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夾竹桃の家の女(きょうちくとうのいえのおんな)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/17 11:29:26 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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午後。風がすつかり呼吸を停めた。 薄く空一面を蔽うた雲の下で、空気は水分に飽和して重く淀んでゐる。暑い。全く、どう逃れようもなく暑い。 蒸風呂にはひり過ぎた様なけだるさに、一歩一歩重い足を引摺るやうにして、私は歩いて行く。足が重いのは、一週間ばかり寝付いたデング熱がまだ治り切らないせゐでもある。疲れる。 眩暈を感じて足をとゞめる。道傍のウカル樹の幹に手を突いて身体を支へ、目を閉ぢた。デングの四十度の熱に浮かされた時の・数日前の幻覚が、再び瞼の裏に現れさうな気がする。其の時と同じ様に、目を閉ぢた闇の中を眩い光を放つ灼熱の白金の渦巻がぐるぐると廻り出す。いけない! と思つて直ぐに目を開く。 ウカル樹の細かい葉一つそよがない。肩甲骨の下の所に汗が湧き、それが一つの玉となつて背中をツーツと伝はつて行くのがはつきり判る。何といふ静けさだらう! 村中眠つてゐるのだらうか。人も豚も鶏も 少し疲れが休まると、又歩き出す。パラオ特有の滑らかな敷石路である。今日のやうな日では、島民達のやうに 夾竹桃が紅い花を 煙草に火をつけながら、家の前の大きな平たい墓と、その周囲に立つ六七本の 風は依然として無い。空気が濃く重くドロリと液体化して、生温い糊のやうにねば/\と皮膚にまとひつく。生温い糊のやうなものは頭にも浸透して来て、そこに灰色の靄をかける。関節の一つ一つがほごれた様にだるい。 煙草を一本吸ひ終つて殻を捨てた拍子に、一寸後を向いて家の中を見ると、驚いた。人がゐる。一人の女が。何処から何時の間に、はひつて来たのだらう? 驚いた私の顔を、女はまじろぎもせずに見てゐる。それは驚いた目ではない。先刻から私が外を眺めてゐた間中ずつと此方を見てゐたといふ様な感じがした。 女は上半身すつかり裸体で、鳶足に坐つた膝の上に赤ん坊を抱いてゐる。赤ん坊はひどく小さい。生れて二月にもなるまい。睡りながら乳首をくはへてゐる。吸つてゐる様子は無い。びつくりしたのと、言葉が不自由なのとで、私は、勝手に留守宅に休ませて貰つた 私が逃出さなかつたのは、女の目付の中に異常なものはあつても兇暴なものが見えなかつたからである。いや、まだもう一つ、さうやつて無言で向ひ合つてゐる中に次第に微かながらエロティッシュな興味が生じて来たからでもあつた。実際、その若い細君は美人といつて良かつた。パラオ女には珍しく緊つた顔立で、恐らく内地人との混血なのではなからうか。顔の色も、例の黒光りするやつではなくて、艶を消したやうな浅黒さである。何処にも ![]() 弁解じみるやうだが、一つには確かに其の午後の温度と、湿気と、それから、其の中に漂ふ強い印度素馨の匂とが、良くなかつたのである。 私には先程からの、女の凝視の意味が漸く判つて来た。何故若い島民の女が(それも産後間もないらしい女が)そんな気持になつたか、病み上りの私の身体が女のさういふ視線に値するかどうか、又、熱帯ではこんな事が普通なのかどうか、そんな事は一切判らないながら、とにかく現在のこの女の凝視の意味だけは此の上なくハツキリ判つた。女の浅黒い顔に、ほのかに血の色が上つて来たのを私は見た。かなり朦朧とした頭の何処かで、次第に増して来る危険感を意識してはゐたのだが、勿論それを 全く 一瞬前の己の状態を考へて、私は覚えず苦笑した。縁から腰を上げて立上ると、其の苦笑を浮かべた顔で、家の中の女にサヨナラと日本語で言つた。女は何も答へない。酷い侮辱を受けでもしたやうに、明らかに怒つた顔付をして、先刻と同じ姿勢のまま私を見据ゑた。私はそれに背中を向けて、入口の夾竹桃の方へ歩き出した。 アミアカとマンゴーの巨樹の下を敷石伝ひに私は漸く宿に帰つて来た。身体も神経もすつかり疲れ果てて。私の宿といふのは、此の村の村長たる島民の家だ。 私の食事の世話をして呉れる日本語の巧い島民女マダレイに、先刻の家の女のことを聞いて見た。(勿論、私の経験をみんな話した訳ではない。)マダレイは、黒い顔に真白な歯を見せて笑ひながら、「ああ、あのベツピンサン」と言つた。そして、付加へて言ふことに、「あの人、男の人、好き。内地の男の人なら誰でも好き。」 先刻の自分の醜態を思出して、私は又苦笑した。 湿つた空気のそよとも動かぬ部屋の中で、板の間の呉蓙の上に疲れた身体をぐつたりと横たへ、私は昼寝の眠りに入つた。 三十分程も 雨が 底本:「花の名随筆8 八月の花」作品社 1999(平成11)年7月10日初版第1刷発行 底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房 1976(昭和51)年3月発行 入力:氷魚 校正:多羅尾伴内 2003年7月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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