三
静かな博物標本室の中。アリゲエタアや大蝙蝠の剥製だの、かものはしの模型だのの間で三造は独り本を読んでいる。卓子の上には次の鉱物の時間に使う標本や道具類が雑然と並んでいる。アルコオル・ランプ、乳鉢、坩堝、試験管、――うす碧い蛍石、橄攬石、白い半透明の重晶石や方解石、端正な等軸結晶を見せた柘榴石、結晶面をギラギラ光らせている黄銅鉱……余り明るくない部屋で、天井の明り窓から射してくる外光が、端正な結晶体どもの上に落ち、久しく使わなかった標本のうす埃をさえ浮かび上がらせている。それら無言の石どもの間に坐って、その美しい結晶や正しい劈開のあとを見ていると、何か冷たい・透徹した・声のない・自然の意志、自然の智慧に触れる思いがするのである。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽ることにしていた。 今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺というのが、鼠か鼬か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧れていなければならない。殊に俺を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺自身の無力さとが、俺を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺はその敵を見たことはないが、伝説はそれについて語っており、俺も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むものである。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏ってくるのである。
その時、入口の扉にノックの音がして顔を出したのは、事務のM氏であった。はいって来ると、「手紙が来ていましたから」と言って卓子の上に封筒を置いた。事務所とこの標本室とではかなり隔たっているから、わざわざ持って来てくれたのは、話相手を求めに来たに違いない。年齢は五十を越した・痩せてはいないが丈の低い・しかし容貌は怪奇を極めた人物である。鼻が赤く、苺のように点々と毛穴が見え、その鼻が顔の他の部分と何の連絡もなく突兀と顔の真中につき出しており、どんぐりまなこが深く陥ち込んだ上を、誠に太く黒い眉が余りにも眼とくっ附き過ぎて、匍っている。厚く、黒人式にむくれ返った唇の周囲をチョビ髭が囲んでいて、おまけに、染めた頭髪は(禿は何処にもないのだが)所によってその生え方に濃淡があり、一株ずつ他処から移植したような工合であって、またそれが短いくせに、お釈迦様のそれのようにひどくねじれ縮れているのだ。 職員室の誰もがこのM氏を馬鹿にしているようだった。この人の名前を口にのせるたびにニヤリと笑わない者はない。なるほど、性行なども愚鈍らしく、言葉でも「そうした、もので、しょうなあ、」などと一語一語ゆっくりと自分の今の発音を自分の耳で確かめてから次の発音をするように続けて行く。もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、その勤続年数よりもその間に幾人かの細君に死なれたり、逃げられたりしたという事の方が有名である。それに、もう一つ、職員と生徒との区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握る癖のあることもみんなに知られている。別に悪気があるという訳ではなく(悪気をもつほどの頭の働きはこの人に無いと、一般に信じられている。)ただもう、抑えることも何も出来ずに、ひょいと握ってしまうものらしい。幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨まれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。よく、それで馘にならないものだが、あの御面相だから大丈夫なんでしょう、と笑う職員もいる。このM氏が、誰も相手になってくれるものが無いせいか、週に二日しか出て来ない三造をつかまえて、しきりに色々と話をしたがるのだ。私はフランス語をやります、というのだが、聞いて見ると、それがラジオの初等講義を一・二回聞いただけらしいのである。しかし本人は別に法螺を吹くつもりで言っているのではなく、本当にそれでフランス語をやったといえるつもりなのである。この調子でM氏はドイツ語も漢詩も和歌も皆やるという。こういう話を聞きながら、三造は、M氏の鈍い眼付の中に何処か兇暴なものがあることに気のつくことがある。追い詰められた弱い者が突然攻勢に出て来る時のような自棄的なものがあるような気がするのである。 手紙を渡しても、果して、M氏はなかなか帰る様子もなく、アリゲエタアの剥製の下に腰を下して、例のゆっくりした調子で話し始めた。その中に、どういうきっかけからか、話が彼の現在の(彼よりも二十歳も年下の)細君のことになり、彼は大真面目で自分と結婚する前の彼女の閲歴などを語り出した。これは少しヘンだぞ、と思っていると、M氏は手にした風呂敷包(今まで私は気づかずにいたのだが、それをわざわざ見せるためにM氏は私の処へ来たのだ)を開いて、中から分厚な一冊の本を取出して卓子の上に置いた。表紙を見ると、薄紫色の絹地に白い紙が貼られ、それに『日本名婦伝』と書かれている。 「家内のことがこれに載っています」とM氏はゆっくりゆっくり言ってから、嬉しそうににやりと笑った。 「?」三造は初め一向のみ込めなかったが、とにかくM氏の開けてくれた所――白樺の、女の子の喜びそうな栞が挟んである――を見ると、なるほど、一頁が上下二段に分れていて、その上段にゴチックで彼の細君の名が記されている。それに続いて生年月日やら生処やら卒業の学校やらが書立てられ、さて、M氏に嫁するに及んで、貞淑にして内助の功少からず云々……とあり、それから今度は奇妙なことに、一転して御亭主たるM氏自身の伝記に変って、彼の経歴から、資性温厚だとか、人以て聖人君子と為すとか、弔辞の中の文句に似た言葉が並んでいる。 やっと三造には凡てがのみこめて来た。一種の詐欺出版のようなものにM氏は掛けられたのだ。――つまり、『日本名婦伝』とかいう書物の中に貴下の奥さんの記事を載せたいから、などと煽て上げ、天下の愚夫愚婦から、相当な金額を絞り取り、下らぬ本を作ってはそれをまた高く売付けるという・話にも何にもならない・仕掛にかかったに違いないのである。しかもM氏は欺されたとは毛頭考えずに、得々として人ごとにこれを見せ廻っているらしい。それにこの文章は明らかにM氏自身の執筆である。 頁をめくって前の方を見ると、何と、紫式部、清少納言のたぐいがずらりと、やはりM夫人と同じ組方で、それぞれ一頁の半分ずつを占めて並んでいる。三造は目を上げてM氏を見た。三造の呆れた顔を感嘆の表情ととったものか、M氏は隠し切れない嬉しさを見せて鼻をうごめかしている。(彼が笑うと、黄色い歯が剥き出され、それと共に、その赤い鼻が――誇張でも形容でもなく――文字通り、ヒクヒクとうごめくのである。)三造はすぐに目を俯せた。堪えられない気がした。喜劇? そうかも知れぬ。しかし、これはまた、何と、やり切れない人間喜劇ではないか。腔腸動物的喜劇? 三造は棚の上の小さなカメレオンの模型に目を外らしながら、ぼんやり、そんな言葉を考えた。
四
その夜M氏に誘われて、三造がおでん屋の暖簾をくぐったのは、考えて見ると、誠に不思議な出来事であった。第一、M氏が酒をたしなむという事も初耳だったし、殊に外へ飲みに出るなどちょっと想像も出来ないところで、それに三造を誘うに至っては全く意外だった。M氏にして見れば、細君についての詳しい話をするほどに親しくなった(と、そう彼は思っているに違いない。)三造に、何かの形で好意を示さなければならないように感じたに違いない。誰にも相手にされない男が、たまに他人から真面目に扱われたと考え得た喜びが、彼を駆って、おでんや行などという・彼としては破天荒な挙に出させたのであろう。M氏の誘に応じた三造の気持も、我ながら訳の判らぬものであった。持病の喘息のため酒はほとんど絶っているのだし、M氏のようなえたいの知れない人物と今まで真面目に話をしたこともなし、だからその晩M氏につき合ったのは、M氏ののろのろした薄気味の悪い・それでいて執拗な勧誘を断り切れなかったためというよりも、『名婦伝』で挑発された・この男への・意地の悪い好奇心のせいだったかも知れない。
余り飲まない三造に、そう無理に勧めるでもなく、一人で盃を重ねる中に、M氏はその赤い鼻をますます赤くして脂を浮出させ、しかも絶えず黄色い歯を剥出してニヤニヤし続けている。そうして、例によってはっきりしない言葉でゆっくりゆっくりまだ細君の話を続けている。かなり際どい話を、実に素朴な表現で、縷々として続ける。当人には別にそれが際どい話だという自覚はなく、ただもう話さずにはいられないで自ずと話しているらしい。閨房中のことについて何か今の奥さんに遺憾な点があるのだといって、締りのない口付でそれを長々と述べ、「大変残念なことです」と叮寧な言葉で、第三者のことをいうような言い方をするのである。一体どういう了見でこんな話をするのか、と、三造はしばらく、まともにこの男の顔を見返して見たが、結局、とりとめのない・ぬらぬらしたような笑いに空しく突離されるだけだった。こんな話を聞く時には一体どんなポーズを取り、どんな顔付をすればいいのか、三造はすっかり当惑して、てれくささを隠すために強いて盃を取上げるのである。 気が付くと、三造の前の真白な瀬戸物皿の上に、いつの間に来たのか、それこそ眼の覚めるほど鮮やかな翠色をしたすいっちょが一匹ちょこんと止って、静かに触角を動かしている。素直に伸びた翅の見事さ。白く強い電燈の光の下で、まことに皿までが染んでしまいそうな緑色である。その白と緑とを見詰めながら、三造はなおしばらくM氏の奥さんの話を聞いていた。 聞いている中に、いつもこの人間に対して感じる馬鹿馬鹿しさは消えてしまい、一種薄気味悪い恐ろしさと、へんな腹立たしさ(直接M氏に対する怒りではない。また、現在立たされている自分の位置の馬鹿らしさに腹が立つのとも少し違う。)との交った・妙な気持に襲われて来た。
知らぬ間に三造もかなり飲んでいたようで、しばらくは相手の話も一向耳に入らなかったが、そのうちに何か話し方が違うらしいのにふと気がついて見ると、M氏は既に奥さんの話を止めて、「ある他の事柄」について語っている。ある他の事柄について、などといったのは、それが今までのM氏の話題とはまるで異って、(もちろん初めは何の事やらさっぱり意味が解らなかったが、聞いて行く中に段々判って来た所によると、)全く驚いたことに一種の抽象的な感想――いわば、彼の人生観の一片のようなものだったからである。但し、その表現はいつもの通り度を越して間の抜けたものであり、その発声は曖昧で緩慢で、かつ何度も同じ事を繰返すのだから、解りにくいこと夥しい。しかし、辛抱強く聞分けてその意味を拾い、それを普通の言葉に直して見ると、その時M氏の洩らした感懐は、大体次のようなものであった。
――人生というものは、螺旋階段を登って行くようなものだ。一つの風景の展望があり、また一廻り上って行けば再び同じ風景の展望にぶっつかる。最初の風景と二番目のそれとはほとんど同じだが、しかし微かながら、第二のそれの方がやや遠くまで見えるのである。第二の展望にまで達している人間にはその僅かの違いが解るのだが、まだ第一の場所にいる人間にはそれが解らない。第二の場所にいる人間も、自分と全く同じ眺望しかもち得ないと思っているのだ。事実、話す言葉だけを聞いていれば、二人の間にほとんど差異は無いのだから。――
螺旋階段という代りに、グルグル廻ッテ登ッテ行クノガアリマスナ、ソラ、アノ、高イ塔ナンカニ上ル時ノダンダンニアリマスナ、グルグル廻ッテ昇ッテ行キナガラ、ズットアタリノ景色ガ見ラレルヨウナ、テスリガ付イタリナンカシテイル、ダンダンガアリマスナ、という表現を幾回も繰返して聞かせる位で、以下これに準じて恐ろしくまわりくどく、右の意味のことを言うだけで約三十分もかかるのだが、鉱石の中から乏しい金属を抽出するように、それをよく聞分けて見れば、確かに右のような意味になるのである。何だかモンテエニュでもいいそうなことのように思われ、三造はまた前とは違った意味でM氏の顔を見返した位だが、M氏は読書家ではないから決して書物などからこんな考えを仕入れて来たのではない。五十年の生涯の遅鈍な観察から生れた・彼自身の感想に違いない。こうした言葉を吐きそうな智慧の痕跡のおよそ窺われないM氏の顔を見ながら、三造は次のように考え始めた。
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