「中根だ‥‥」と、私は呶鳴つた。 混亂が隊伍の中に起つた。寢呆けて反對に駈け出す兵士もゐた。ポカンと空を見上げ[#「見上げ」は底本では「見上け」]てゐる兵士もゐた。隊列の後尾にゐた分隊長の高岡軍曹は直ぐに岸に駈け寄つた。 「早く上げてやれ‥‥」と、彼は呶鳴つた。 中根は水の中で二三度よろけたが、直ぐに起上つた。深さは胸程あつた。 「おい銃だよ、誰か銃を取つてくれよ‥‥」と、中根は一所懸命に右手で銃を頭の上に差し上げながら呶鳴つた。そして、右手でバチヤバチヤ水を叩いた。割に流れのある水はともすれば彼を横倒しにしさうになつた。 「大丈夫だ、水は淺い‥‥」と、高岡軍曹はまた呶鳴つた。「おい田中、早く銃を取つてやれ‥‥」 「軍曹殿、軍曹殿、早く早く、銃を早く‥‥」と、中根は岸に近寄らうとしてあせりながら叫んだ。銃はまだ頭上にまつ直ぐ差し上げられてゐた。 「田中、何を愚圖々々しとるかつ‥‥」と、軍曹は躍氣になつて足をどたどたさせた。 「はつ‥‥」と、田中はあわてて路上を[#「路上を」は底本では「路上は」]腹這ひになつて手を延ばした。が、手はなかなか届かなかつた。手先と銃身とが何度か空間で交錯し合つた。 「留つとつちやいかん。用のない者はずんずん前進する‥‥」と、騷ぎの最中に小隊長の大島少尉ががみがみした聲で呶鳴つた。 岸邊に丸くかたまつてゐた兵士の集團はあわてて駈け出した。私もそれに續いた。そして、途切れに小隊の後を追つて漸くもとの隊伍に歸つた。劇しい息切れがした。 間もなく小隊は隊形を復して動き出した。が、兵士達の姿にはもう疲れの色も眠たさもなかつた。彼等は偶然の出來事に變てこに興奮して、笑つたり呶鳴つたり、飛び上つたりしてはしやいでゐた。大地に當る靴音は生き生きして高く夜の空氣に反響した。 「とうとう『馬さん』やりやあがつた‥‥」と、一人の兵士がげらげら笑ひ出した。 「選りに選つて奴が落ちるなんてよつぽど運が惡いや‥‥」と、一人はまたそれが自分でなかつた事を祝福するやうに云つた。 「また髭にうんと絞られるぜ‥‥」 「可哀想になあ‥‥」 中根熊吉の「馬さん」は二年兵の二等卒で、中隊でもノロマとお人好しとで有名だつた。教練の度毎にヘマをやつて小隊長や分隊長に小言を云はれ續けだつた。戰友達にもすつかり馬鹿にされてゐた。鼻が低くて眼が細くて、何處か間の拔けた感じのする平べつたい顏――その顏が長いので「馬さん」と言ふ綽名がついた。が、中根は都會生れの兵士達のやうにズルではなかつた。決して不眞面目ではなかつた。彼は實際まつ正直に「天子樣に御奉公する」積りで軍務を勉強してゐたのである。が、彼の生れつきはどうする事も出來なかつた。で、彼はムキになればなるだけ教練や武術に失敗し、上官達に叱りつけられ、戰友達にはなぶり物にされるのだつた。――氣の毒だな‥‥と、思ふことが私も度々あつた。 「然し、僕もずゐ分氣を附けちやあゐたんだぜ‥‥」と、私は傍の兵士を顧みた。 「さうですか。でも、ありやあ好い眠氣覺しですよ‥‥」と、彼は冷淡に答へた。 「ふふ、眠氣覺しも利き過ぎらあ‥‥」 「はつはつはつ、水の中で一生懸命に銃を差し上げた處は好かつたね‥‥」 「とんだ五九郎だ‥‥」と、誰かが呟いた。劇しい笑聲がわつと起つた。 が、暫くすると中根の話にも倦きが來た。そして、三十分も經たない内にまた兵士達の歩調は亂れて來た。ゐ眠りが始まつた。みんなは下弦の月が東の空に出て來たのも氣が附かずに醉ひどれのやうに歩いてゐた。 N原の行手はまだ遠かつた。私が濡れしよびれた中根の姿を想像して時時可笑しく[#「可笑しく」は底本では「可笑じく」]なつたり、氣の毒になつたりした。が、何時か私も襲つてくる睡魔を堪へきれなくなつてゐた。
N原の出張演習は二週間程で過ぎた。我我[#「我我」は底本では「我日」]は日日の劇しい演習に疲れきつた。そして、六月の下旬にまたT市の居住地に歸營した。中根の話はもうすつかり忘れられてゐた。中根自身も相變らず平ぺつたい顏ににやにや笑ひを浮べながら勤務してゐた。 歸營してから三日目の朝だつた。中隊教練が濟んで一先づ解散すると、分隊長の高岡軍曹は我々を銃器庫裏の櫻の樹蔭に連れて行つて、「休めつ‥‥」と、命令した。私はまた何かの小言でも聞くのかと思つて、軍曹の鼻の下にチヨツピリ生えた口髭を眺めてゐた。 「何でえ、何でえ‥‥」と、小聲でいぶかる兵士もあつた。 高岡軍曹は暫くみんなの顏を見てゐたが、やがて何時ものやうに胸を張つて、上官らしい威嚴を見せるやうに一聲高く咳をした。 「今日貴樣達を此處へ集めたのは外でもない。この間N原へ行く途中に起つた一つの出來事に對する己の所感を話して聞かせたいのだ。それは其處にゐる中根二等卒のことだ。貴樣達も知つとる通り中根はあの行軍の途中過つて川へ落ちた‥‥」と、軍曹はジロりと中根を見た。「クスつ‥‥」と、誰かが同時に吹き出した。中根はあわてて無格好な不動の姿勢をとつたが、その顏には、それが癖の間の拔けたニヤニヤ笑ひを浮べてゐた。――またやられるな‥‥と思つて、私は中根のうしろ姿を見た。 「然るに、あの川は決して淺くはなかつた。流れも思ひの外早かつた。次第に依つては命を奪はれんとも限らなかつた。その危急の際中根はどう云ふ事をしたか。さあ、みんな聞け、此處だ‥‥」と、軍曹は詞を途切つてドタンと、軍隊靴で大地を踏みつけた。「中根はあの時、自分の身の危急を忘れて銃を高く差し上げて『銃を取つてくれ‥‥』と、己に向つて云つたのだ。即ち銃を愛し守る立派な精神を示したのだ‥‥」と、軍曹は咳一咳した。 「抑も銃は歩兵の命である。軍人精神の結晶である。歩兵にとつて銃程大事な物はない。場合に依つてはその體よりも大事である。譬へば戰場に於て我々が負傷する。負傷は直る、然し、精巧な銃を毀したならば、それは直らない。況してあの時中根が銃を離して顧みなかつたならば、銃は水中に無くなつたかも知れない。即ち歩兵の命を失つたことになる。然るに、中根は身の危急を忘れて銃を離さず、飽くまで銃を守らうとした。あの行爲、あの精神は正に軍人精神を立派に發揚したもので、誠に軍人の鑑である。一體中根は平素は決して成績佳良の方ではなかつた。己も度度嚴しい小言を云つた。が、人間[#「人間」は底本では「人聞」]の眞面目は危急の際に初めて分る。己は中根の眞價を見誤[#ルビの「みあやま」は底本では「みあや」]つてゐた。實に中根は歩兵の模範的精神を己に見せ[#「せ」は底本では欠]てくれた。實に‥‥」と、感情的な高岡軍曹は躍氣となつて中根を賞讃した。そして、興奮した眼に涙を溜めてゐた。「貴樣達はあの時の中根の行爲を笑つたかも知れん。然し、中根は正しく軍人の、歩兵の本分を守つたものだ。豪い、豪い‥‥」 かう云ひ續けて、高岡軍曹はやがて詞を途切つたが、それでもまだ賞め足りなかつたのか、モシヤモシヤの髭面をいきませて、感に餘つたやうに中根二等卒の顏を見詰めた。分隊の兵士達はすべての事の意外さに呆氣に取られて、氣の拔けたやうに立つてゐた。が、日頃いかつい軍曹の眼に感激の涙さへ幽かに染んでゐるのを見てとると、それに何とない哀れつぽさを感じて次から次へと俯向いてしまつた。 が、中根は營庭に輝く眞晝の太陽を眩しさうに、相變らず平べつたい、愚鈍な顏を軍曹の方に差し向けながらにやにや笑ひを續けてゐた。
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