこ)さんは、仕事(しごと)をしなきゃならないからもうごめんだ、といって、お爺(じい)さんののった乳母車(うばぐるま)をおして、門(もん)を出(で)ていった。 僕(ぼく)たちは、しばらく、塀(へい)の外(そと)をきゅろきゅろと鳴(な)ってゆく乳母車(うばぐるま)の音(おと)をきいていた。僕(ぼく)はお爺(じい)さんの心(こころ)を思(おも)いやって、深(ふか)く同情(どうじょう)せずにはいられなかった。 それから僕(ぼく)たちの常会(じょうかい)がはじまった。するとまっさきに松男君(まつおくん)が、 「僕(ぼく)に一つ新(あたら)しい提案(ていあん)がある。」 といった。みんなは何(なん)だろうかと思(おも)った。 「それは、今(いま)のお爺(じい)さんを町(まち)までつれていって、ごんごろ鐘(がね)にあわしてあげることだ。」 みんなは黙(だま)ってしまった。なるほどそれは、誰(だれ)もが胸(むね)の中(なか)でおもっていたことだ。いいことには違(ちが)いない。しかしみんなは、昨日(きのう)、町(まち)まで行(い)って来(き)たばかりであった。また今日(きょう)も、同(おな)じ道(みち)を通(とお)って同(おな)じところに行(い)って来(く)るというのは面白(おもしろ)いことではない。 しかし、 「賛成(さんせい)。」 と、紋次郎君(もんじろうくん)がしばらくしていった。 「僕(ぼく)も賛成(さんせい)。」 と勇気(ゆうき)をふるって僕(ぼく)がいった。すると、あとのものもみな賛成(さんせい)してしまった。 「本日(ほんじつ)の常会(じょうかい)、これで終(お)わりッ。」 と松男君(まつおくん)が叫(さけ)んで、たあッと門(もん)の外(そと)へ走(はし)り出(だ)した。みんなそのあとにつづいた。 亀池(かめいけ)の下(した)でお爺(じい)さんの乳母車(うばぐるま)に追(お)いついた。僕(ぼく)たちはお爺(じい)さんの息子(むすこ)さんにわけを話(はな)して、お爺(じい)さんをこちらへ受(う)けとった。お爺(じい)さんは子供(こども)のように喜(よろこ)んで、長(なが)い顔(かお)をいっそう長(なが)くして、あは、あは、と笑(わら)った。僕(ぼく)たちもいっしょに笑(わら)い出(だ)してしまった。 何(なに)も心配(しんぱい)する必要(ひつよう)はなかった。昨日(きのう)通(とお)ったばかりの道(みち)でも、少(すこ)しも退屈(たいくつ)ではなかった。心(こころ)に誠意(せいい)をもって善(よ)い行(おこな)いをする時(とき)には、僕(ぼく)らはなんど同(おな)じことをしても退屈(たいくつ)するものではない、とわかった。それにお爺(じい)さんがいろいろ面白(おもしろ)い話(はなし)をしてくれた。 ただ一つ困(こま)ったことは、乳母車(うばぐるま)のどこかが悪(わる)くなっていて、押(お)していると右(みぎ)へ右(みぎ)へとまがっていってしまうことだった。だから押(お)す者(もの)は、十米(メートル)ぐらいすすむたびに、乳母車(うばぐるま)のむきをかえねばならなかった。僕(ぼく)たちはこのやっかいな乳母車(うばぐるま)をかわりばんこに押(お)していったのである。 正午(しょうご)じぶんに、僕(ぼく)たちは町(まち)の国民学校(こくみんがっこう)についた。昨日(きのう)のところになつかしいごんごろ鐘(がね)はあった。 「やあ、あるなア、あるなア。」 と、お爺(じい)さんは鐘(かね)が見(み)えたときいった。そして、触(さわ)りたいからそばへ乳母車(うばぐるま)をよせてくれ、といった。僕(ぼく)たちは、お爺(じい)さんのいうとおりにした。 お爺(じい)さんは乳母車(うばぐるま)から手(て)をさしのべて、なつかしそうにごんごろ鐘(がね)を撫(な)でていた。 僕(ぼく)たちは弁当(べんとう)を持(も)っていなかったので腹(はら)ぺこになって、村(むら)に二時頃(じごろ)帰(かえ)って来(き)た。それから深谷(ふかだに)までお爺(じい)さんを届(とど)けにいってくるのは楽(らく)な仕事(しごと)ではなかった。が、感心(かんしん)なことに誰(だれ)もいやな顔(かお)をしなかった。僕(ぼく)らはびっこをひきひき深谷(ふかだに)までゆき、お爺(じい)さんをかえして来(き)た。 夕御飯(ゆうごはん)のとき、きょうのことを話(はな)したら、お父(とう)さんが、それはよいことをした、とおっしゃった。 「ん、そういえば、あのごんごろ鐘(がね)は深谷(ふかだに)のあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺(あた)りに鐘鋳谷(かねいりだに)という名(な)の残(のこ)っている小(ちい)さい谷(たに)があるが、そこで、鋳(い)たということだ。その頃(ころ)の若(わか)いもんたちは、三日三晩(みっかみばん)、たたら[#「たたら」に傍点]という大(おお)きなふいごを足(あし)で踏(ふ)んで、銅(かね)をとかす火(ひ)をおこしたもんだそうだ。」 それでは、あのお爺(じい)さんもまたごんごろ鐘(がね)と深(ふか)いつながりがあったわけだ。 僕(ぼく)は又(また)してもおもい出(だ)した、吉彦(よしひこ)さんが鐘(かね)をつくとき言(い)った言葉(ことば)を――「西(にし)の谷(たに)も東(ひがし)の谷(たに)も、北(きた)の谷(たに)も南(みなみ)の谷(たに)も鳴(な)るぞ。ほれ、あそこの村(むら)もここの村(むら)も鳴(な)るぞ。」 ちょうどそのとき、ラジオのニュースで、きょうも我(わ)が荒鷲(あらわし)が敵(てき)の○○飛行場(ひこうじょう)を猛爆(もうばく)して多大(ただい)の戦果(せんか)を収(おさ)めたことを報(ほう)じた。 僕(ぼく)の眼(め)には、爆撃機(ばくげきき)の腹(はら)から、ばらばらと落(お)ちてゆく黒(くろ)い爆弾(ばくだん)のすがたがうつった。 「ごんごろ鐘(がね)もあの爆弾(ばくだん)になるんだねえ。あの古(ふる)ぼけた鐘(かね)が、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新(あたら)しい爆弾(ばくだん)になるんだね。」 と僕(ぼく)がいうと、休暇(きゅうか)で帰(かえ)って来(き)ている兄(にい)さんが、 「うん、そうだ。何(なん)でもそうだよ。古(ふる)いものはむくりむくりと新(あたら)しいものに生(う)まれかわって、はじめて活動(かつどう)するのだ。」 といった。兄(にい)さんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕(ぼく)にはよくわからないのだが、この言葉(ことば)は半分(はんぶん)ぐらいはわかるような気(き)がした。古(ふる)いものは新(あたら)しいものに生(う)まれかわって、はじめて役立(やくだ)つということに違(ちが)いない。
底本:「ごんぎつね・夕鶴」少年少女日本文学館第十五巻、講談社 1986(昭和61)年4月18日第1刷発行 1993(平成5)年2月25日第13刷発行 入力:田浦亜矢子 校正:もりみつじゅんじ ファイル作成:もりみつじゅんじ 1999年10月25日公開 青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、 青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 上一页 [1] [2] 尾页
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