「さうだ、さうだ……」と、みんなは譯もなく呟いた。そして部屋の中が再び煽動的氣分に卷き込まれようとした時、放課の鐘がさわやかに鳴り響いた。先生はみんなの冷嘲の囁きを背にして、遁れるやうに教室を出て行かれた。 互に楯を突き合ふやうな不愉快な時間が幾度か重なつた。或る時は首藤に質問された「可かり可かる」の用法で、先生は一時間を苦しめられた。首藤は熱心な勉強家で國文法に特殊の興味と理解を持つてゐた。彼が細く質問し始めると、先生は多くの場合無學さを曝露して答へることが出來なかつた。先生はその時もみじめな程の焦燥を見せて、何度か口籠つた。先生のねぢくれた感情が、首藤の質問を故意の時間潰しと思つたのは無理もない。そして仕舞ひには彼を口穢く罵つた。 「何、分らん……これで分らんきやあ君は低能兒だ。」先生は本を教机に叩き着けて、劇しく呶鳴つた。温良な首藤も流石に興奮の色を見せて、激越な調子で先生に食つて掛かつた。先生の態度の邪慳さがみんなの反抗心を強めた。 春は何時しか更けて行つた。學校に隣つたT公園の杉林がその緑を日に増し深めて行くと共に、校庭の土の上に落ちる日の光が夏の近いのを思はせるやうに、ぎらぎらと輝き出した。そして化學教室の裏手の樹蔭が、帽子に白の覆ひを被せ始めた生徒達の好んで休む集合所となる頃には、猫又先生に對するみんなの不滿が次第に高潮して來た。先生の詞訛りの可笑しさに先づ敬意の幾分かを傷つけられた私達は、退屈な講義に倦怠を覺え、絶えず grimace の浮んだ顏附に不快な壓迫を感じた。その倦怠と不快な壓迫を遁れようとして盛に働いたみんなの惡戲性は、やがて疲れて來た。先生をからかつて苛立たせて得られる意地惡な面白味は、漸く薄れて行つた。そしてもつと現實的な飽き足りなさが、先生に對して感じられて來た。 「あんな先生に教はるのは損だ。」と、或る時首藤が云つた。「文法の一句が説明しきれないなんて、そんな馬鹿馬鹿しい教師があるもんか。」 「よつぽど頭が惡いな。」 「惡いとも、もう好い加減腦味噌が腐つちやつてらあ。」と、松川が云つた。 「然し、國語だつてしつかりやつとかなきやあ後悔するぜ。何處の入學試驗にだつて國語はあるからな。」と、一人が云つた。 「さうさ、馬鹿に出來るもんか。」と、級長の谷が云ひながら、足下の小石を蹴飛ばした。 「一體學問だつて、三年の時の大石さんの方がずつとあつたぜ。」と、また首藤が云つた。彼は先生の無學さを一番失望してゐた。 「あつたとも、まだあの人の方がましだつた。」 「だがね、學問があつたつてなくつたつて、あんな態度で教へられちやあ、不愉快で堪らないぢやないか。」と、私は反抗的な氣持で云つた。 「排斥しちやへ……」と、突然武井が叫んだ。行き着く處をそれとなく豫想してゐたみんなは、はつと思つて武井を振り返つた。そして何云ふとなく口を噤んでしまつた。 みんなの心の底を割つてみれば、先生に對して不滿や反感があつたにしても、流石に排斥と云つたやうな強い詞を出すのは何となく憚られた。殊にみんなは先生の人の好さ眞正直さを十分認めてゐた。認めてゐるだけに、今まで自分達が先生に對して取つて來た態度が、幾らかうしろめたい心持で省られた。何故ならば、自分達の團結力を頼みにして、故意に先生の神經を苛立たせ、無理に先生の講義を分らない物にしてしまふやうな意地惡さがなかつたとは云へないから……、そしてもう少し柔かく靜かに迎へたならば、先生の氣持をあれ程までに擾亂させなかつたに違ひないから……。然し、各自は密かにさう思つてゐたにしても、クラス全體に行き亘つてゐる群衆心理はそれを容易く征服した。そして或る一點へ進まうとする根強い力が既に兆してゐるのをみんなは意識してゐた。その力に反抗する事はこの場合不可能であり、またそれを一人で裏切る事が何等の效果にもならない事をよく知つてゐた。で、其處へ突然大膽に發言した武井の聲が響いたので、みんなは圖星を指されたやうな驚きを感じたのである。 「とに角あんな先生に教はらなくたつて好いんだ。」と、得能が或る瞬間の沈默の後に云つた。 「さうだ。學校に頼んで更へて貰はう。更へてくれなきやあ最後の手段だ。」と、級長の谷が激越な態度で云つた。みんなは一種の叛逆的な氣分の快さに醉はされたやうに暗默裡に頷いた。先生の身に同情しようとする心の弱みは、みんなの胸に影もなくなつてゐた。 二三日經つて、級長の谷以下のクラスの代表者六人から申し出た猫又先生更任願は、教頭の劇しい叱責と共に素氣なく却けられた。教頭は冷かな眼でみんなを見下しながら云つた。 「一體君等は學生の本分を何と心得てゐる、實に生意氣千萬な事だ。學校は君等に對して決して不適任な先生を授けやしない。考へて見給へ。これが若し軍隊の出來事で、高橋先生が君達の上官だつたとしたらどうなると思ふ。君達は上官に抵抗する者として、銃殺されぬとも限らない。」教頭は自ら比喩し得て妙と云はんばかりの倨傲な態度で云つた。禿げ上つた額のてらてらした艶が、見るから憎々しい尊大さで光つた。 「何、軍隊だつたら銃殺……」教頭の詞がクラスの一同に傳へられた時、かう聞き返して激昂したのは武井だつた。みんなはこれに和して憤慨の叫びを擧げた。舊套教育の傀儡たる教頭の野蠻な比喩が、若々しい血潮の漲つてゐるみんなを憤らしたのは云ふまでもない。教頭の詞に對する反感は、却つて猫又先生に抱いてゐるみんなの不滿を高めてしまつた。 六月の末、もう梅雨にかかつてしよぼ降る雨の鬱陶しい日が幾日となく續いた。それは或る金曜日の第三時間目で、その日も小止みない雨に教室の中は薄暗かつた。 「谷……武井……首藤……」と、型の如く先生が出席簿を讀み始めた時、教室の中は冷たい水底のやうにひつそりしてゐた。反響のない自分の聲の高さに氣が附いたらしい先生は、ひよいと顏を上げた。その時先生は、唖者に變つたやうな生徒達を眼前に見たのである。そして恐らく先生は、あたりの空氣が暴風の前の無氣味な 靜けさのやうに、ひしひしと自分の身に迫るのを感じられたに違ひなかつた。 「何故返事をしない……」先生は或る不安を豫感したやうにはつと息を引いたが、再び「何故返事をしない……」と呼ばはつた時、その顏色は蒼白く變つて、聲の餘韻が幽かに顫へた。一人も答へなかつた。片唾を呑んだやうな教室の沈默は、先生の額の靜脈に注入してくる血液の流れを聞き分けられさうに澄みきつてゐた。 「何故返事をしない……」先生は殆ど發作的に立ち上つて、恐怖を包んだやうな表情を浮べながら、三度叫んだ。一人も答へなかつた。先生の顏には見る見る内に劇しい困惑の色が漲つた。そして捨鉢な舌鼓の音が聞えたかと思ふと、黒板を背にして呆然と、まるで影法師か何かのやうに立ちすくんでしまつた。 緊張した沈默が一分二分と過ぎて行つた。みんなは各自の胸から胸へ流れてゐる結合した心持の勝利を密かに感じながら、冷かに先生の姿を見詰めてゐた。 「一體君達は私をどうしようと云ふのだ。」先生は土氣色になつた顏を上げて云つた。 「君達は私に不平でもあるのか。」先生はまた云つた。その絞り出るやうな顫へ聲は、何時か歎願的に變つてゐた。 二三分が空しく流れた。しめやかに降り灑いでゐた戸外の雨の音が、彈くやうに私の鼓膜に響いて來た。 クラスを代表して先生に宣言すべく期待されてゐた谷も武井も、ぢつと默り込んでゐた。いざとなるとやつぱり云へないんだ――私はかう思つて失望した。そのみんなの不甲斐なさに苛立つ感情と、途方に暮れた先生の姿を見てゐるもどかしさが、次第に私の胸の内に湧いて來た。そして徒に續いて行く沈默に焦燥する心持が、抑へても抑へきれぬ程私をじりじりさせた。唇の不隨意筋が自ら戰き出すやうな、眼の血管にかつと血が押し寄せてくるやうな、鳩尾が引き締められるやうな、さうした感情の興奮が私の全身に働いた。立ち上つて、みんなに先んじて、クラスの爲に勇敢に宣言する――さう思ふと、自分が非凡な勇者であるやうな氣持がして來た。 「何故默つてゐる……」先生は再び劇しい怒の色を見せて呶鳴つた。 「先生……」かう叫んで立ち上つた時、私はくらくらするやうな興奮に捉はれてゐた。が、その瞬間にもみんなの驚異の視線が一齊に自分に集中した事を、はつきり意識した。 「先生、私達は先生に不滿があるんです。」激越な態度で私は云つた。みんなは私の周圍から呻くやうな呟きを上げて聲援した。 「何、不滿がある……」と、聞き返しながら、先生は血走つた視線を私に向けた。 「さうです。第一先生の講義はちつとも面白くありません。先生の時間に出るのは退屈なばかりです。私達は愉快な講義を聞いて、面白く勉強したいと思ひます。處が……」體中はわくわくしながらも、喋舌り出してみると、思ひの外私の舌は滑かに動いた。「處が、先生は何時も厭やさうな顏をしてお教へになります。そして先生のお教へになることはちつとも身に染みません。」 「さうです、さうです……」みんなは咽喉に詰つたやうな聲で、雷同した。先生は、若々しい血の思慮もなく劇しい語調で喋舌る私を、呆氣に取られたやうな面持で見てゐた。 「先生は何故もつと快活になつて下さらないのです。先生の顏附は何時も苦蟲を噛み潰したやうな顏です。」 「何、顏……」と、先生は苦笑しながら聞き返した。「顏を快活にしろつたつて、これは持前だから爲方がない……」みんなは冷嘲的にわつと笑つた。 「然し、人間は感情の動物です。先生が不愉快な顏附で講義して下されば、聞いてゐる私達も不愉快です。先生はお笑いになつたこともありません、何時もぶりぶりしておいでです。そしてぢきに呶鳴つたり腹を立てたりなさるぢやありませんか。」私はひどく眞面目で、ひどく得意だつた。自分が Patriot でもあるやうな氣持になつてゐた。そして自分の一言一句がクラスの全體から力強く同感されてゐる快さに醉つてゐた。 「そりやあ君達が熱心に勉強しないからだ。私だつて感情の動物である點に變りはない。君達が一所懸命にやれば愉快になる、然し……」 「それは違ひます。先生が私達を勉強するやうに教へて下さらないからです。」 「生意氣云ふな……」先生は再び顏に朱を注いで、嶮しい聲で呶鳴りつけた。 「生意氣ではありません。事實さうです。」私はむきになつて疊み掛けた。「私達は先生の講義を受けようとは思ひません。」 「さうだ、さうだ。」 「しつかりやれ……」教室は劇しくどよめいて、みんなの聲がこんがらがつた。 先生はふいと口を噤んだ。そして窓の方に顏を反けて佇んだ。黒のモオニングを着た先生の背中は幽かに波打つてゐた。怒りの感情の高潮しきつたその眼には、何時か涙が潤んでゐた。まばらな赤い口髭の撥ねた横顏は、その時五十を越した人間の寂しさを語るやうに暗く見えた。その身動きもしない先生の貧相な姿を見てゐると、私は一種の重苦しい壓迫が自分の胸に迫るのを感ぜずにはゐられなかつた。一時に奔騰した感情が漸次に鎭靜してくるのを私は意識した。と同時に、我を忘れた輕彈みな自分の詞が、何となく悔いられるやうな氣持になつた。立ち上つた席に今更坐ることも出來ない心苦しさを感じながら、或る忌々しい感情が心の中に擴がつて行くのを私はどうする事も出來なかつた。 「さうか、それでは爲方がない。勝手にし給へ。」先生は苦澁に充ちた瞳をひよいと振り向けて、捨て鉢にかう云つた。その瞬間に現れた先生の表情はもう怒りのそれではなかつた。ただはつとする程の絶望的な寂しさを語つてゐた。先生は教机の上にあつた出席簿と國語讀本を掴み上げて、手荒く扉を開いて教室を出て行かれた。ぼんやりそれを見詰めてゐたみんなは、先生の亂調子な靴音が廊下を遠ざかつて行くのに氣が附いた時、初めてわつと喝采した。 「宮原君、巧くやつたね。素適、素適……」私ががつくり疲れたやうな心持で腰を降した時、みんなは一齊に私に向つて拍手した。その時俯向いてゐた私の眼に涙が染んでゐるのを知つてゐたのは、恐らく私ばかりであつたに違ひない。 やがて「つくね芋」の教頭が來た、豫備特務曹長の生徒監が來た。そして四年級乙組の三十七人は譯もなく二人の despotism に征服された。一學期の試驗の結果が發表された時、私の操行考査は二等から五等に下つてゐた。 が、暑中休暇が過ぎて、さわやかな秋の新學期が始まつた時、もう私達は猫又先生の姿を黒板の前に見ることは出來なかつた。噂に依れば先生が中學生から排斥されたのは、私達が三度目だつたさうである。 ――猫又や可かり可かるで一時間――誰の作つたとも知れない狂句が、時々みんなの口に上つてゐたが、秋が深くなつて行くと共に、先生の姿は何時かみんなの記憶の中に薄れてしまつた。
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三月の初めの、或る晴れた日の午後であつた。私は久し振りに得能の訪問を受けた。彼は海軍大學の乙種學生で、既に一人の子の父になつてゐた。 「好い陽氣になつたね。」二人はかう云ひながら縁側に籐椅子を並べて、話し合つた。硝子戸越しに差す日影は春らしく氣持よく輝いてゐた。 「おい、この間高輪の御殿山で猫又さんに會つたぜ。」何かの話が途切れた後で、得能はふと思ひ出したやうに云つた。 「なに、猫又さんに……」私は驚いて聞き返した。 「さうなんだ。丁度土曜日でね、あの近所にゐる友達を訪ねた、處がゐなかつた、その歸り路さ。ほら毛利公爵の邸の横手に薄暗い急な坂道があるだらう。八つ山へ降りる……あすこでなんだ。」得能は海軍士官らしい輕快な調子で話し出した。 「妙な處で會つたもんだね。」 「さうだ。とに角僕が坂を降り掛けようとすると、下からペンギン鳥のやうな恰好で登つてくる老人がある。それが君、思ひ掛けない猫又さんさ。而も羊羮色になつた黒のモオニングに、穴のあいた中折を被り、そして泥まみれの深ゴム靴は圓い革を當てて處々繕つてある……」 「何だい、まるで昔そのままぢやないか。」私の眼の前には、T中學校の教室で見慣れた猫又先生の姿が、ひよつくり浮び上つた。 「だからね、あんまり樣子が變らな過ぎるよ。小田原提灯のやうなヅボンの皺から、手の上に二寸もはみ出た白いカフスの汚れ方、それに例の金鎖さ。で、ひよいと先生の姿を見た時は、その昔のままなのが堪らなく懷しくつてね。思はず駈け寄つて觸つてみたいやうな氣持がした。然し、流石に昔のことを思ふと、氣が引けて話し掛ける勇氣も出なかつた。そしてぐづぐづしてる内に、お互に擦れ違つてしまつたんだ。無論僕を、海軍中尉の服を着てゐた僕を、十年前の教へ子だと氣附かれる筈もない。先生にとつて僕は全く路傍の人だつたのさ。」 「無理もない。考へてみると、丁度十年になるからね。」私は少し囘想的な、センチメンタルな氣持になつた。 「然し、全くお互にあの時分は若かつた。君も隨分やんちやなお坊ちやんだつたが、實際、何處の學校騷動にだつて、顏付が氣に入らないつて先生に食つて掛かつた生徒は先づあるまい。人間は感情の動物です――なんかは、恐らく君一代の傑作だね。」得能はさう云つて、スリイ・キャッスルの烟を吹いた。二人も顧みて高らかに笑つた。 「だが、先生はやつぱり先生をやつてられるのか知ら……」 「さ、それが確にさうなんだ。その時、二人が擦れ違つた途端にひよいと振り向くと、先生の少し猫背になつた肩の處にチョオクの粉が白く降り掛かつてゐるぢやないか。それが、先生が相變らず先生であることを證據立ててる……」得能はかう云ふと、詞を途切つて氣持よく澄んだ空を眺めた。 「細い觀察だね。」と云ひながら、私も彼の視線の跡を追つた。 「所が、忌憚なく云へば、その時それを見て、僕は骨董品の埃を何云ふとなく聯想した。」得能は再び私の方を振り向いて云つた。その潮燒けのした淺黒い顏に、皮肉な微笑が漂つた。 「骨董品の埃……」と、何氣なく私は呟いたが、その埃に埋もれかけてゐる先生の身を氣の毒に思ふよりも、寧ろ多くの人間のみじめさをシンボライズしてゐるやうな先生の姿が、一ツの irony として私の胸に迫つて來た。「然し、人間もああなりや立派な骨董品だね。そしてもう野心もなし、希望もなし、不平もなし、先生にとつて今程幸福な時はあるまい。」得能は私の沈默をよそにかう云つて、朗かに笑ひ出した。
(大正八年四月「三田文學」)
●表記について
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