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鉛筆日抄(えんぴつにっしょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-18 7:12:30 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


▲鹿の糞
 霧の吹きつけるなかを山蔭へおりる。やつぱり樹木が深くて坂が急である。だん/\おりて行くうちに霧が薄らいで枯れた梢の間から空が朗かに見え出した。又誰か後の方で鹿々と呶鳴つた。あれ/\と一人が指して居る方を見たら其時はピオウと鳴いた聲ばかりで鹿は見えなかつた。ピオウと復た鳴いた時は聲が遙かに遠くなつて、三聲鳴いた時はやつと聞き取れる程であつた。
 深い樹立を出ると疎らな赤松が見え出して窪んだ草原のやうな所になつた。先達は皆さん此所は不淨場でありますといつて自分が先に小便をした。一行の者も皆小便をした。草の中には羊齒の葉が秀てゝ既に枯れた自然生の芍藥も交つて居る。此所からすぐに海へ出る。岸は皆削りたつた大きな巖である。斷面には縱横に切れ目があつて恰も十文字に繩を掛た大荷物が問屋の庭に積み揚げられたやうな形である。小徑は此斷崖の上をめぐりめぐつて北へ走る。一行はばら/\になつて先達に跟いて行く。左を仰いで見ると鬱蒼たる山の巓は頭に掩ひかぶさつた樣で其急峻な山の脚は恰かも物蔭から大手を開いて現はれた人が奔馬をばつたり喰ひ止めた樣に此小徑で切斷されて居る。小徑については到る所青芝と糸薄が茂つて居る。さうして糸薄の中には疎らに赤松が聳えて居る。時々鹿に逢[#「逢」は底本では「蓬」]ふことがある。山蔭に居る鹿は能く馴れては居らぬと見えて屹度逃げて行く。一つか二つか離れて居るのがひよつこり人を見ると非常に狼狽して草村を跳ねて逃げて行く。糸のやうな脚で跳ねるのがふわ/\とした綿の上でも跳ねるかと思ふ樣に見えて如何にも輕げである。驚いて逃げる時にピオウと細い聲で鳴き捨てるのである。五六匹も揃つて居るといふと躰と躰と押し合ふ樣にして或距離の所まで行くとけろつとして何時までもこちらを見送つて居る。無邪氣なものである。鹿の尻はモツコ褌をはめた樣だなシといふ聲が又後の方から聞えた。大箱の岬といふ札の立つた所へ出た。急な山の脚が海へ踏ん込む前に青芝の小山を拵へて其小山の頂近くから截斷して海へ捨てゝしまつた時に恐ろしい懸崖が出來た。此が大箱の岬である。四つに偃うて覗いて見るとさら/\と僅に碎くる白波が遙かの下の方である。其遙かな下の方に小さなものが動くやうに見える。それがだん/\昇つて近づく所を見ると一匹の小さな蝶であつた。暫く見て居たら心持が惡いやうになつた。大箱の岬を覗くものは馬鹿だといふのだと道者がいつた。青芝は地にひつゝいた樣で綺麗である。鹿が此芝をくひに來ることがあると見えて豆粒のやうな鹿の糞がころ/\と轉がつて居る。青芝の上に休んで居ると何時の間にか蝶は懸崖の面を舞ひあがつたものと見えて小さな黄色い羽をぴら/\と動かしながらめぐりめぐつて鹿の糞へとまつた。際涯もない外洋を望むと今日ばかり波がないのかと思ふ程平靜である。余は一朝暴風が此平靜な海を吹き亂して雲と相接して居る水平線の先の先から煽り立てゝ來る激浪が此の大箱の懸崖に吼えたけびてしぶきのとばしりが此の青芝へ氷雨の如く打ちかゝる時に牡鹿が角を振り立てゝ此岬に突つ立つ所を想像して見た。

     九月九日

▲會津に入る
 草葺ばかりのみじめな米澤の市中は戸が漸くあいた所である。老女がまだねくたれ髮を掻かぬ姿といつてやりたいやうだ。はたの聲のみが忙しく響く。
 小さな峠を一つ越えて關町といふ村で提げて來た小包を出した。郵便局といつても事務員がたつた一人しかなかつた。二三町來ると其事務員がお客さん/\といつて追ひ掛けて來た。局へ殘す筈の受領證を渡して仕舞つたから換へて呉れとお辭儀をするのであつた。あたりには白苧しらそが干してある。
 又峠になる。大臼のやうな炭俵を背負つた女達がおりて來る。二尺ばかりの短い棒を手に/\持つて居る。棒を俵の尻へ當てると立つた儘に休むことが出來るのである。牛追が杓子のやうなものを杖について居るので何をするのかと聞いたら牛の腹の蠅をぺた/\と叩いた。網木の村へおりる。出羽の地もこれ限りである。溪流を引いて麻を浸した淺い池が所々にある。モツペを穿いた女どもが晒した麻の皮を扱いて居る。家がみんな荷鞍ぐしだ。荷鞍ぐしといふのは棟が千木を建てたやうになつてるのである。
 檜原峠へかゝる。峠のやうな峠である。山が深いだけに溪流が大きい。汀には竹林の如き虎杖がまだ花をもつて居る。道は又他の溪流に添うてのぼる。兩方から一丈餘りに延びた蓬が茂つて、撓むまでさいた鳥兜とりかぶと草が丈を爭うて立ち交つて居る。一丈餘の蓬で箸を折つて見たらやつぱり蓬のかをりがした。頂上まで蓬や鳥兜草が繁茂して居るが頂上に至るまでそれが兩側二尺ばかりは薙ぎ拂はれてある。馬や牛を牽いて草苅がこんな所まで來ると見える。頂上は國境である。
 會津へ一歩くだれば一變して山毛欅ぶなの深林になる。梢には霧の如く白雲がとざして雨になつた。蓙が雨のためにしめつて板のやうに強ばつて來たら山毛欅が竭きて橡の林になつた。雨がやんだ。橡の葉は既にいくらか黄ばんで居るので林は急にからつとして來た。溪流の響きが漸く聞える。橡の林を出た。白衣の行者が五六人桐油で包んだ大きな幣束を擔いで峠へかゝる所である。見あげるとまだ雲がある。行者はぬれに行くのである。
 忽ち一大湖水が現はれた。鬱然たる周圍の樹木を浸して居る。湖水に迫つて大きな茶店があつて二階には※[#「鼠+占」、343-1]でも住み相である。店には煤けた障子が締め切つてあつて障子の破れがふら/\と搖れる。此怪しげな茶店で峠で切つた草鞋を穿きかへる。旅客の穿き捨た草鞋が障子の蔭に堆く積んである。ぬるい茶をのみながら女房がしみ/″\といふ噺をきく。湖水は以前は萱原であつたが磐梯山が破裂した時に土灰が一方を塞いだ爲め水は落ち行く瀬を失つて此の如く湛へたのである。湖水の底には四ヶ村が埋沒して居る。二十戸の村で纔に七人のみが生きた所もある。最も悲慘であつたのは山の畑へ稼ぎに行つた老人である。磐梯山にあのやうな烟の立つ筈はない。山の凶事であるかも知れぬと二人の子を促して慌てゝ駈け出したのであつた。二人の男の子は血氣であつただけに危い命を拾つて逃げおほせたが老人は足のつゞかなかつた計に何處で泥土に埋まつたか遂に歸つて來ない。破裂のあとは七日まで山の鳴動が止まぬので檜原の村では家財を悉く馬に乘せて夜は殊に恐ろしさに堪へ兼ねて逃げようとしては流石に躊躇して夜を明すといふうちに山の騷ぎが止んだのである。知つた人が埋つて居ると思ふと船で渡るのも心持が惡いといつて女房はぽつさりとする。榾が燻ぶつて青い烟が天井をめぐる。
 茶店のうしろには疎らな桑の立木があつて其間に菽が作つてある。狹い畑は二三歩ですぐに汀へおりる。湖水を隔てゝ遙かな草山の裾にぽつ/\と四角な白いものゝ見えるのは秋蕎麥の畑である。
 道は湖畔に添うて稍高くなる。湖水を見渡すと汀をめぐつて白骨の如き枯木が水中に亂立して居る。大樹は枝幹其儘で小樹は手の骨や足の骨を立てならべた如くに短く朽ちて居る。枯木がなかつたら檜原湖は唯幽邃な湖水であつたに違ひない。凄いものは此水中の枯木である。小舟が一つ枯木に繋いである。
 磐梯山も雨が晴れた。急峻な山腹を今一朶の雲が駈けのぼるやうにして頂から横に走つて山を離れると磐梯の全形が明かである。湖畔から見る磐梯山は殆んど破裂の趾のみが表はれる。頂から地盤の底まで唯一刀の下に截斷し去つたやうなのが破裂面である。其形状は例令ば錆びた大釜の破片を立てた如くである。大釜の形体が若し全くあつたならば磐梯山をも容れることが出來るだらうと思ふ程大きな破片である。其所々から烟草の烟の如き白烟が立つ。其所が現在の噴火口である。湖畔の崕には芝蓬が生えて其傍を過ぎる時はまだ濡れて居る四五本の芒の穗がゆるかに搖れて恐ろしい磐梯山の面を撫でるやうに見える。芒のもとには野菊のやうな花が眞白である。

(明治四十年三月八日發行、馬醉木 第四卷第一號・明治四十年五月二十五日發行、馬醉木 第四卷第二號所載)





底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2003年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#…]」の形で示しました。

    「蓙」の左側の「人」に代えて「口」    334-6
    「鼠+占」    343-1

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