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日本上古の状態(にほんじょうこのじょうたい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:30:13 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

從來日本史の研究は、何れの時代を問はず、本國の側から觀察するが常であつた。たまに松下見林の異稱日本傳の如く、他國の側からこれを見たものもあるけれども、これは極く稀な例であつて、殊に徳川の中世以後、國學が發達してから、其の研究法が當時の漢學者に比して寧ろ進歩して居り、學術的に近い爲に、その日本中心主義の研究法をます/\一般に是認せしむる傾向を強めた。それで藤貞幹などの如く多少考古學の樣な見地から、古代史を他國の側から見ることを思ひ附いた人があつても、それは國學者の激しい反感を買ふに過ぎずして、其の研究法が完成するに至らなかつた。尤も中には本國中心主義とは稱しながら、平田篤胤等の如く、他の國の古代状態を研究して、それを本國の古代史に比較しようと試みたものもある。然し此の方法は其の外形が依然として本國中心主義であるが爲に、多數の低能な國學者には、其のきはどい研究法が理解せられずに終つたことが多い。明治以後史學が盛になつたと云つても、やはり此の本國中心主義が依然として國史界を支配して居り、少しきはどい研究法を用ゐると、動もすれば神職及び教育家等から道具外れの攻撃を受ける事を常とした。その癖、民族論並に言語學的の研究等に就いては、好んで其の系統を國外に求めんとする傾が盛であるに拘らず、國史の研究はどこまでも本國中心でなくてはならぬとし、日本國の成立せる素因を幾分外界の刺激に歸することさへも不都合とし、外國の材料に依つて研究することは、動もすれば記録の不確實なる朝鮮の歴史から推究さるゝことは寛容しながら、記録の確實なる支那の歴史より推究さるゝことを務めて排斥する傾が多かつた。それ故日本上古に關する見解の程度は、今日に於ても依然として國學者流の圈套を脱しない。これは今後の研究に於いて、國史上の一大問題とせなければならぬ。
 今その支那の記録から見たる日本上古史に就いて、一々考證的に論ずるに暇ないが、大體右の如き研究法に依りて、やゝ自由に考へ得らるゝ所の結論だけを、茲に聊か述べて見たいと思ふ。
 大體此の日本が倭國として支那に知られたのは支那の戰國の末年からであると思はれるが、支那の戰國の末年は東洋全體の各民族にとりて重要な時期であり、從つて支那史が東洋史となるべき基礎を形成した時代であると云ふことが出來る。支那は春秋戰國時代に於いて疆土が分裂し、内亂にこれ日も給らなかつた樣であるが、然し其の爲に支那民族の發展を著しく擴大した。春秋の末年に既に南方に於いて呉若しくは越の如き蠻夷が國を形造つた。それと同樣の事情に於いて北方では燕の國が形造られた。而して戰國に入るに從つて數十の國々が段々に併合されて、戰國の末年には僅かに十ヶ國内外になつてしまつた。而して互に富國強兵の術を競うて、國力の發展に務めたが爲に、内部にあつて四面強國に限らるゝ國の外は、皆外部に向つて發展した。楚がます/\南嶺山脈の谿間谿間に生息せる苗族を追ひ詰め、秦が巴蜀地方を併合し、趙が北方の匈奴と戰端を開きて其の疆域を擴めたが、戰國の諸國中に最も弱國と云はれし燕の國も、遼東よりして遙かに朝鮮の半まで侵略するに至つたので、漢の時代には大同江附近よりして燕までの間が、同じ言語を用ゐて居つたと云ふことに依つても、其の發展の状態が知らるゝのである。斯の如く戰國時代からして既に支那の疆域は全體に於いて外に向つて膨脹しつゝあつたのに、秦の天下を統一して、其の力を一にせるが爲に、益々其の膨脹力を増して、遂に東は朝鮮の半位から北は沙漠の南、西南は安南地方に至るまでも併合して絶大の國を形成した。此の膨脹は一時秦が滅び、漢が起るまでの間の内亂の爲に頓挫し、殊に秦の膨脹の刺激によつて、匈奴が大國を形つくつて、逆に漢に攻め入る程の抵抗力を現はした爲に、漢初には其の膨脹が繼續せられなかつたけれども、其の時漢の疆域の外にあつて國を建てた色々な國は、多分は戰國以來秦に至るまでの間に、外國に流れ込める支那人に依つて形造られた。即ち越の尉佗の國、朝鮮の衞滿の國などがそれであつて、恐らくは當時支那人の流浪者が至るところに疆外に流れ込み、而して其の長い間國家的に訓練された生活状態を、猶未開にして部落生活を脱しなかつた所の土着民族に浸漸させて、それ等をして各やがて民族的國家を形造るべき素因を作らしむべく進みつゝあつたに相違ない。
 それで前漢末までに其の效果が段々現れて來て、他の部分の例は暫く置くが、支那の東北に當る地方に於て、既に夫餘國の出現を見、又王莽時代に於いては高句麗國の出現を見たが、多分※(「さんずい+歳」、第3水準1-87-24)國なども其の當時に於いて形造られつゝあつたに相違ない。朝鮮南部に於ける倭民族及び韓民族は當時猶數十の部落に分れて居つた樣であるけれども、後漢に至つて馬韓、辰韓等は漸く統一に傾ける事がわかる。漢書地理志の云ふ所に依れば、最初是等の國々は、皆住民は土着民族で、其の統治者は漢人であつて、高句麗若しくは三韓の一部分の如きは、明かに漢の郡縣と認められて居る土地に、既に土着民族中に、一種の統治者を出したので、王莽時代の高句麗侯、漢の封爵を受けて居る※(「さんずい+歳」、第3水準1-87-24)王等は即ち其の實例である。斯の如き状勢は、當時に於いて日本にも波及しないとは想像し得られない。但し日本は海外にあつたが爲め、漢書にも樂浪の海中に倭人あることを説いて居つて、高句麗、※(「さんずい+歳」、第3水準1-87-24)、韓諸國の如く、漢の郡縣となつたのではないけれども、已に朝鮮の海上を傳つて來た支那の植民は、日本にも絶えず入込んで來たので、茲に最初の交通が開け、而して倭人百餘國が漢に交通すると云ふことになつて來た。勿論此の前に戰國の末に既に倭國と燕との關係があつたらしいのであるけれども、其の交通の状態が明白になつて來たのは、やはり漢の武帝が朝鮮を郡縣にした以後の事であるに相違ない。支那の記録に依れば、此の時代の倭國の状態は、百餘國と云ふが如く、單に部落的の生活を營んで居つて、明白に統一された形迹が不明である。此の倭國と云ふものは少くとも日本の西半部全體を意味するものであつて、單に倭人を九州に居つた民族、或は更に限つて隼人種族と云ふが如き見解は、矢張本國中心主義の偏見として、自分の取らない所である。その當時の交通の實蹟は、近來の發掘物等に依つて益明確になりつゝあるので、現に九州の北部、大和等に於いて前漢時代の形式と認めらるゝ古鏡等を發見し、又九州北部に於て、其の形式の古鏡と共に存在した銅鉾銅劍が、中國、四國、紀州邊までに於て發見さるゝ所を見、殊に王莽鏡と云はるゝものが美濃に發見され、王莽の貨泉が丹後、筑後等に發見せらるゝ所を見ると、朝鮮の南部から一方は對馬壹岐を傳つて九州北部から瀬戸内に入り、或は又事に依ると四國の南方の海流に依つて紀伊に達し、一方は山陰を傳つて越前地方まで達し、それが然るべき港々から段々内地に入つて來て、例へば但馬邊から中國を横斷して瀬戸内に入るもあり、越前から近江を經て畿内に入るもあり、又美濃から東海に出るもあり、至るところ支那の文化を齎らせることが分明し、殊に今日で最も歴史上の疑問とせらるゝ銅鐸はやはり支那文化の傳來と重大なる關係を有するに違ひないが(此の事に就ては別に自分の意見を發表する機會あるべし)その分布の迹は近來に至つてます/\明瞭になつて來た。恐らく戰國の末から前漢までにかけて、即ち支那に於ては周代の文化の系統を受けたる銅鐸と、漢代の文化を代表する鏡鑑とに依つて、其の長い間引續き日本に染み込んで來た支那文化が、部落的生活を營める土着民族をして、段々に統一に赴かしめる樣になつて來て、殊に銅鐸などに於ては古くから支那製のものばかりでなく、支那製に傚うて新たに日本の地方色を加へた所の遺物が多數發見さるゝところから見ると、統一したる國家を形造る前に、已に文化に於いて多少の獨立を示して居るものであつて、それが恐らく王莽時代位に於て、即ち對岸の朝鮮滿洲等の大陸諸民族等も、漢の壓力の衰へたるを機會として、獨立の形を成せる如く、日本の島國に於いても同時に統一したる國家を形造る運命にまで進んだものではなからうかと思はれる。
 そこで後漢の初めたる建武中元二年に支那に交通した統一的國家の首領は即ち委奴國王の封號を受け、漢の印綬を領するに至つたものと思はれる。此の委奴國王は從來は色々に解釋したが、やはり倭國の倭の字と同じ言葉に當てたに相違ないのであつて、昔法隆寺に藏せられ、現今にては御物となつてをる聖徳太子の法華經疏は、其の本文は六朝風の書であつて其の表題は稍時代が遲れてをるとは云ひながら、恐らく白鳳期を降るものではないが、其の表題に大委國上宮太子と書いてをる所を見ると、委と倭と同樣に用ひ、同じく大和の音に當つるものであつて、傳統的に太子時代の前後迄用ひられて居つたことが明白であるから、初めて漢に交通した委奴國なるものも、多分太子時代には大和の朝廷と解釋されてをつたに相違ない。此の最初の解釋を、本國中心主義の國史家に依つて從來故なく曲解されて來てをつたのは自分は斷然不當だと考へる。それから又此の委奴國王の印と云ふのが筑前の志賀島にて發見されたのであるが、之は尚後代に於いて足利氏が受けて居つた日本國王の印を大内氏が預つて居つて明に交通した事から思ひ併すれば不思議はないので、三國志の倭人傳にも博多の地方に倭王の宰領たるべき職務の者が控へて居つて輸出入の貿易品の審査をすることを云うてをり、此の三國志の倭人傳はたぶん魏略に依つて書かれ、魏略は後漢以來三國の前半期までの記事であるから、後漢の時に於いてやはり同樣の状態であつたと云ふことが推測され、即ち大和に統一した朝廷があつて、其の派遣官即ち後世の太宰府同樣のものが筑紫に出張して、それが海外交通の文書を司つて居たので、併せて國王の印をも預つて居つたと解釋するが至當である。兎も角此の時は既に日本の西半部を統一した國家が出來て居るので、其の國土が相當に大きくあり、文化も既に相當に進んでをつたので、漢の之に對する待遇も頗る鄭重で、其の國王印の如きも海外の大國に與へる形式のものを與へて居つたのである。たぶん後漢の初、日本の統一した國家の發端とも見るべき此の時代には、日本の西半部より朝鮮の南部までかけて領有してをり、當時に於いて已に三韓の未だ國家の形をなさゞる諸部落に對しては大なる威力であつたのに相違ない。それは日本の傳説的の歴史に於いて何の時代に當るかは充分に明でないけれども、寧ろ此の頃を以て日本の開國の紀元と略ぼ定める方が正當ではないかと思ふ。
 それから後七八十年にして、日本に於いては崇神天皇の頃、即ち後漢に於いては桓帝靈帝の間に内亂があつたと云ふのが本で、所謂卑彌呼時代を來した。これは自分が嘗て考へた如く、日本に於いては倭姫が天照大神の御靈を奉じて諸國の土豪から領土人民を寄附させて統一の基礎を固めた時に當ると思ふ。兎も角後漢以後の交通は餘程頻繁なものであつて、其の時代に於ける支那の鏡鑑は至る所の古墳に發見せられ、而して支那に於いても各時期に亙る所の形式を、我が古墳出土の鏡鑑に於いて殆んど悉く具備してをると云うてよい位である。殊にその頃からして既に支那式模製の日本鏡鑑の發達を促し、銅鉾等に於いても盛に日本製のものを出す樣になり、古墳の構造は益發達して支那石造※(「土へん+專」、第3水準1-15-59)造家屋を模した所の棺槨さへも具へる樣になつて來て、これから以後六朝にかけては、古墳から出る遺物としては、鏡鑑の如き當時の信仰に關係ありと認めらるゝものゝ外、玉石器に於いても漢代に盛であつた玉器の模製と思はるゝもの益多く、殊に又支那地方の生産品で、恐らく日本人の愛好するが爲に特別に製造して輸入したらしく思はるゝ琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)の勾玉等を見、甲冑、馬具、刀劍、沓等の類に至つては、支那に於いても後漢から六朝にかけて最も進歩した工藝になつた鍍金の精巧なるものを多く發見し、是等に附着し又は鏡鑑を包み等した痕迹等から考へて、支那の絹布が盛に輸入せられたことも考へられ、當時恐らく日本人は之を以て和栲と稱して居つたかと思はるゝので、斯の如き美しく綺羅びやかな遺物は、西は九州より東は兩毛奧州の南部に及んで居り、又斯くの如き古墳の決して少なからざる實蹟から考へると、當時日本の生活状態と云ふものは、部曲民、賤民等の如き低級の者は、或は單に荒栲、即ち木の皮の纖維等より作られた今日のアイヌの厚子アツシの如きものを服し、少しく上等な所で麻苧類の服を着て居つたに過ぎないであらうけれども、當時少なくも、殆んど後世の一郡平均に一家か二家までもあつたと思はれる地方貴族等は、皆支那輸入の絹帛を服し、鍍金の甲冑を着し、金覆輪の馬具を置き、刀環の着いた刀劍を帶び、頗る豪奢の生活をして居つたと思はるゝので、勿論大和朝廷等は當時よりして既に高句麗夫餘等の王にも寧ろ過ぎても及ばざることなき立派な生活をして居られたらしく考へられる。日本の古代史の考證家若しくば畫家等が、やゝもすれば古代の帝王其の他の生活を畫くに、無闇に簡朴なる状態に之を表現するけれども、是等は全く誤りであつて、存外支那の王侯と餘り異ならない生活をなし得たものと考へられる。必要上書契こそ自ら使用しないけれども、其等は歸化人の通譯官の家柄の者に任せて居つたので、其の他の點に於いては其の生活に於いても、思想に於いても、やがて聖徳太子の如き偉人を産出すべき素養は久しき以前より段々に具へつゝあつたのであると思ふ。それで後漢以後六朝時代の交通は、書契を自ら司らざる爲に、名分と云ふ觀念が充分に發達しなかつたのであるが、其の他の國内に於ける統治の機關、或は海外貿易を取締るべき機關として歸化人の史等を使用し、それ等が漸次に記録を造りつゝあつたと云ふことは、即ち聖徳太子時代に於て國史編纂をなすべき基礎になつたので、聖徳太子は其の上に外國に對する名分の觀念を明白にして、從來通譯官並に史が勝手に扱へる統治機關を明確なる自覺に依つて自ら之を總攬するに至つたのである。右樣な状態なるが故に、日本は海中に孤立して居ても、其の國力の強盛、人民の智能の發達も、既に三韓諸國等の上にあつたので、決して三韓の文化を輸入したが爲め、日本の發達を促したと云ふが如きことはない、永い間の支那文化の感化に依つて適宜に國家の成立を致す樣になつたので、寧ろ斯の如く國家が強盛であつたが爲めに、高句麗よりかも、百濟、新羅よりかも、書契の採用が遲れたと解すべきである。
 大體に於いて自分の日本上古の状態に關する考は右の如きものであつて、之を一々文獻其の他に依り證據立てることは必ずしも難き事でないが、それは又他日に讓り、茲には其の輪郭だけを述べたのである。
(大正八年二月「歴史と地理」)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:「歴史と地理」
   1919(大正8)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月24日公開
2006年1月20日修正
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