五 漁村の能
俄雨のあとの草にはきら/\と日の光がさす。兩方から小徑を埋めて傾いた芒の穗を蓙ですつて行く。博勞の跳ね返した穗が時々ひやりと頬へあたる。だん/\小山の頂を行くと芒の穗の上に海洋が表はれてやがて一目に見えるやうになつた。海洋は日光のさし加減と見えて只紺碧である。あなたには彌彦山が皺一つ/\も數へることが出來る程近く見えて其後ろに連亘して居る越後の山々も今日は明かである。余等が歩いて居る小山の裾に迫つて三角形の眞白な帆を掛けた船が一つ徐ろに其紺碧の水を辷つて走る。白帆も日光のさし加減と見えて眩きばかりかゞやく、博勞は明日も日和だといつた。芒の穗を分けながら山をおりる。海が一歩づゝ狹くなつて木立のあなたに全く見えなくなつた時に僅かばかり水田のある所へ出た。博勞は突然あゝ能があるといひながら駈け出した。余は合點が行かなかつたが一所に駈け出した。田に添うて茂つた深い木立に入らうとした時に余の耳に幽かな笛の音が聞えた。木立に入ると大きな寺がある。本堂の廊下には人が一杯になつて見える。沓脱の左右には婆さん達が小さな店を出して通草や菓子を並べて置く。平内さん能う來たがもう二番濟んだと其の内の一人の婆さんが博勞を見掛けていつた。アヽさうかと博勞は口癖の大聲を出して俺が赤泊へお客さんを案内して來たといひながら素足の草鞋をとる。余もごた/\と一杯に轉がつて居る下駄の間に足を踏ン込んで草鞋の紐を解く。兩掛の荷物を手に提げて段を昇らうとして見ると立ち塞つた人の頭の上に紙が貼りつけてある。番組と書いてあつて三番目には三井寺とある。博勞は荷物をこゝへ頼むがよいといつて余の荷物をとつて自分の草鞋と余の草鞋とを一つに括つて婆さんに渡した。ぎつしりと詰つた人の後に二人は漸くに立つた。見ると此の本堂といふのは新築したばかりでまだ壁の上塗もしてない。中央の板の間を殘して左右はそこにも人がびつしりと坐つて居る。廊下も前の人は皆坐つて居る。女や子供も交つて居るが膝へ抱かれた子供迄が大人しくして居る。正面には白の幔幕が張りつめてあつてチヨン髷結つた七十以上と見えるひよろ/\した老人と若者とが麻裃をつけて端然として居る。鼓が足もとに置いてある。幔幕の際には此外坐つて居るのが四五人ある。板の間のこちらの隅には青竹を折り曲げて櫓の形に組んだものが立つて居て小さな釣鐘の形が下つて居る。釣鐘からは長い紐が板の間へ垂れて居る。本堂のうちは此丈である。軈て老人が鼓を膝へとると若者は鼓を左の肩へとる。赤い紐がだらつと老人の膝からさがる。老人は笹の葉を押し揉んだやうな掛聲をしぼり出して右の手を徐ろに一杯に擧げて打おろすと鼓はパチツといふ音がする。若者は太い聲を掛けて斜に打あげると此れはボンと鳴つた。互に鼓を打つて居ると左の方の幔幕がまくれあがつたと思つたら網代の笠をかぶつて右の手に青笹を擔いで一人表はれた。此が三井寺の狂女といふのだと心のうちに思ふ。狂女は造りつけたやうな姿勢でそろ/\と歩く。二間ばかりで板の間へ出る。板の間へ出るとこちらを向いて以前の速度を以て歩いて來る。狂女の衣裝は燦として美しい。然かも古色を帶びて居る。左の手は四本の指を揃へて袖口をぎつと押へて突つ張つて居る。板の間を擦つて一歩々々と踏み出す白い足袋の先が目につく。青笹も笠もとつて捨てた所を見ると下は温い相貌を含んだ假面である。白く塗つた假面はこれも古色を帶びて居る。假面に鉢卷した紐がぱらつと後へ垂れて居る。假面から少し下へ顎が出て見えるが其顎から汗がぽた/\とこけて來る。後ろの幔幕について居る男が時々白紙を以て後から汗を拭いてやる。狂女は白い足袋の先を踏み出し/\蛙聲の如き謠につれて板の間を舞ひめぐる。極めて鈍い運動であるが骨が折れるかして舞ひながら手元が絶えずぶる/\と震へて居る。「三井寺では子役が居ないのですかといふ聲が余の耳もとで聞えたので振りかへると余の側に立つて居た一人が相手に噺をしかけたのである。これがさうですと相手はすぐ眼の前を指す。白衣の子役は閾一つを隔てゝ見物と並んで坐つて居るのであつた。相手は更に「アレは小木の桶屋だ相ですねと狂女をさしていつた。余は此を聞いてさつき博勞をたづねる時分に大桶へ箍[#「箍」は底本では※[#「竹/匝」、370-7]を打込んで居た桶屋のことを思ひ出してあゝいふ職人仲間にこんなものがあるのかとゆかしい心持を禁じえなかつた。軈て狂女が二三歩すさつて中綮持つた右の手と右の足とを突き出して腰をぐつと後へ引いて假面が屹と青竹の櫓を見あげた時に「アヽいゝと際どい聲が又余の耳もとで響いた。見ると博勞が向鉢卷をした首を曲げて反齒の口を開いて見惚れて居るのであつた。三井寺が濟むと本堂一杯であつた見物が一齊にわあ/\と騷がしくなつた。更に番組は鉢の木が濟むと板の間の四隅には荒繩を引つ張つてランプが吊された。見物が漸く動いて余等の前は疎らになつた。余は閾際まで進んだ博勞を見ると何時の間にか胡麻鹽頭の男と噺をして居たが余を見ると明日は此人が牛を越後へ積んで歸るといふから乘せていつて貰ふことにしたがよいと其男に余を紹介した。二人は牛がどうとかいふことを符貼交りに云うて平内さんが相手の袂へ手を入れて二人で握り合うたと思つたら平内さんは其癖の大聲を出してそりやあんまり安く買つたなあといひながら口を鉗んで向鉢卷した頭を横に曲げた。又鼓が鳴つて船辨慶がはじまつた。板の間に居る辨慶と幔幕がまくれて出た靜とが悠長に應答をする。辨慶は八字に髭のある大柄な男で時々瞼をぱち/\と叩く。靜が板の間の中央に蹲ると後ろの幔幕の際に居た男が金烏帽子をかぶせた。其男がどうも見たことのある顏だと思つたら此れは小木の宿屋の主人であつた。袴をつけて端然たる姿が餘り變つたので一寸見には分らなかつたのである。余は此の博勞に話すとアヽ鉢の木の仕手を舞うたのがさうだ。どうも能う舞ふといつた。烏帽子をつけた靜が白い足袋の先をそつと出し/\舞ひめぐる。四隅に吊つたランプの光が烏帽子に輝き衣裝に輝いて美しい。「アレは小木の石屋でワキなら何でも務めるのだと博勞が語る。靜が去つて知盛の幽靈が薙刀を振り廻して出た。薙刀は時々ランプを叩き相になる。其度毎に薙刀の刃がぴか/\と光る。能く見ると銀紙が貼つてあるので處々皺がよつて居る。長い髮をかぶつて伏目に荒れ廻る知盛の顎は赤い布で包んである。辨慶が頻りに珠數を押し揉んでは押し揉む。博勞は此時突然「此辨慶珠數の房を振るすべ知らんと叫んだ。余は辨慶に聞えはせぬかと心配した。板の間近く膝に抱かれて居た子供が薙刀に驚いたはづみに持つて居た梨を落した。梨はころころと板の間の中央まで轉つて行つた。外はまだ黄昏である。婆さん達の店が片づけにかゝつて居る。余は先程婆さんの箱の中に椿の葉へ乘せた米饅頭のあつたのを見ておいたのでそれを一包買つてやつた。婆さんは此れは椿ダンゴといふのだといつた。草鞋も足袋も手に提げたまゝ博勞に宿へ案内されて行く。本堂の庭から石段をおりる。途々聞くと佐渡には二派の能の先生があつた。此の博勞の平内さんも若い時分には先生に跟いて歩いたことがある。其後平内さんの先生の方は衰微してしまつて今日の一味だけが立派に立つて居る。然し平内さんの先生には名作の翁の假面が秘藏してあつた。百兩の値打はあると一口にいつて居たのであるが五六年前の洪水で家も藏も流されて其假面も一所に失つてしまつた。それは海へ落ちたのであつたと見えて後に磯へ打ちあげられたのを漁夫が拾つたけれど其時には鼻も缺けて元の姿はちつともなかつたといふのである。余は實際能を見たのは生來此の日がはじめてゞある。然かもかういふ孤島の僻邑に能の催しがあらうなどゝは夢にも思ひ設けなかつた所である。其見物人といふのが大抵は百姓や漁夫のやうなものであるだらうがそれが子供に至るまで靜肅にして居たのは意外であつた。其役者といふのが桶屋や石屋や宿屋の主人などでありながら相應に品位を保つて見えるのも向鉢卷をとつたことのない博勞の平内さんが能の智識のあるのを見ても此の島の人の心に優しい處のあるのが了解される。博勞が遭うた其日から懇切であるのも宿屋で出掛に必ず草鞋を一足くれるのも小木の宿屋の美人が洗濯をしておいてくれたのも皆此の優しい心の發動でなければならぬ。佐渡といふと昔は罪人の集合所であつたやうに思つて居たのであるが清潔なる島の空氣は彼等の感化のためには穢れなかつたと見えるのである。博勞は此の夜も余と共に泊つてしまつた。 此の所は越後の寺泊と相對した赤泊の漁村である。
六 草鞋
夜明にうと/\として居るとばら/\と雨が廂を打つ。又うと/\としてふと枕を擡げると博勞は既に起きて蒲團の上に煙草をふかして居る。まだ雨だらうかと聞くと日和だ/\と障子を開けて見せる。さつきのは通り雨であつたのだ。客がみんな爐の側に聚つた。越後の博勞だといふ胡麻鹽頭の男も此の宿に泊つたと見えて爐の側へ來て居る。客の膳が悉く爐のほとりへ運ばれる。宿の亭主も一所に飯をくふ。亭主といふのは五十格恰の恐ろしい噺好きの男で一箸目には喋舌つて居る。相手が皆去つてしまつたら余を攫へて喋舌る。佐渡といふ所は氣候がいゝ上に桑が自然に生えて居るのだけれど惜しいことに養蠶に熱心するものがない。まあ氣候がいゝから何も知らずに飼つても二年や三年は當るが其うちに癖がはひるともう呆れてしまふといふので情ないことだ。本當に此所へ來て養蠶をしやうと思ふものがあれば五枚や十枚の種紙ならば人が手傳つても桑位は摘んでやる。兎に角人氣がいゝのだから人の桑だつて少しばかり摘んだのでは泥棒だなどゝ騷ぐものはないとこんなことを喋舌る。客の膳が引かれて給仕の女房がお鉢を隅へ押しつけて去つたのも知らずに喋舌る。亭主は一人でお鉢を引きつけて盛つては喰ひ盛つてはくひ五杯六杯とくふのである。余は博勞の平内さんと宿の裏へ出る。うらはすぐに汀で船が一艘繋いである。牛がぞろ/\と曳かれて來る。孰れも人の腹あたりまでしかない小さな牛である。孤島の産物は孤島相應の躰格しか持つことが出來ないものと見えて此間中から見る牛は殆んど狗ころでもあるかと思ふ程小さなものばかりである。亭主は此所でも喋舌りはじめた。佐渡の牛は藁沓を穿かなくても自由に山坂を歩く。それが便利だといふので仰山飛彈の國へ賣れる。飛彈の國へ牛を曳いて行つたものは谷を籠で渡されることがあるが渡しの途中で綱がだん/\たるむとみんな眞蒼になつて籠が向へついた時にはもう死人のやうになつてしまふ。此所の人はどこへ出るにも船だから海はちつとも驚かないが飛騨の籠渡しでは慄へてしまふ相だと亭主がいつた。岸から船へ板を渡して水夫が三人ばかりで牛を船へ引つ張り込む。牛は板を渡つても船へはどうしてもはひるまいとする。さうすると一人の水夫が後から牛の臀をぐつと持ち揚げて押し込む。一杯に糞のついた臀でも構はずに持ちあげる。牛が悉く積まれた時余は平内さんに別を告げて船へ乘つた。平内さんは此時は鉢卷はして居なかつた。水夫の一人は余の草鞋を汀の水でざぶ/\と濯いで舷へ括りつけてくれた。十一反の白帆が檣に引き揚げられると船はゆらり/\と岸を離れる。舳からとり舵と船頭が大聲で呶鳴ると舵がぎいつと鳴つて舳が稍南の米山へ向いた。船はゆるやかに搖れて搖れる度に赤泊の漁村の上に五寸一尺と連山が聳えて來る。兩方の舷から屋根を葺いたやうな櫓といふもので船は掩はれて居る。其櫓の中心から檣が立つて居る。余は櫓へ乘つて檣のすぐ下で横になる。空は水の如く澄んで居る。海は空の如く靜かである。空氣は冷かである。此の冷かな空氣を透して日光がぢり/\とさす。白帆は余がために日覆の如く此日光を遮るのである。白鳥の翼でなでるやうな軟風が時々そよ/\と渡つて來る。白帆はふつと膨れると耳もとで帆綱がぎり/\つと鳴つてやがてばさ/\とたるむ。船頭は余の近くで舵へ手を掛けて悠然と煙草を燻らして居る。余は日のあるうちに寺泊へつけるかと聞いたらいゝや此牛は柏崎へ積んだのだ。さうさ此の鹽梅では夜中でなければ柏崎へはつけまいといふのである。赤泊を出帆する時に舳を米山に向けたのを變だと思つたのであるが此れは以ての外の失策をしてしまつた。寺泊へ渡つて日頃目について居た彌彦山へ登らうと思つて居たのであるが柏崎からでは十一里も戻らねばならぬ。もう悔いても間に合はぬ諦めるより外はない。余は荷物を枕にしてうと/\となる。海は極めて靜穩であるが沖へかゝつてからはノタといふ波が大きく搖れるので船が大きくゆらり/\と搖れる。搖られながらうと/\となつて居ると帆綱が絶えずぎり/\つと軋つては白帆がばさ/\とたるむ。醉醒に水は毒だようと舵取の唄ふ追分の聲が耳に響く。突然にもう國境は越したかなと一人の水夫が呶鳴つた。余はむつくり起きて見ると佐渡は驚く許り遠くなつて土手のやうに山が連つて居る。彌彦山は岩の崩れた趾も明かに見えるやうに近よつて居る。米山はまだぼんやりとして南方遙かに遠い。櫓の下で牛がどた/\と騷ぎ出した。水夫が三人同時に覗き込んで際どい聲で怒鳴りつけた。牛はぴつたり靜かになつた。余も櫓から覗いて見ると牛はひし/\と二側につめられて角がぎつしり舷の所で横木に括られてある。此時まで余と枕合になつて居た胡麻鹽頭の博勞がむつくり起きて突然にどうだといふと舵とりの男は佐渡あらしならいゝが南だからどうも駄目だ。出雲崎へ向けて見ても煽られるんだから今日は柏崎は御免だ。出雲崎へつける位なら一層寺泊の方がよからうといふと運賃が十五圓ばかり狂ふがいゝや仕方がねえと胡麻鹽頭のフケを掻き落しながら博勞がいつた。どうやらこれでは寺泊へ行けるらしい。最初の目的が達せられるかと思ふと心中窃に悦ばしさを禁じえなかつた。あんまり彌彦山が近くなつて居たと思つたのも道理であつた。寺泊へついたのは五時頃である。磯へつくと船はぐるつとめぐされて艫が波打際まで突きあがる。余は笠と※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、376-6]を投げ出して草鞋と荷物とを手に提げたまゝ波の引いた途段に磯へ飛びおりた。一日の航海中牛は逐に一聲も鳴かなかつた。 佐渡を見ると悠然として海を掩うて長く横はつて居る。大きな馬盥に水を一杯に汲んで鍋葢を浮べれば鍋葢のとつ手を横から見たのが佐渡が島である。鍋の底から燃えあがつた焔のやうな夕燒の空が佐渡を包んで平穩な海一杯にきらめいて居る。佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた。三日は雨であとの一日丈が晴れたのであるが其雨の日に相川の金坑を見てこんなことがあつた。初めは工場の殺風景に驚いたのであつたが泥を溶いたやうに濁つた濁川といふ小さな溪流の岸に沿うて行くと高い支柱を建てゝ大きな箱戸樋が連つて居る。箱戸樋は溪流について屈折して走る。所々僅に紅した蔦の葉が支柱に絆んで戸樋を偃うて居る。疎らに立つた芒の穗が戸樋に屆かうとして傾いて居る。白い雨が蔦の葉をぬらして芒の穗に打ちつける。余は秋寂びた雨の中に立つて此の戸樋を流れるものは何であるかと思つた。戸樋は泥土の如く粉碎された鑛石が水と共に送られて居るのであつた。即ち金銀の水であるといふことが出來るのである。自分の頭の上を金銀の水が絶えず流れて居るのかと思ふと金山が急に美化されてしまつたやうに感ぜられた。佐渡は此の如くにして到る所余がために裝飾されて居るかとも思はれる。外見は凡そ佐渡ほど寂びた所は少なからう。然しながら仔細に味はうて見ると余はまだ佐渡ほど美しい分子を有して居る所に逢うたことがない。佐渡は博勞だけでも十分であるが只博勞だけでは鼠地の切れのやうな感じを免れぬ。佐渡が島では小木の港で美人に逢うた。美人は鼠地へ金糸銀糸で刺繍つた牡丹の花である。さうして博勞の娘はつやゝかな著莪の葉へ干した染糸で刺繍つた莟でなければならぬ。美人は夜ちらりと見て朝は別れてしまつたので何といふ名かそれも知らぬ。宿屋の娘であつたか女中であつたかそれもしかとの判斷は出來ぬ。余は何故匆卒に其宿を立つてしまつたのであつたかとそれも分らぬ。毎日々々不快な宿を遁げるやうに立ち去るのが旅中幾十日の習慣になつて居たからであつたらう。然し兎にも角にも昨日の浦を見おろしながら美人と噺をした。其噺は飽氣なかつた。惜しいはかないやうな思が心の底に潛んで居る。牡丹の花のうらを返して見ると金糸銀糸は亂れて居る。余が美人を憶ふ時には心に幾分の亂を生ずる。其心の亂れは刺繍の金糸銀糸が亂れて居る如く只美しくあるべき筈の亂れである。余はかういふ想に耽りつゝ船が磯へ掻きあげられるまで荷物と草鞋とを手に提げたまゝ呆然として立つて居た。水夫の濯いでくれた草鞋はすつかり乾いて居る。佐渡の形見として余の手に殘つたものは小木の宿屋の美人がともし灯のもとにゆかしがつた手帖の間の瑰の花と此の草鞋とのみである。草鞋も小木の美人が槌で叩いてくれた草鞋である。紺飛白の裾から白地の覗き出した美人の姿がすぐに眼前に浮ぶ。然しそれはもう過去の記憶である。現在のものは此の草鞋のみである。歩いて/\底が拔けて足のうらが痛くなつてならぬまでは此の草鞋は穿き通して見たいやうに思ふ。草鞋の底が拔ければ髮の毛の亂れのやうに藁が兩方へ喰ひ出す。それでもぎつしり結んだ紐は手で解かねばいつまでも足について決してとれるものではない。此草鞋の紐はどうしてもぎつしり結んで置かねばならぬ。余はかう思ひながら靜かに暮れ行く寺泊の磯の砂濱へ笠も蓙も荷物も投げ出して徐ろに草鞋の紐を結んだ。
(明治四十年十一月一日發行、ホトトギス 第十一卷第二號所載)
●表記について
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「蓙」の左側の「人」に代えて「口」 |
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361-14、361-16、363-13、376-6 |
「竹/匝」 |
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370-7 | 上一页 [1] [2] 尾页
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