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卑弥呼考(ひみここう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:34:14 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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已百支國 吉田氏は之を伊爾敷と訓み、薩摩國麑島郡伊敷村に當てたり。余は之を石城と訓む。栗田寛氏の古風土記逸文に伊勢國石城の條に日本書紀私見聞を引て云く、伊勢國風土記云。伊勢云者伊賀事志社坐神。出雲ノ神ノ子出雲建子命。又名伊勢都彦命又名天櫛玉命。此神昔石造レ城坐二於此一。於是阿倍志彦神來集不レ勝而還却。因以爲レ名也云々と、則ち此の石城なり。
伊邪國 吉田氏は薩摩國南北伊作二郡とす。余は志摩國答志郡なる伊雜宮所在地とす。即ち天照大神遙宮と延暦儀式帳、延喜式神名帳等にいへる者なり。又伊勢國度會郡にも伊蘇郷あり、伊蘇宮、伊蘇國は並びに倭姫命世記に出でたり。
郡支國 明南監本、乾隆殿板本は並びに都支に作れども、宋元本に從て郡支に作るべし。吉田氏は串伎、即ち今の大隅國姶羅郡加治木郷なりとす。余は之を伊勢國度會郡棒原神社の所在地にあてんとす。谷川士清の和訓栞「くぬぎ」の條に云く、神名式伊勢國度會郡に棒原神社見ゆ、こは棒ノ字字書の義に違ひたれば
度會の大河のへの
とあり。神名帳考證にも棒は欅字の誤也、久奴木の略語奴木原也、長谷街道也とあり。和名鈔に又度會郡沼木(奴木)郷あり。 彌奴國 吉田氏は薩摩國日置郡市來郷の湊かといへり。余は之を美濃國とす。
好古都國 吉田氏は之を好占都に作り笠沙、即ち今の川邊郡加世田郷とす。余が見たる諸本、一も好占都に作れる者なし。故に舊に從て讀み、美濃國各務郡、若くは方縣郡を當つべし。備前和氣郡に香止(加加止)郷ありて聲音はよく通へども、地勢の連絡なきを奈何せん。
附記、松下見林の異稱日本傳には次有伊邪國より好古都國に至る二十一字を脱したり。本居氏の馭戎慨言にも同數の字を脱したるを見れば、本居氏は異稱日本傳によりて説を爲し、三國志の原本をも檢せざりしことを知るべし、其の力を用ひたる考證にあらざること明かなり。然るに其説のよく後人を動かせしは、一は後人の其名に眩せられ、一は國人の自尊心に投ぜしに由るのみ。
不呼國 吉田氏は薩摩國日置郡日置郷とす。余は伊吹山の邊にある伊吹、即ち和名鈔の美濃國池田郡伊福とす。伊福吉部氏の占據せし地なるべし。
姐奴國 本居氏は之を伊豫國周敷郡田野郷とし、吉田氏は訓で谿とし、薩摩國谿山郡とす。是れ皆姐を以て妲と爲せるなり。然るに諸本妲に作る者なし。余は之を近江國高島郡角野郷とす。津野神社あり、川上郷廿餘村の産土神にして、都奴臣の祖、木ノ角ノ宿禰を祀ること、栗田氏の神祇志料に見えたり。
對蘇國 本居氏は土佐をいふかといひ、吉田氏は薩摩國阿多郡田布施郷とす。即ち和名鈔の田水郷なり。土佐とよむは、聲音に於て最も適へども、地勢隔離すれば、余は姑らく之を和名鈔の近江國伊香郡遂佐郷に擬すべし。
蘇奴國 吉田氏は之を噌唹即ち今の大隅國西噌唹郡とせり。余は之を延暦儀式帳、倭姫命世記に所謂佐奈縣なりとす。伴信友の倭姫命世記考に云く、佐奈縣は古事記上卷に佐奈縣(イセ也)中卷伊邪川宮段に伊勢の佐那造、帳に伊勢國多氣郡佐那神社とあり、佐那は今多氣郡に佐那谷とて一谷の大名にて、村八村ありとぞと。
呼邑國 吉田氏は大隅國肝屬郡鹿屋郷とす。余は伊勢國多氣郡麻積(乎宇美)郷とす。中麻積公の祖豐城入彦命を祀れる麻積神社あり。又倭姫命世記に櫛田よりして御船爾乘給弖幸行、其河後江爾到坐、于時魚自然集出天御船爾參乘支、爾時倭姫命見悦給弖、其處爾魚見社定賜支とあり。伴氏の考に魚見社は神名祕書に機殿、儀式帳云、魚見社三前、月讀命、豐玉彦命、豐玉姫と見えたり、延喜式神名帳にも多氣郡魚見神社見えたり、麻積と關係ありげにも見ゆ。
華奴蘇奴國 吉田氏は噌唹の別邑(今東噌唹郡にや)歟といへり。余は二の擬定地あり、一は遠江國磐田郡鹿苑神社の所在地なり。一は古事記に八島士奴美神の子に布波能母遲久奴須奴神あり、母遲は大穴牟遲神の牟遲に等しく、貴の義にして韓語の matai (上の義)に當り即ち不破の國主なり。久奴須奴といへる神名も、古代の習として地名を取りたるべければ、之を華奴蘇奴に當てんと思ふなり。
鬼國 本居氏は肥前國基肄郡なりとし、吉田氏は城、即ち薩摩國高城郡なりとす。されども鬼の音はクヰにしてキにあらず。古音は又魁、傀、槐等に近かるべければ、寧ろ桑の訓にあてゝ、尾張國丹羽郡大桑郷か、美濃國山縣郡大桑郷などにあてん方穩かならんか。
爲吾國 松下氏はイガと訓みたれば伊賀に當てたるならん。本居氏は筑後國生葉郡にあて、吉田氏は可愛即ち今の薩摩國薩摩郡高江郷に當てたり。然れども當時の爲の音はウヰ若くはウワ、クワなるべければ、余は之を三河國額田郡位賀郷即ち今の岡崎地方、若くは尾張國智多郡番賀郷にあてんとす。
鬼奴國 松下氏はキノと訓みたれば紀伊國に當てたるなるべし。吉田氏は今の薩摩國出水郡阿久根なりとす。余は之を伊勢國桑名郡桑名郷に當てんとす。
邪馬國 本居氏は豐前國下毛郡に山國あり、又景行紀に八女縣といふも見ゆるといひ、吉田氏も八女即ち今の筑後の山門及上妻下妻二郡なりとせり。余は伊勢國員辨郡野摩(也末)なりとす。
躬臣國 吉田氏は其名審にし難しといへども、猶今の三潴御井の地にあたるといへり。余は伊勢國多氣郡櫛田(久之多)郷なりとす。倭姫命世記にも御櫛落し賜ひて、櫛田社、定賜ふことあり、儀式帳にも櫛田根椋の神御田奉ること見え、神名帳には多氣郡櫛田神社、櫛田槻本神社、大櫛神社等あり。
巴利國 吉田氏は原、即ち今の筑後國御原郡なりとす。余は之を尾張國若くは播磨國に當てんとす。
支惟國 吉田氏は之を以て肥前の基肄郡としたり。大和の附近にては、之を紀伊とも見るべけれども、惟の音ウヰより推せば寧ろ吉備に當てん方的當ならん。
烏奴國 本居氏は周防國吉敷郡宇努郷とし、又大野といふ處も西の國々にこゝかしこ見えたりといへり。吉田氏は大野、即ち今の筑前の御笠郡大野山なりとす。余は之を備後國安那郡に當てんとす。國造本紀に吉備穴國造あり、孝昭帝の皇子天足彦國押人命の後、彦國葺の孫八千足尼を定められ、又安那公といふよしも姓氏録に出づ。景行紀に穴海あり、安閑紀に婀娜國あり、即ち安那、深津二郡を兼ねて海に瀕せる地なることは、吉田氏の地名辭書にも見えたり。
奴國 即ち前に出でたると同じ。
此女王境界所レ盡。其南有二狗奴國一 其南とは奴國を承けて言へるなり。菅氏が之を汎く女王國の南と解したるが爲に、反て三國志を疑ひ、後漢書の恣意改竄して、自二女王國一東度レ海千餘里、至二拘奴國一といへるを正しとして取りたるは、善く讀まざるの過なり。後漢書の取るに足らざることは已に言へり。本居氏も後漢書によりて、伊豫國風早郡河野郷を狗奴國とし、吉田氏も其誤りを襲へり。余は之を肥後國菊池郡城野郷に當てんとす。即ち奴國の南に當れる地なり。
會稽東治 治は冶の訛りなり。續漢書郡國志に會稽郡に東冶[#「冶」はママ]縣なし、楊守敬が三國郡縣表補正に其の誤脱なることを辯ぜり。今の福州府治なり。
以上 地名を考證し畢る。
(以上明治四十三年六月「藝文」第壹年第參號) 次に官名に就て述ぶべし。但し其中、卑狗のヒコ即ち彦たり、卑奴母離のヒナモリ即ち夷守たるが如きは、辯證を費すを須ひざれば、主として、其餘從來未だ解釋せられざりし者に就て試みんとす。爾支 隋書、北史に擧げたる我國の官名に、伊尼翼あり。黒川氏は翼を冀の訛りなりとして、之をイネキと訓み、即ち稻置なりといへり。此の爾支即ちニキも同語の轉訛と見るべし。
泄謨觚、柄渠觚、
![]() ![]() 多模 タマ即ち玉、魂と訓むべし。櫛
![]() 彌彌、彌彌那利 彌彌は天忍穗耳、神八井耳、手研耳などの耳と同じかるべし。古事記傳卷七に、天忍穗耳命の名義を釋して、耳は尊稱なり(耳字はもとより借字)下に
伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 狗古智卑狗 汲古閣本に智を制に作るは誤れり。宋本三國志、宋本太平御覽、皆智に作れば宜しく之に從ふべし。狗古智は即ち肥後國菊池郡にして菊池の古音は久々智なり。菊池彦は城野郷即ち狗奴國に在る右族にして、熊襲に屬する者なるべし。
以上官名を考證し畢る。 次に人名を考證せんに、其の主なる者は即ち卑彌呼 なり。余は之を以て倭姫命に擬定す。其故は前に擧げたる官名に伊支馬、彌馬獲支あるによりて、其の崇神、垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一なり。事二鬼道一、能惑レ衆といへるは、垂仁紀廿五年の記事並に其の細註、延暦儀式帳、倭姫命世記等の所傳を綜合して、最も此命の行事に適當せるを見る。其の天照大神の教に隨て、大和より近江、美濃、伊勢諸國を遍歴し、(倭姫世記によれば尾張丹波紀伊吉備にも及びしが如し)到る處に其の土豪より神戸、神田、神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るゝこと久しき魏人より鬼道を以て衆を惑はすと見えしも怪しむに足らざるべし、二なり。余が邪馬臺の旁國の地名を擬定せるは、固より務めて大和の附近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、其の多數が甚しき附會に陷らずして、伊勢を基點とせる地方に限定することを得たるは、又一證とすべし、三なり。年已長大無二夫婿一といへるは、最も倭姫命に適當せること、神功皇后とするの事實に違へる比にあらず、四なり。有二男弟一、佐治レ國といへるは、景行天皇を指し奉る者なるべし。國史によれば、天皇は倭姫命の兄に坐せども、外人の記事に是程の相違は有り得べし。此の記事によりても、國政は天皇の御手中に在りて、命は專ら神事を掌りたまひし趣は知らるべく、たゞ其の勢威のあまりに薫灼たるによりて、誤りて命を女王なりと思ひしならん。命の勢威盛んなりしは、日本武尊の東征に當りて、必ず之に謁し、其の凱旋に當りても、俘虜を神宮に獻つりし事などを見て知るべく、特に其の天照大神を奉じて、神領を諸國に徴するは、一種の宗教的領土擴張にして、其の成功は武力を用ひたる四道將軍にも比すべければ、外國人が女王と思ひしも故なしとせず、五なり。以二婢千人一自侍といへる、數の過多なるはいかゞと思へど天見通命の孫に八佐加支刀部が兒、宇太乃大禰奈といふ童女などの御供に仕へたることは倭姫世記に見え又唯有二男子一人一(隋書及び北史には二人に作る)給二飮食一、傳レ辭出入といへるも、倭姫世記に見えたる大若子命が其弟乙若子命を、建日方命が弟、伊爾方命を舍人とせしことなどにも思ひ合すべし、六なり。其餘は下に出づる人名の考證によりて、益々明なるべし。卑彌呼の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代卷に
難升米 雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣二大夫難升米等一詣レ郡求下詣二天子一朝獻上。倭女王ハ倭奴王ノ誤ニシテ、難升米は田道間守ヲ訛レルナリ」とあり、倭女王を倭奴王とするは、殆ど取るに足らざるも、田道間守を難升米とするは從ふべし。紀によれば田道間守は垂仁天皇の崩じ給ひし翌年、常世國より至り、往來の間、十年を經たりとあり。倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより、中間歸國の事明らかならず、其の確かに歸りしは正始八年以後魏の使張政等と偕にせし時に在り、而して其時卑彌呼
伊聲耆掖邪狗 倭人傳に此人名を出すこと三處なるが其の始めて出せる時のみ伊聲耆掖邪狗とありて、後の二處は、單に掖邪狗とのみありて、伊聲耆の字なし。按ずるに伊聲耆の音はイ、サン、ガと訓むべく、掖邪狗も亦イ、サ、カと訓むべし、蓋し魏人が同一の人を兩樣の對音にて記せる者が、一は重複して記され、一は單に一方のみ記されたるならん。神名帳に出雲國出雲郡阿須伎神社同社神伊佐我神社あり、又同郡に伊佐波神社、伊佐賀神社あり、栗田氏の神祇志料に皆出雲國造の祖、天夷鳥命の子伊佐我命を祀るとせり。此神果して天穗日命の孫ならんには年代合はざるの嫌あれど、出雲國造系圖、中臣系圖、舊事紀の天孫本紀、物部、尾張二氏の系圖すべて帝系に比しては、太だ世數の少きを常とすれば、伊佐我命の年代も必ずしも天穗日命を標準とすべからず。且つもし其名にして居地などに取りたらんには、かの命の後裔が其名を襲用せりとも見ることを得べし。因て姑らく伊聲耆、即ち掖邪狗を以て此命に擬す。
都市牛利 此の人名に就ては、一は田道間守に縁ある者として解することをも得べく、又一は伊佐我命に縁ある者としても解することを得べし。故に上の二者の後に出したり。田道間守に縁ある者としては
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