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生前身後の事(せいぜんしんごのこと)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-17 11:16:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     演劇と我(2)

 自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
 さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れるべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々いよいよ歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々われわれは更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死ひんしの状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹をおさえ東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのままに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
 そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家こうずかの間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
 さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢もかねてこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
 一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンをったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
 だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸風を見届けに行って貰った、帰って来ての寺沢の報告は甚だよい、沢田は貫禄も相当あるし部下もよき一団を相当集めてある、演らして見たらよいと云う様な提案であったと覚えているそこで我輩は考えた、今や歌舞伎は新興の意気はなく、新派は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気ざましではないかという心持にまで進んで来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初に国定忠治を後に演ったと思っている、なかなかよく演った、ちょっと類のない芸風もあるし覇気もあるし、殊に国定忠治の中気の場、召捕の場の刀を抜かんとして抜き得ざる焦燥の形などは却々なかなかうまいものであった、ただ芸風に誇張と臭味とが多少つき纏っていることは素人しろうと出身として無理もないと思われる位のものであった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染なじみが無い、そこで客足の薄いことは全く気の毒でもあり、会社の女工と覚しいようなのを大挙入場させたりして穴埋をするような景気であったり、十数人の見物しか土間にいなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニスか何かをやって誤魔化したというような事実話もある、然しこれは彼及び彼一座の恥でもなければ外聞でもない、如何に相当の実力がありとはいえ顔馴染の無い土地へ来ての全く素人出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板がなければ再びは乗り出せないのだ、如何に乗り出したくても興行主が承知するはずはなかったのだ、そこで沢田は第二回の出戦に当り大菩薩峠著者をくこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の勢力を持っていたのである。
 こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色もて取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれをらっし来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風ゆきともりふうという作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、もとより行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥うんでいの相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。
 併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々わざわざ神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。

     演劇と我(3)

 しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口まで飛び出して来て我輩に上草履うわぞうりを進めたりなどする態度は甚だ慇懃いんぎんのものだ、しかしもう開幕間際だったから、楽屋へは行かず直ちに桟敷さじきに出て見物したが、竜之助が花道を出て大菩薩峠にかかるその姿勢がまた気に入らなかった、今更故人に対してアラを拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の難道という足どりは無く、峠の上へ来て四方を見渡す態度にも境界そのものがなくて、どうも見栄みえを切って大向うの掛声を待ち受けるものの如くにしか見えなかったので、あゝこれは見ない方がいいと我輩はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないかもしれないが、これはどうも自分の癖で意気の合わぬものを辛抱してまで調子を合せるということは我輩には出来ぬことである、沢田君も多少その辺からしゃくさわっていたかもしれぬ。
 そうしているうちに、愈々いよいよまた東上してたしか明治座での再度の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していようという態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが、生じい親切気を残したのが却って彼の為に毒となったようだ。
 果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功は我輩にとっては予想外でも何でも無かったが世間には予想外であった、前の時にあれほどみじめなものが、こんどは連日満員また満員で、満員を掲げなかったのは一日か二日という成績で打ち上げた、それから彼が素晴らしい勢となって一代の流行児となったのだが、こちらはもう彼を一度世に出すだけのことをしてやればよい、彼は彼としての存在を示せばよいのだ、そこで、全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとしはじめた、そうして著者に対しては十二分の反抗心を蓄えながら作物だけは大いに利用しようとした処に、すさまじい悖反はいはんがある、それが為に我輩の悩まされたると手古てこずらされた事は少々なものでなかった。
 余の老婆心では彼のいい処は認めるが、然しながらあの行き方では精々お山の大将で終るだけのもので、あれを打ち破らなければ本ものにならないと見ていたのだが、彼の周囲の文士とか劇作家とかいう手合はいたずらにその薄っペラなところだけを増長させて、彼を人気天狗に仕立て上げてしまう外には何にもなし得ないものだ、そういう社会の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)ったが、事は愈々紛擾を増すばかりで、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
 大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気をあおることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずしてむしろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子まなでしである、一体早稲田派が宣伝に巧みなのは大隈侯以来の伝統である、朝に失敗した大隈が野に下って、学校を立て言論界へ多くの人材を送った、そこで早稲田には筆の人が多いし、宣伝機関が自由になる、自然人気ものを作るのはお手のものといった景気がある、前の松井須磨子もそうであるし、今の沢正もそれだ、須磨子なども寄ってたかって高い処へ押し上げてしまってそうして梯子はしごを引いたような形だから、ああいう運命に落つるのもむを得ないのであった、今また沢正にも同じてつを踏ませるな、困ったものだと思いながら眺めていたが、然し彼の行動には我輩に対する見せつけとか当てつけとかいうものが絶えず隠然として流れていた、しかし、こっちはもう自分の作物が彼等の人気に関係しさえしなければそれでいいのだから済ましているうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠にはあこがれをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての机竜之助が見られるものだということを期待していた。
 それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでもにらまれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采かっさいする者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴やけの盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中にの大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。
 拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山もみやま半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城をこしらえてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せてりを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説くどきに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。
 そのうちに、沢田があの通り若くしてたおれることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいってしまうのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすらまれに見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループをことごとく脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈しおのれを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間のめるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐ごうりの差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りたいということにこがれて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。
 その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩をあしざまにした、我輩のこうむった不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。

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