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李陵(りりょう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-17 11:39:23 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       三

 乱軍の中に気を失った李陵りりょう獣脂じゅうしとも獣糞じゅうふんいた単于ぜんう帳房ちょうぼうの中で目を覚ましたとき、咄嗟とっさに彼は心を決めた。みずから首ねてはずかしめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責をつぐなうに足る手柄を土産みやげとして――か、この二つのほかにみちはないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于ぜんうは手ずから李陵のなわを解いた。その後の待遇も鄭重ていちょうを極めた。※(「革+是」、第3水準1-93-79)そていこう単于とて先代の※(「口+句」、第3水準1-14-90)犁湖くりこ単于の弟だが、骨骼こっかくたくましい巨眼きょがん赭髯しゃぜんの中年の偉丈夫いじょうふである。数代の単于に従ってかんと戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強てごわい敵にったことはないと正直に語り、陵の祖父李広りこうの名を引合いに出して陵の善戦をめた。とら格殺かくさつしたり岩に矢を立てたりした飛将軍ひしょうぐん李広の驍名ぎょうめいは今もなお胡地こちにまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食をけるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴きょうどのふうであった。ここでは、強き者がはずかしめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧きゅうろと数十人の侍者じしゃとを与えられ賓客ひんきゃくの礼をもってぐうせられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳じゅうちょう穹盧きゅうろ、食物は羶肉せんにく、飲物は酪漿らくしょうと獣乳と乳醋酒にゅうさくしゅ。着物はおおかみや羊やくまの皮をつづり合わせた旃裘せんきゅう。牧畜と狩猟と寇掠こうりゃくと、このほかに彼らの生活はない。一望際涯いちぼうさいがいのない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于ぜんう直轄地ちょっかつちのほかは左賢王さけんおう右賢王左谷蠡王さろくりおう右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草をって土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。単于麾下きかの諸将とともにいつも単于に従っていた。すきがあったら単于の首でも、と李陵はねらっていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地こちにあって単于と刺違えたのでは、匈奴きょうどおのれの不名誉を有耶無耶うやむやのうちに葬ってしまうこと必定ひつじょうゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強しんぼうづよく、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
 単于ぜんう幕下ばっかには、李陵りりょうのほかにも漢の降人こうじんが幾人かいた。その中の一人、衛律えいりつという男は軍人ではなかったが、丁霊王ていれいおうの位をもらって最も重く単于に用いられている。その父は胡人こじんだが、ゆえあって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉きょうりつとい李延年りえんねんの事にするのをおそれて、げて匈奴きょうどしたのである。血が血だけに胡風こふうになじむことも速く、相当の才物でもあり、常に※(「革+是」、第3水準1-93-79)そていこう単于ぜんう帷幄いあくに参じてすべての画策にあずかっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人かんじんくだって匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教をうたことがある。それは東胡とうこに対しての戦いだったので、陵は快くおのが意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリといやな表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于もいて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠こうりゃくする軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後じご、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于はだと李陵は感じた。
 単于の長子・左賢王さけんおうが妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野そやではあるが勇気のある真面目まじめな青年である。強き者への讃美さんびが、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射きしゃを教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほどうまい。ことに、裸馬らばを駆る技術に至ってははるかに陵をしのいでいるので、李陵はただしゃだけを教えることにした。左賢王さけんおうは、熱心な弟子となった。陵の祖父李広りこうの射における入神にゅうしんの技などを語るとき、蕃族ばんぞくの青年はひとみをかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんのわずかの供廻ともまわりを連れただけで二人は縦横に曠野こうや疾駆しっくしてはきつねおおかみ羚羊かもしか※(「周+鳥」、第3水準1-94-62)おおとり雉子きじなどを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者をはるかに駈抜かけぬいていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬にむちうち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬のしりに飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀わんとうをもって見事みごと胴斬どうぎりにした。あとで調べると二人の馬は狼どもにみ裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕てんまくの中で今日の獲物をあつものの中にぶちこんでフウフウ吹きながらすするとき、李陵は火影ほかげに顔を火照ほてらせた若い蕃王ばんおうの息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

 天漢三年の秋に匈奴きょうどがまたもや雁門がんもんを犯した。これにむくいるとて、翌四年、漢は弐師じし将軍李広利りこうりに騎六万歩七万の大軍をさずけて朔方さくほうを出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくにこれをたすけしめた。ひいて因※いんう[#「木+于」、39-13]将軍公孫敖こうそんごうは騎一万歩三万をもって雁門を、游撃ゆうげき将軍韓説かんせつは歩三万をもって五原ごげんを、それぞれ進発する。近来にない大北伐ほくばつである。単于ぜんうはこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水しょごすい(ケルレン河)北方の地に移し、みずから十万の精騎を率いて李広利りこうり路博徳ろはくとくの軍を水南すいなんの大草原にむかえ撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵りりょうに師事する若き左賢王さけんおうは、別に一隊を率いて東方に向かい因※いんう[#「木+于」、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説かんせつの軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣きづかっているおのれを発見して愕然がくぜんとした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴きょうどの敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖こうそんごうが都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとのかどろうつながれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜ほりょが、匈奴軍の強いのは、漢からくだった将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍がけたことの弁解にはならないから、もちろん、因※いんう[#「木+于」、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたびごくに収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西ろうせい(李陵の家は隴西の出である)の士大夫したいふら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致らちされた一漢卒かんそつの口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉むなぐらをつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくいしばり、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶くもんうめきをらした。りょうの手が無意識のうちにその男の咽喉いんこうやくしていたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房ちょうぼうの外へ飛出した。
 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中でうずを巻いた。老母や幼児のことを考えると心はけるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇こかつさせてしまうのであろう。
 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広りこう最期さいごを思った。(陵の父、当戸とうこは、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功をてながら、君側の姦佞かんねいに妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位しゃくい封侯ほうこうを得て行くのに、廉潔れんけつな将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧せいひんに甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青えいせいと衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下ばっかの一軍吏ぐんりとらを借りて李広をはずかしめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中でみずから首ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリとおぼえている。……
 陵の叔父(李広の次男)李敢りかんの最後はどうか。彼は父将軍のみじめな死について衛青をうらみ、自ら大将軍の邸におもむいてこれをはずかしめた。大将軍のおいにあたる嫖騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいがそれを憤って、甘泉宮かんせんきゅうの猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿しかの角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
 司馬遷しばせんの場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒ふんぬがすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于ぜんうの首でも持って胡地こちを脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地こちにあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々うんぬん」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒りしょという者がある。元、塞外都尉さいがいといとして奚侯城けいこうじょうを守っていた男だが、これが匈奴きょうどくだってから常に胡軍こぐんに軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖こうそんごうの軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵りりょうは思った。同じ将軍で、李緒りしょとまちがえられたに違いないのである。
 その晩、彼は単身、李緒の帳幕ちょうばくへとおもむいた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒はたおれた。
 翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配はらぬと単于は言う。だが母の大閼たいえん氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴きょうどの風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾さいしょうのすべてをそのまま引きついでおのが妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでもっているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えをるから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山とうかんざん額林達班嶺がくりんたっぱんれい)のふもとに身を避けた。
 まもなく問題の大閼たいえん氏が病死し、単于ぜんうていに呼戻されたとき、李陵りりょうは人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対にあずからなかった彼が、みずから進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王うこうおうに任じ、おのが娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇ちゅうちょなく妻としたのである。ちょうど酒泉しゅせん張掖ちょうえきの辺を寇掠こうりゃくすべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山しゅんけいざんふもとよぎったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地でおのれに従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血のみ込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。

 翌、太始たいし元年、※(「革+是」、第3水準1-93-79)そていこう単于ぜんうが死んで、陵と親しかった左賢王さけんおうが後をいだ。狐鹿姑ころくこ単于というのがこれである。
 匈奴きょうど右校王うこうおうたる李陵りりょうの心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅ぞくめつされたうらみは骨髄こつずいに徹しているものの、みずから兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることのきらいな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬しゅんめを駆って曠野こうやに飛び出す。秋天一碧しゅうてんいっぺきの下、※(「口+戛」、第3水準1-15-17)かつかつひづめの音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてそのほとりに下り、馬にみずかう。それからおのれは草の上に仰向あおむけにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落へきらくきよさ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子いちりゅうしのみ、なんぞまた漢ととあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬にまたがり、がむしゃらにけ出す。終日乗り疲れ黄雲こううん落暉らっき※(「日+熏」、第3水準1-85-42)くんずるころになってようやく彼は幕営ばくえいに戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
 司馬遷しばせんりょうのために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶あいさつをしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、いやに議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみとたたかうのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。

 初め一概に野卑やひ滑稽こっけいとしかうつらなかった胡地こちの風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服こふくでなければ朔北さくほくの冬はしのげないし、肉食でなければ胡地の寒冷にえるだけの精力をたくわえることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級とけなし去るのは当たらない。漢人のふうをあくまでたもとうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
 かつて先代の※(「革+是」、第3水準1-93-79)そていこう単于ぜんうの言った言葉を李陵りりょうおぼえている。漢の人間が二言めには、おのが国を礼儀の国といい、匈奴きょうどの行ないをもって禽獣きんじゅうに近いと看做みなすことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾のいいではないか。利を好み人をねたむこと、漢人と胡人こじんといずれかはなはだしき? 色にふけり財をむさぼること、またいずれかはなはだしき? うわべをぎ去れば畢竟ひっきょうなんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉こつにくあいむ内乱や功臣連の排斥はいせき擠陥せいかんの跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人ぶじんたる彼は今までにも、煩瑣はんさな礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗こぞく粗野そやな正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さよりはるかに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏しょかの俗を正しきもの、胡俗こぞくを卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかにあざながなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
 彼の妻はすこぶる大人おとなしい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口もけない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵のひざ匍上はいあがって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安ちょうあんに残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供のおもかげをふと思いうかべて李陵は我しらず憮然ぶぜんとするのであった。

 陵が匈奴きょうどくだるよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将ちゅうろうしょう蘇武そぶ胡地こちに引留められていた。
 元来蘇武は平和の使節として捕虜ほりょ交換のためにつかわされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛ないふんに関係したために、使節団全員がとらえられることになってしまった。単于ぜんうは彼らを殺そうとはしないで、死をもっておびやかしてこれをくだらしめた。ただ蘇武一人は降服をがえんじないばかりか、はずかしめを避けようとみずから剣を取っておのが胸を貫いた。昏倒こんとうした蘇武に対する※(「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2-78-8)こいの手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘ってあなをつくり※(「火+慍のつくり」、第3水準1-87-59)うんかを入れて、その上に傷者を寝かせその背中をんで血を出させたと漢書かんじょにはしるされている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶こんぜつしたのちにまた息を吹返した。※(「革+是」、第3水準1-93-79)そていこう単于はすっかり彼にれ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復かいふくすると、例の近臣衛律えいりつをやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈ばりい、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武があなぐらの中に幽閉ゆうへいされたとき旃毛せんもうを雪に和してくらいもって飢えをしのいだ話や、ついに北海ほっかい(バイカル湖)のほとり人なき所にうつされて牡羊おひつじが乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節じせつ十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵りりょう悶々もんもんの余生を胡地こちに埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
 李陵りりょうにとって蘇武そぶは二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中じちゅうを勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵ようりょうまでその葬を送った。蘇武の妻が良人おっとのふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家にしたうわさを聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
 しかし、はからずも自分が匈奴きょうどくだるようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武がはるか北方にうつされていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、おのれの家族がりくせられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
 狐鹿姑ころくこ単于ぜんうが父のあといでから数年後、一時蘇武が生死不明とのうわさが伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
 姑且水こじょすいを北にさかのぼ※(「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-67)居水しっきょすいとの合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海ほっかいあおい水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族ていれいぞくの案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎ごやへと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮をかぶったひげぼうぼうのくまのような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監いちゅうきゅうかん蘇子卿そしけいおもかげを見出してからも、先方がこの胡服こふくの大官をさき騎都尉きとい李少卿りしょうけいと認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武そぶのほうでは陵が匈奴きょうどつかえていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内にって今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
 陵の供廻ともまわりどもの穹廬きゅうろがいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急ににぎやかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎こやに運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日にわたった。
 おのが胡服をまとうに至った事情を話すことは、さすがにつらかった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺さんたんたるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※王おけんおう[#「革+干」、49-11]が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、49-12]王の死後は、てついた大地から野鼠のねずみを掘出して、飢えをしのがなければならない始末だと言う。彼の生死不明のうわさは彼の養っていた畜群が剽盗ひょうとうどものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝かでんらしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子をてて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺さんたんたる日々をたえ忍んでいるのか? 単于ぜんうに降服を申出れば重く用いられることは請合うけあいだが、それをする蘇武そぶでないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早くみずから生命を絶たないのかという意味であった。李陵りりょう自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根をおろしてしまった数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累けいるいもない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄せつぼうを持して曠野こうやに飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心がきざしたとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽こっけいなくらい強情な痩我慢やせがまんを思出した。単于ぜんうは栄華をに極度の困窮こんきゅうの中から蘇武をろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難にええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止しょうしには見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそはまことすさまじくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人おとなげなく見えた蘇武の痩我慢やせがまんが、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴きょうどの単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、みずから顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人おの事蹟じせきを知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵りりょうは、かつて先代単于ぜんうの首をねらいながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土きょうどの地を脱走しえなければ、せっかくの行為がむなしく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武そぶを前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、おのれの過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人ぎじん、自分は売国奴ばいこくどと、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武のきびしさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜ひとたまりもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子ひょうしにひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷ぼろをまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍れんびんの色を、豪奢ごうしゃ貂裘ちょうきゅうをまとうた右校王うこうおう李陵りりょうはなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然しょうぜんと南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎ごやに残してきた。
 李陵は単于ぜんうからの依嘱いしょくたる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武そぶの答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をもはずかしめるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前にそびえているように思われる。
 李陵自身、匈奴きょうどへの降服というおのれの行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己にむくいたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人なんぴとにも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡くんかいでもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人をつかわして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈じゅうせんを贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海ほっかいのほとりの丸木小舎ごやたずねた。そのとき途中で雲中うんちゅうの北方をまも衛兵えいへいらに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守たいしゅ以下吏民りみんが皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子のに相違ない。李陵は武帝ぶていほうじたのを知った。北海のほとりいたってこのことを告げたとき、蘇武そぶは南に向かって号哭ごうこくした。慟哭どうこく数日、ついに血をくに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯しんしさを疑うものではない。その純粋なはげしい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙もうかんでこないのである。蘇武は、李陵のように一族をりくせられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢のちょうから厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭つうこくを見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、たとえようもなく清洌せいれつな純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、おさえようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出わきでる最も親身な自然な愛情)がたたえられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵はおのれと友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでもおのれ自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武そぶの所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝ぶていの死と昭帝しょうていの即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵りりょう故人とも隴西ろうせい任立政じんりっせいら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、わずか八歳の太子弗陵ふつりょうが位をぐや、遺詔いじょうによって侍中奉車都尉じちゅうほうしゃとい霍光かくこう大司馬だいしば大将軍としてまつりごとたすけることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀じょうかんけつもまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于ぜんうの前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律えいりつがそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴きょうどの大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしばおのれ刀環とうかんでて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもってこたえるべきかを知らない。
 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯ばくぎとをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令たいしゃれいが降り万民は太平の仁政じんせいを楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟かくしもう上官少叔じょうかんしょうしゅくが主上をたすけて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律えいりつをもって完全に胡人こじんになり切ったものと見做みなして――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのをはばかった。ただ霍光かくこう上官桀じょうかんけつとの名をげて陵の心をこうとしたのである。陵はもくして答えない。しばらく立政りっせいを熟視してから、おのが髪をでた。その髪も椎結ついけいとてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服をえるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵のあざなを呼んだ。少卿しょうけいよ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟かくしもう上官少叔じょうかんしょうしゅくからよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴ふうきなどは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武そぶの所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのはやすい。だが、またはずかしめを見るだけのことではないか? 如何いかん?」言葉半ばにして衛律が座にかえってきた。二人は口をつぐんだ。
 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫じょうふふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることをおそれたためではない。

 後五年、昭帝の始元しげん六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死きゅうしすると思われた蘇武そぶが偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑じょうりんえん中で得たかりの足に蘇武の帛書はくしょがついていた云々うんぬんというあの有名な話は、もちろん、蘇武そぶの死を主張する単于ぜんうを説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地こちに来た常恵じょうけいという者が漢使にって蘇武の生存を知らせ、このうそをもって救出すくいだすように教えたのであった。さっそく北海ほっかいの上に使いが飛び、蘇武は単于のていにつれ出された。李陵りりょうの心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心のしもとたるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然しゅくぜんとしておそれた。今でも、おのれの過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰けんしょうされることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々めめしい己の気持が羨望せんぼうではないかと、李陵は極度におそれた。
 別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、くだったときのおのれの志が那辺なへんにあったかということ。その志を行なう前に故国の一族がりくせられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴ぐちになってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴たけなわにして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。

径万里兮度沙幕ばんりをゆきすぎさばくをわたる
為君将兮奮匈奴きみのためしょうとなってきょうどにふるう
路窮絶兮矢刃摧みちきゅうぜつししじんくだけ
士衆滅兮名已※(「こざと+貴」、第3水準1-93-63)ししゅうほろびなすでにおつ
老母已死ろうぼすでにしす雖欲報恩将安帰おんにむくいんとほっするもまたいずくにかかえらん

 歌っているうちに、声がふるえ涙がほおを伝わった。女々めめしいぞとみずかしかりながら、どうしようもなかった。
 蘇武そぶは十九年ぶりで祖国に帰って行った。

 司馬遷しばせんはその後も孜々ししとして書き続けた。
 この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみきていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連ろちゅうれん舌端ぜったんを借りてはじめて烈々れつれつと火を噴くのである。あるいは伍子胥ごししょとなっておのが眼をえぐらしめ、あるいは藺相如りんしょうじょとなって秦王しんおうしっし、あるいは太子丹たいしたんとなって泣いて荊軻けいかを送った。屈原くつげん憂憤うっぷんを叙して、そのまさに汨羅べきらに身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦かいさのふを長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしてもおのれ自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
 稿を起こしてから十四年、腐刑ふけいわざわいってから八年。都では巫蠱ふこの獄が起こり戻太子れいたいしの悲劇が行なわれていたころ、父子相伝ふしそうでんのこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史つうしがひととおりでき上がった。これに増補改刪かいさん推敲すいこうを加えているうちにまた数年がたった。史記しき百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝ぶてい崩御ほうぎょに近いころであった。
 列伝れつでん第七十太史公たいしこう自序の最後の筆をいたとき、司馬遷はったまま惘然ぼうぜんとした。深い溜息ためいきが腹の底から出た。目は庭前の槐樹えんじゅの茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹のせみの声に耳をすましているようにみえた。よろこびがあるはずなのに気の抜けた漠然ばくぜんとした寂しさ、不安のほうが先に来た。
 完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急にひどい虚脱の状態が来た。憑依ひょういの去った巫者ふしゃのように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったようにけた。武帝の崩御ほうぎょも昭帝の即位もかつてのさきの太史令たいしれい司馬遷しばせん脱殻ぬけがらにとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
 前に述べた任立政じんりっせいらが胡地こち李陵りりょうたずねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世にかった。

 蘇武そぶと別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平げんぺい元年に胡地こちで死んだということのほかは。
 すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑ころくこ単于ぜんうは死に、その子壺衍※(「革+是」、第3水準1-93-79)こえんてい単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王さけんおう右谷蠡王うろくりおうの内紛があり、閼氏えんし衛律えいりつらと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像にかたくない。
 漢書かんじょ匈奴伝きょうどでんには、その後、李陵の胡地でもうけた子が烏籍都尉うせきといを立てて単于とし、呼韓邪こかんや単于ぜんうに対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝せんてい五鳳ごほう二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。





底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月14日公開
2005年11月1日修正
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    「木+于」    10-7、39-13、39-18、40-8
    「革+干」    49-11、49-12

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