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病院の窓(びょういんのまど)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-21 9:03:24 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「もう長くはないんですつて。ほんとに奧さんがお氣の毒ですわね……」と、武井さんは五六日前に庭の芝生の上に出てゐた、まだ若若しいその奧さんを私に教へながら、彼の身の上の事を話し聞かせてくれた。
 耳を澄ますと、その病室の方は相變らずひつそりとしてゐた。別に啜り泣くやうな聲も聞えなかつた。まだ其處までは行かないのかも知れない――と云つたやうな安堵が私の胸に湧いた。
「然し、故國で死ぬ――それが彼にとつてどれだけの滿足になつただらうか?」と、幾らか眠くなつて來た頭でそんな事を考へてゐる内に、遠い廊下の時計が十一時を寂しく打つた。窓外の雨音はまだ盛に聞えてゐた。
 その翌朝だつた。漸くお粥になつたばかりの朝食を食べてゐると、病室の外を通るゴム車の軋りがふと聞えた。
「あのね、この先の結核の患者の方ね。とうとう昨晩お逝くなりになつたのよ……」と、武井さんは急に聲を低めながら囁いた。
「ああ、とうとう……」と、私は靜に頷いた。やつぱりあの時が臨終だつたのか――と、私は心の中で呟いた。が、それがその時は人生の家常茶飯のやうに驚きとも悲しみとも胸に響かなかつた。そして、私は屍體運搬車に違ひないその車の遠い軋りの跡にぢつと耳を傾けてゐた。
 その日の午後――もう夕方近くになつて雨がからりと晴れて、雲切の間から夏らしく澄んだ紺青の空が見え出した。そして、傾きかけた赤い西日が樹木の水玉にきらきらと光つた。丁度、見舞ひに來た友達が歸つて間もない頃の事で、ふと物寂しい氣持になつた私はまた窓際の曲木の椅子に凭りながら、そのすがすがしい病院の庭の暮色を眺めてゐた。
「あ、またあの奧さんが覗いてゐますよ……」と、私はひよいと向う側の二階の右から三番目の窓に氣が附いて、傍の武井さんを振り返つた。
「さうですか……」と、膝に白い毛糸の球をころばしながら何かを編んでゐた武井さんは、編棒の手を止めて窓の方に首を差し延べた。
「厭やな顏色をしてますね……」と、私は雨上りの夕方の、さはやかな氣持をまた何となく暗くされながら云つた。
「ええ、ほんとに。ちよつと顏立は好い方なんですけれどね……」
「惡いんぢやないんですか?」
「さうらしいの。明後日あたり盲膓の手術だつて――附添の本田さんが云つてましたわ……」と、武井さんも顏を曇らせながら云つた。が、直ぐふいと氣附いたやうに詞を續けた。「ちよつとちよつと、あれが檀那樣なんですよ……」
 教へられてその窓の方を振り向くと、何時の間にか紺の脊廣を着た若い紳士がその女と並んで、胸から上を窓臺に凭せ掛けながら立つてゐた。二人は時時何か話し合つてゐるらしく、その唇の動くのが見えた。私はその二人の間に何か寂しいものを感じて、ぢつと視線を送り續けてゐた。と、向うからは半分桐の木蔭で見えるに違ひないこつちの窓を、その時二人は同じやうに眺めた。そして、私の存在をはつきり氣附いたやうな表情を浮べると、顏を見合せて何かを囁き合ふ樣子だつた。
「向うの窓に痩せこけた青年がゐませう。チブスで危い處を助かつたんですつて。運の好い人ですわね……」と、その刹那に女が夫にそんな事を囁いてゐるかも知れない事を感じて、私は何となく微笑したいやうな氣持になつた。その時武井さんがまた云つた。
「あの檀那樣があの奧さんにお優しいつてもう評判になつてゐますわ……」と、武井さんのその白い顏にはコケツトな感じのする微笑が浮んだ。が、私はその武井さんを見返りながら幽かに不快な氣持を感じた。そんな噂話が何となくその人達に殘酷な事のやうに思はれたのだつた。
「ほんとに優しさうな人ですね……」と、私はわざとそんな事を云つて、またその窓の方を振り向いた。が、もう其處には二人の姿は見えなかつた。白いカアテンが赤い西日に染まつて靜に搖れてゐるだけだつた。
「何て噂話の好きな人達なんだらう……」と、私はふとそんな事を心の中で考へながら、武井さんの顏をちらりと見た。實際、そんな風に一人一人の病人の噂話はまるで小鳥のやうな看護婦達の唇から、病院の隅から隅へと傳はつて行くのだつた。で、大概の病人は病室から一歩も出ないのに、よく其處此處の病人に就いて知る事が出來た。
「この先の向う側の病室に若い支那人の患者がゐますの。それが病氣でも何でもないんですよ……」と、或る時武井さんがそんな噂話を私に聞かしてくれた事もあつた。「支那人の中にはよくそんな厭やな人がゐますの。お分りになつて、看護婦をね……」と云ひ出した事を云ひ續けにくさうに云つて、武井さんは不意に口を噤んでしまつた。私は何となく顏が赧らむやうな氣持がして俯向いた。そして、そんな意志を持つばかりにこんな病院生活を送つてゐる支那人の心持がどうしても頷けない氣がした。
「變な人間もゐるもんですね……」と云つて、私は上ずつた聲で笑つてしまつた。
 何時しか七月も中旬に近くなつた。陰氣だつた梅雨の日も忘れたやうに過ぎて、緑の深くなつた桐の葉に照る日光が急にギラギラと夏めいて來た、病室の中は暑苦しくなつた。が、その頃から私はまだひよろひよろする足を踏み締めながら、十間、十五間と廊下を散歩出來るやうになつた。そして、私は凉しい風の吹く廊下の、庭の出口に置いてある籐の寢椅子に凭つて、長い間さえざえしい庭の緑を眺めてゐる事があつた。
「手術の結果はどうなつたらう……」と、三四日窓に見られなくなつた青白い顏の女を思い出して、或る時私は呟いた。そして、其處から斜向うに見えるその窓を見上げた。と、窓には白いカアテンが降ろしてあつた。何か知らそのカアテンの裏に暗い物が隱れてゐるやうな氣がしてならなかつた。
 その頃から私はもう退院の日を樂しむやうになつてゐた。院長が大事をとつてその日をなかなか許してくれないのがもどかしかつた。六十日餘り――と、それが思掛ない事でもあつたやうに入院日數を數へてみて、私は或る晩急に懷しく自分の家の事、自分の部屋の事、家のまはりの景色などを思ひ浮べた。と、やがて其處へ歸る事が初めての家へ引つ越してでも行くやうな樂しさをそそつた。また或る朝初めて病院の玄關口へ出てみて、其處から前の電車通を眺めた時、その平凡な町の景色が私の眼にはどんなに懷しく、どんなに珍らしく、どんなに不思議に思はれたか分らなかつた。それは名所などと云はれる美しい景色などを眺めてゐるよりも、もつともつと樂しみな事だつた。そして、町を通る人達の一人一人が自分の友達ででもあるやうに感じられた。
 退院がもう四五日に迫つた或る日の朝だつた[#「だつた」は底本では「だつだ」]。空は午後の蒸暑さを語るやうにどんより曇つてゐたが、朝の食事を濟して窓際へ凭つてみると、私の向うの、青白い顏の女の病室の窓から暗い顏で庭を見降ろしてゐるその夫の姿を珍らしく見附けた。そして、窓臺の上には氷嚢や白い布が三つ四つ干し並べてあるのに氣が附いた。その數日、病院外の事柄や退院後の生活などに心持を惹きつけられてゐた私は、その女の事をすつかり忘れてしまつてゐた。で、その時ひよいとその夫の暗い、憂愁に包まれたやうな顏附を見ると、私は手術後の女の容體が人事ならず氣遣はれ出したのだつた。
「やつぱりいけないんぢやないだらうか?」と、その時またカアテンの降されてしまつた窓を見詰めながら、私は考へた。
 退院がいよいよ明日と云ふ日だつた。母や妹達はその午後新しい單衣物などを持つて訪ねて來た。部屋の中には明るい感じが漲つた。私の胸はただ歡びに躍つてゐた。そして、母が包みきれない嬉しさを顏に表しながら武井さんに長い看護の禮詞を述べてゐるのや、武井さんがしみじみした聲で母に祝ひ詞を返してゐるのにぢつと耳を傾けてゐた。が、母も武井さんもさうした詞を交しながら、眼は涙ぐんでゐるのだつた。
 夕方もう薄暗くなつてから母達は歸つて行つた。私の食膳をさげると、武井さんも自分の食事をしに行つた。私はぽつかりと電氣の點いた靜かな部屋の窓際に、何時ものやうに曲木の椅子に凭りながら凉しい風に吹かれてゐた。生命を救はれた病院の最後の夜……そんな事がふと考へられた。と、抑へきれない歡びの心の底にも何となく涙ぐまれるやうな[#「涙ぐまれるやうな」は底本では「涙ぐまれやうな」]、しめやかな氣持が湧き上つて來た。が、さうした氣持が何故湧き上つてくるかは、私にははつきり分らなかつた。
 夜の暗い幕はだんだんに病院の内外に擴がつて來た。そして、その暗さの中に向う側の八つ並んだ病室の窓の明りがくつきりと見え出した。が、ふと見上げると、その二階の右から三番目の窓には昨日のやうに白いカアテンが降されてゐて中の樣子は見られないのだつた。私は寢臺に横はつてゐるあの女の青白い顏、それをぢつと見詰めてゐるに違ひないその夫の憂ひげな顏を思ひ浮べてみた。と、不意にまた不吉な豫感が頭の中を掠めて行つた。私は思はずぎよつとして、深い紺青に澄みきつた星空を見上げた。
「ええ、今夜中は持つまいつてお話ですわ……」
 その女の容體に就いて聞いた時、武井さんはかう云つて沈んだ眼を伏せた。私は退院と云ふ明るい氣持もすつかり失つて、カアテンの締まつてゐたその窓を何時までもぢつと眺めてゐた。





底本:「若き入獄者の手記」文興院
   1924(大正13)年3月5日発行
入力:小林徹
校正:はやしだかずこ
2000年10月5日公開
2006年1月9日修正
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