三
道から十メートルばかりはいったところに、太郎左衛門の屋敷の門がある。光蓮寺の山門をすこし小さくしたような、さびた金具などのついた古めかしい門である。横に小さいくぐりがあって、太郎左衛門はそれから出はいりし、門はいつでもしまっている。 太郎左衛門といっしょにそこまできて、太郎左衛門が、「しっけい」とか、「さよなら、またあした」などといって、そのくぐりからすっと中へはいり、あとにぴったりくぐり戸もしめられてしまうと、久助君は、いったいこの門の中で、太郎左衛門はどんなことをしているのだろう、おとなのことばでいえば、どんな生活をしているのだろうと、ちょっと思うのであった。しかし、あまりその中にはいってみたいとは思わなかった。 なにしろ、ばかにしんかんとしているのである。古めかしくてしんかんとしている――、そういうところを、久助君はこのまないのだ。 あるとき久助君は、太郎左衛門についてその門の中にはいった。 庭はあんがいせまかった。だが、久助君の目をひきつけたものがそこにあった。まっ四角な深い池で、底の方に緑色のにごった水がよどんでいた。四方の石がきにはこけがいっぱいついて、石の色はすこしも見えない。つまり、この一升ますのような形の池は、なにからなにまで緑色である。そして水の中には、こいがいるらしい。ところどころ、水の緑色の中に、ぼんやりした赤や、白がみとめられるのは、たしかにそれだ。久助君はしばらくのぞいていると、なまぐさいいやなにおいが鼻につきはじめた。そればかりか、この池全体が、なにか、子どもによそよそしい感じをもっていることがわかったので、じきそばをはなれてしまった。 久助君は、招かれてふじの花のさいている縁側の方へいった。縁側とざしきはあかり障子でへだてられていたが、太郎左衛門が中から出てきたとき、あけっぱなしておいたところから、久助君は中をのぞくことができた。 久助君はそこに、ひとりの黄色いしごきをした少女を見た。きっと、太郎左衛門のねえさんであろう。顔色が茶わんのように白くて、やせていた。彼女は、座敷のもうひとつおくの暗いへやから、金魚ばちほどのほやのついたランプをかた手で持ち、もう一方の手でふすまをなでながらあらわれ、座敷のすみにおいてあるつくえをさぐりあてると、その上にランプをすえた。目を大きく見ひらいているのに、手さぐりでそんなことをしているところをみると、あきめくらなのだろう。なんにしても異様な光景である。久助君は、いきをのんで見つめていた。 つぎに少女は、マッチをすってランプに火を入れた。そしてつくえの前にすわると、だれもいないのに、つくえのむこう側にだれかいでもするように、 「おとうさんが、はじめての航海でフランスのマルセーユにいったとき、そこの港のうら町の小さな道具屋で見つけたランプなんですって。なんでも、ルイ十六世のころのものらしいっていってらしたわ」 と、しゃべった。久助君はぶきみになって、身じろぎもできなかった。この少女は、あきめくらであるばかりでなく、気がくるっているのだろう。 太郎左衛門がわらいながら、「ねえさんのばかタン」と前おきして、わけを話してくれたので、なんだ、そうだったのかと、久助君は思った。太郎左衛門のねえさんは、女学校でする学芸会の練習をしていたのである。なんでもそれは、あらしの夜、ふたりの姉妹が勉強をしていると、ふいに停電してしまうので、古いランプを持ち出してきてともすのだそうである。そうすると、死んだ弟やら、いぜんなくした手まりやら、雨の晩にいなくなってしまった飼い犬やらが、またふたりの姉妹のところにもどってくるという、なにがなにやらわけのわからない、ばかばかしい劇らしい。 久助君は、そこにいる白い少女が、あきめくらでも気ちがいでもないことがわかったけれど、でもなんとなくきみがわるくて、しぜんに、目や耳は少女の方にひきつけられた。 彼女は、つくえのむこうの、すがたも見えなければ返事もしない人に、話をしつづけていた。 「アキ坊ちゃんはね、死んじゃったの。もう五、六年もまえの雪のふった晩に」 相手の人がなにかこたえているらしい。それが久助君にはきこえないが、彼女にはきこえるとみえて、耳をたてて聞いている。そしてまたいう。 「この子、死ぬってこと知らないんだわ。死ぬってね、かくれんぼうでどっかへかくれて、いつまで待っても出てこないようなもんよ」 すがたの見えない相手がなにかいうらしい。すると彼女は、なにかおかしい返事を聞いたのだろう、とつぜんクックックッとわらいだした。そしてこのわらうのが、じぶんで満足のいくようにできないとみえて、彼女はなんどもやりなおした。「クックックッ」とか、「ウフッフッフッ」とかいって。 久助君はもうがまんができなかった。すぐ家へ帰ってしまった。 それからしばらく、久助君は、太郎左衛門の屋敷の門の前を通るときにはきっと、ふじの花のさいている明るい昼間だというのに、ランプをつけて学芸会の劇を練習している、色の白いぶきみな少女のことを思い出したのである。
四
だんだん太郎左衛門は、みんなと親しくなった。みんなは最初のうち、太郎左衛門を尊敬して、すこしいいにくかったけれど、「太郎君」とよんでいた。 やがて太郎左衛門は、みんなといっそう親しくなって、みんなにとりかこまれ、よっぱらいのように下品にしゃべりちらしていることもあった。するとみんなは、太郎左衛門を尊敬したりするのはふさわしくないことがわかり、えんりょなく、「太郎左衛門」とよぶようになった。 そのうちにみんなはもう、「太郎君」とも、「太郎左衛門」ともいわなくなってしまった。というのは、太郎左衛門は、つきあってもいっこうおもしろくない、つまらないやつだということが、みんなにわかってしまったからである。 はじめから今にいたるまで、「太郎君」というれいぎ正しいよびかたをつづけている人が、ただひとりあった。それは、受け持ちの山口先生である。 太郎左衛門がうそをつくといううわさがたちはじめたのは、そのころであった。 「あんなやつのいうことは、なんにも信用できん」 というものもあった。久助君は、そんなこともあるまいと思った。しかし、あるいはそうなのかもしれんとも思った。 ある日、兵太郎君が五、六人のなかまにむかって、なにか一生けんめいにふんがいしていた。久助君がなんだろうと思ってききにいくと、こうだった。 兵太郎君が、太郎左衛門に一ぱいくわされたというのである。午ガ池の南の山の中に、深くえぐられた谷間がある。両側のがけが、ちょうど、びょうぶを二まいむかいあわせて立てたようになっている。太郎左衛門は、そういうところならとてもおもしろいことができると、兵太郎君にいったのだそうである。つまり、かた一方のがけの上からむこうのがけにむかって、「おーイ」とひと声よびかけると、それがこだまになってこちらへ帰ってくる。そして、こちらのがけにぶつかるや、またこだまになって、むこうのがけに帰っていく。むこうにぶつかって、また帰ってくる。こちらにぶつかってまたむこうへいく。そうして、いつまでもそのひとつの「おーイ」は、消えないのだという。ある科学の雑誌に書いてあったからほんとうだと、太郎左衛門はあかしまでたてたのだそうだ。それならほんとうだろうと思って、兵太郎君は、きのう午ガ池へつりにいったついでに、例のところまでいって、ためしてみたのである。そして、太郎左衛門のことばが「うッそ」であることがわかったというのであった。 これじゃたしかに、太郎左衛門はうそつきであると、久助君は思った。するとどうしたわけか、学芸会のけいこをしていた太郎左衛門のねえさんを思い出した。だれも相手がいないのに、じっさいにいるようにじょうずにしゃべっていた、あの白い少女のことを。 またあるとき、こんなことがあったそうである。雨をともなったはげしいかみなりが、頭の上をすぎていったあと、太郎左衛門が新一郎君に、 「いま、雲の中からひばりが一わ、かみなりにうたれてむこうに落ちたから、見にいこう。きっと、牛市場のあたりに落ちている」 と、声をはずませていった。新一郎君は、まさかうそとは思わなかったので、ついていって、まだぬれている牛市場の草をふみわけふみわけ、すみからすみまでさがしたが、牛のふんしか落ちてなかったそうである。これも、太郎左衛門のうそであったわけだ。
五
太郎左衛門が学校へ、どびんのふたぐらいの大きさの、まるいへんなものを持ってきて、 「これね、とってもおもしろいんだよ」 といった。 みんなは、太郎左衛門がうそつきであることは承知していたが、いつでもそれを警戒しているわけにはいかなかった。ことに、こんなぐあいに、めずらしいものを持ってきたときには、つい、好奇心のため、ゆだんしてしまうのである。 太郎左衛門の説明によれば、そのまるいものはゾウゲでできていて、シナ人が横浜で売っていたのだそうである。そいつを、耳にうまいぐあいにあてていると、音楽がきけるしかけになっているというのである。 まず、森医院の徳一君からはじめて、みんなは、それを順番に耳にあてがってきいた。みんなが、聴診器を耳にしている医者のように、しんちょうなおももちできいていると、太郎左衛門は、 「ね、きこえるだろう。マンドリンみたいな音が。あれ、シナの琴なんだって」 といった。すると、「う、うん」と、なま返事するものもあった。「うん、ちいせい音だなあ」といって、にっこりするものもあった。「きこえやしんげや」といって、二、三どふって、またあてがってみるものもあった。 「また、太郎左衛門のうそだァ」 と、太郎左衛門がいるのにそういったものがあった。それは兵太郎君であった。しかしこの場合、みんなはむしろ兵太郎君を信じなかった。というのは、兵太郎君は、十日ほどまえから、かたほうの耳が耳だれで、いやなにおいのする緑色のうみをだらりとたらしていたので、みんなが、例の音楽の道具をかそうとしなかったため、くやしがっていたからである。 久助君の番がきた。うけとってみると、黄色なつるつるの美しいゾウゲである。どびんのふたのように、一方がくぼんでいる。そして、くぼんだところのまん中に、小さいへそみたいなものがとび出ている。そのへそを、うまく耳のあなにはめこんできくのだそうである。 「うーう」と、モートルのうなっているみたいな音が、はじめきこえた。その「うーう」のなかに、マンドリンの音がまじってやしないかと、一心ふらんにきいていると、なるほどかすかに、ピンピンペンペンというような音がきこえるような気がする。 「うん、きこえるきこえる」 と久助君はいって、つぎのものにわたしたのであった。 それからまもなく、あしたは春の遠足という日に、久助君はじしゃくをさがすため、茶だんすの引き出しをみなひっぱり出して、いろんなガラクタのなかをかきまわしていた。すると、なかから、太郎左衛門が持っていたのと同じゾウゲのまるい道具が出てきた。 「うちにも、これがあったんだなァ」 といって、おとうさんにきいてみると、それは、いぜんたばこをのむ人が持っていた、火ざらというものだそうである。そのさらの上に、まだ火のついているすいがらをのせておき、つぎのたばこにすいつけるための道具なのだそうである。 「そいでも、ここにこんなへそみたいなものがあるのは、どういうわけだン?」 と、久助君は、あまりのばかばかしさに、すこしはらをたてていった。そのへそには小さいあながあって、そこにひもを通したにすぎないと、おとうさんは教えてくれたので、もう久助君は、なにもいうことがなかった。まんまと、太郎左衛門に一ぱいくわされたのである。 それにしても、なぜ太郎左衛門は、あんなうそをつくのだろう。なんというわけのわからぬやつだろう。 よく日、久助君は、教室のまどにもたれてぼんやりしているうそつきの太郎左衛門の顔を、かれに気づかれぬよう、こちらの人かげから、まじまじとながめていた。そして、さらにきみょうなことを発見したのである。 それは、太郎左衛門の目は、左右、大きさがちがうということである。右の目は大きい。左は小さい。そして、そのうえおかしいことに、大きい目は、美しい、なごやかな、てんしんらんまんな心をのぞかせているのに、小さい目は、いんけんで、ひねくれていて、狡猾なまたたきをするのである。 こいつはへんだと、久助君が一生けんめい見ていると、さらに、耳も左右大きさと形がちがい、鼻でさえも、左の小鼻と右の小鼻はちがっているので、すこしゆがんで見えることがわかった。 久助君は考えた。――太郎左衛門は、ひとりの人間じゃなくて、ふたりの人間が半分ずつよりあってできているのじゃあるまいか。いぜん、久助君は、ねんどで人形を製造するのを見たことがある。まず、ふたつの型によって、人形は、半分ずつつくられ、それからふたつの半分がうまく合わさって、ひとつの人形になるのであった。神さまがわれわれ人間をつくり出すのも、あれと同じ方法でするのだろう。そして、太郎左衛門はなにかのまちがいで、大きさのちがう、うまく合わない半分ずつが合わさってできたのかもしれない。だから、太郎左衛門の中には、ふたりの人間がはいっているのだ。 ――それなら、太郎左衛門が平気でうそをいったり、なにを考えてるのかわけがわからなかったりするのは、当然のことだと、久助君は思った。
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