「まあ皆、聞いて呉れ給へ。この僕にもこんな話があるから面白いぢやあないか……」 と、B歩兵聯隊附のS中尉が話し始めたのです。かう云ふと、定めて戰爭の手柄話でも聞かされるのかと、お思ひになるでせう。處が大違ひなんです。この間Mの家で、一昔前のA中學校の卒業生だつた我我五人が、久し振りに落ち合つた時の話です。五人と云つても、Mはもう法科大學の四囘生ですし、Yはある商店の番頭でお召ずくめかなんかでをさまつてゐますし、Hは高工を出て或る造船所の技手、それにS中尉と、私だつたのです。勿論五人の間には昔ながらの親しみと、寛ぎとがありました。然し、姿形から云ふともう見違へる程大人びて、腕白な中學時代の面影は殆ど何處にもありませんでした。 寒さの隨分嚴しい晩でしたが、しつきりなしに喫かす煙草の烟や、Mのお母さんの心添への伊太利亞ベルモットの醉ひに、皆の顏は赤く染まり、何となく座が浮き立つてゐました。それに何と云つても血氣盛りな、若若しい人達の集りです。自分の生活や爲事の話、行先の希望、人生觀などと話題に興が乘つて、やがて結婚や女性問題が話の中心に進んで來た時です。 「どうだい。久し振りの罪滅しに戀愛に關する告白をし合はうぢやないか……」 と、座の一人が提議しました。 「賛成、賛成……」 と、調子づいてゐた皆は、直ぐにその提議に和したのです。 初めの話手はMでした。彼は法科大學生らしい口調と、少し眞面目過ぎるやうな態度である年上の女との戀を語りました。次に商店の番頭のYは、非常にセンチメンタルな調子で、ある娼婦と心中未遂に到るまでの捨て鉢な戀の告白をしました。其處には流石に世間の苦勞を甞め盡して來た男らしい眞實味がありました。温厚で、純で、そして一番年弱だつた技手のHは、少し顏を赧らめながら、或る海軍將官の娘に對する片戀の痛みを物語りました。非常にはしやいでゐた一座がだんだんに沈んで來て、中にもHは自分の話半ばに眼に涙を溜めてゐました。 「どうも皆はなかなか話が豐富なんだな。」 と、四番目の話手に當つたS中尉が頭を掻きながら云ひました。 山の手の屋敷町にあるMの家は、募つてくる夜の寒さに軋む雨戸の音さへ身に染む程の靜けさで、殊に主屋と離れたMの書齋は、家人との交渉もなく、思ひのままに話は進むのです。そして夜も大分更け渡つてゐましたが、皆は時の移るのも忘れ勝ちでした。時時、遠くから交叉點を横切る電車の響が、鈍く、寂しく聞えてくるのです。 「さあS、君の番だぞ……」 と、自分の物語を終つたHは、煙草の烟の輪を吹きながら興奮した面持でせき立てました。 「皆の話が馬鹿に詩的なんで驚いたよ。おまけに後は君だらう……」 と、S中尉はピンと撥ね上げた、少し貧弱なカイゼル髭を撫でながら、私を見て皮肉に笑ふのです。 「馬鹿あ云ひ給へ。君にだつて君の領分があるぢやあないか……」 と、私も笑ひ返しながらせき立てました。實を云へば、皆の眼の一致する處、一座の中でS中尉が一番さうした[#「さうした」は底本では「さしうた」]ことに Out of the question らしかつたのです。もつと皮肉に云へば、皆は其故に一そう彼の物語を期待してゐました。で、彼が頭を掻きながら無骨な、而も困りきつた樣子で逡巡すればするだけ、四人の心の中には一種の好奇心が湧き立つてくるのです。こんな心持は誰しもあることでせう。どんなに親しい人達の間にでも、特にそれが親しければ親しいだけに強く起つてくる、一面から見れば隨分人の惡い惡戯氣分がS中尉を對象にしてそそり立てられて來たのです。かうなると、今まで少し沈んでゐた一座の空氣の中に、或る上つ調子な氣持が漂つて來て、四人の眼は意地惡く、S中尉の練兵燒けのした淺黒い顏にそそがれ始めました。へどもどするのはS中尉だけです。 「おい、夜が明けるぞ……」 と、口の惡いMは叫びました。 「まあ待てよ……」 やがてグラスを取り上げて、ベルモットに咽喉をうるほしたS中尉は、てれ隱しにバスの聲を一聲かう張り上げたかと思ふと、勿體らしく話し始めました。が、その顏には當惑らしい苦笑が絶えませんでした。 「どうも戀物語と云つちやあ、僕のは少し可笑しいんだ。」 「結構、結構……」 と、一人が囃し立てました。 「さう半疊を入れるなよ。とに角まだ一月ばかり前のほやほやな話なんだ。何でも四谷の大番町にゐる友達を訪ねて、僕が大通りから九段兩國行の電車に乘つたのは丁度夜の八時過ぎだつたと思ひ給へ。中は好い工合に空いてゐて、釣革にぶら下がつてゐる人もなかつたので、僕は直ぐ中程の座席の隙へ腰を降したんだ。友達の家で飮んだ酒の醉ひはまだ醒めてゐなかつた。處でひよいと顏を上げて筋向うの座席を見ると、馬鹿に綺麗な女がゐるぢやあないか。而もその途端に向うも此方を見て、ぱつと視線がぶつかつたのさ……何しろその時、僕ははつと思つたよ。二十三四の女盛りで、艶艶した庇髪の陰から覗く、黒味勝ちな眼に馬鹿に charm があるんだ。何と云ふのか知らないが、服裝も素敵に凝つてゐたよ。」 「此奴あ、面白い……」 と、Yは慓輕に膝を乘り出しました。 「とに角すつかり僕は氣になつてしまつてね、電車が止まつてまた動き出す、ひよいと向うを見ずにはゐられなくなる。處がまた妙に向うが此方を見るんだ。そして拍子を合せるやうに視線がぶつかる。まるで無線電信の火花さ。僕も初めの二三度こそきまりが惡かつたが、そんなことを繰り返してゐるうちに、とうとう仕舞ひには大膽になつて來て、ぢつと見詰めてゐてやつた。處が向うも負けないんだから、尚不思議なんだ。そはそはしてるやうな處があるかと思ふと、厭やに落ち着いた[#「着いた」は底本では「著いた」]處のある女なんだね。」 「ははあ、Sの奴、ひと眼で女に參つてしまつたな。」 と、恐らく四人の聞き手はさう思つてゐたでせう。S中尉はだんだん眞顏になつて來ました。 「で、僕は腹の中で考へたね。此奴高等淫賣かなんかかな――と。處が女の著物の趣味から見ると、さうも思へないんだ。それに第一自分を考へて見ると、どう自惚れたつて、そんなものに見込みを著けられさうな御人體ぢやあないんだね。さうなると此方は少し弱味で、いささか薄氣味が惡くなつて來た。が、相變らず眼と眼の偵察戰は絶えないんだ。そのうちに電車が四谷見附に近づくと、女は降りる樣子なんだ。而も欲目かは知らないが、變に此方を誘ふやうな素振りを見せるぢやないか。」 丁度その時、十一時が打ちました。然し時計の音なんかは、皆の聽覺の中には這入りませんでした。 「さあ其處で、糞つ――と、僕が度胸を極めたから話が面白くなるんだ。尤も其處からなら番町の下宿までさう遠くもないと思つたし、それに何と云つても酒のつけ元氣さ。で、電車がぎいつと止まつて、女が降りたのを見ると、僕はわざと運轉手臺から降りたんだ。處が君、女の樣子を見ると、僕の降りたのをちやんと知つてるらしいんだ。そしてすたすたと舊見附の方へ這入つて行くぢやあないか。僕は流石に氣がさしたので、新開の鐵橋の方へ歩きかけたんだが、そのまま樹蔭から女の後姿を見てゐると、やつぱり此方を振り返り振り返りするんだ。其處でとうとう第二の決斷は僕をして、舊見附の方へ足を進ませるに至つたんだね。」 「S中尉冐險の始まり……」 と、誰かが思はず聲を擧げました。 「何だか咽喉が渇いたよ。」 と、少し調子づいて、喋舌り續けてゐたS中尉は、その聲にふいと言葉を途切つて、一すすり番茶をすすると、また始めました。四人の眼が好奇心に輝いてゐたのは云ふまでもありません。 「女は舊見附を越すと、あの松の生えた濠端の、暗い、寂しい道へ平氣で這入つて行くぢやあないか。君、考へて見給へ。夜の九時時分にさ、あの人つ子一人通らない暗闇を、若い女だてらに一人で歩いて行くんだぜ。この大の男でさへ後を著けながら、内心びくびくせざるを得なかつたくらゐだよ。が、此處ぞと勇氣を附けて、足をいささか早めたんだ。すると女は確に歩度を緩めるらしいんだ。とうとう濠端の道を十五米突も行かないうちに、二人は擦れ擦れになり出した。處が、やがて女は不意に足を止めて、振り向いたかと思ふと、落ち著いた聲で訊ねるんだ。 『何か御用で御座いますの……』 僕は大にどぎまぎした。 『いいえ、用があるわけぢやあないですが、あなたが大變綺麗な方だつたもんですから……』 確に變てこに硬くなつてゐたよ。が、笑つちやあいけない、平生ならとてもこんなことが白面で云へたもんぢやあないさ。處が驚くかと思ふと、 『まあ……』 と、女は優しく、そして Coquettish な聲を暗闇の中に響かせた。で、 『少し歩かうぢやありませんか。』 と、僕は思ひきつて云つてのけたんだ。 自分でも、自分がだんだん大膽になり行きつつあることははつきり分るんだ。然し、白状すれば、女の方が確に役者は一枚上だつたね。で、僕にして見れば、それだけ女の生體を掴まうとする好奇心が波打つてくるわけだ。それに君、風はなかつたが、凍るやうな寒い晩で、澄み切つた空には星がぴかりぴかりやつてゐるのさ。とうとう不思議な spazielen zu gehen が始まつたんだ。」 「今夜の傑作だ……」
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