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聖徳太子(しょうとくたいし)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:25:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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聖徳太子に關して徳川時代の儒者で之を作者の聖と稱せし人があつたが、之は最も善く當つて居つて、殆んど其の人格の全體を悉して居ると思ふ。支那で作者を聖と稱するのは、即ち人民の爲に其の生活に關する種々の仕事器物など、更に進んでは文物典章を作つた人を聖人とすると謂ふ意味で、伏犧神農以下文武周公に至るまで皆さう謂ふ性質の人である。日本では勿論人民の生活に關する一般的のことは前から自國で發明されて居ることも有り、又聖徳太子以前に於て支那から輸入されたこともあるが、しかし其の内外の文化を巧く煉り合せてそして今日の日本文化の基礎を作り、その當時の日本文明を建設したと謂ふ點に於ては聖徳太子以上の人は無い。 聖徳太子は永い日本の歴史に於て啻に佛教家に尊崇されるのみならず、大工左官などの職人の祭る神としてもあがめられて居るのは、明らかに其の作者たることを證據だてて居るものと謂つても宜しい。それが爲に佛教に反對し 太子の外交方針 其の第一は外交に關することである。一口に謂へば日本が獨立の國家たることを國人に自覺せしめ、それと同時に外國にも認めしめたのは太子であると謂つて宜しい。其の點を明らかにするに就いては聖徳太子以前の外交の歴史を説く必要がある。 日本の海外交通の事實は、我々が日本の古代史に於て知つて居るよりも遙に古いものと思はれる。山海經に在る倭の記事は戰國末から漢初までの記録であらうと思はれる。引き續き漢の武帝が朝鮮を平げて其處に四郡を置いた時に、樂浪の海中に倭人あることが知られて、既に漢書の地理志に載つた。此等は日本紀の日本年代より謂へば神武天皇の開國以後になるけれども、近來の史家は之を神武天皇以前のこととして認めるに躊躇しない。さうして日本の土地から出る遺物の中にも此の時代と相應するものが出土して此の記事を裏書することが多い。神武天皇以後とも想はれる交通の事實には、後漢の光武帝の中元二年に委奴國の朝貢した記事があり、引き續き安帝の時代に倭面土國王より生口を獻ぜしことが有る。三國時代になると有名な卑彌呼の交通があり、晉代より南朝にかけて歴代交通の記事が各時代の支那正史に載つて居る。 此等の交通を裏書するものとして最もやかましい出土の遺物は、博多の志賀島より出た漢委奴國王の金印であつて、之は當時の漢の制度を考へても外國に遣る印として最も重んじた形迹もわかり、制度にあるが如く蛇鈕であることなども其の確かなものであることを示して居る。國學者並に史家の間には、之が九州から出たので大和の朝廷には關係の無いものと解釋する人が多く、非常に詳しく書かれてある卑彌呼の記事も九州地方の女酋であると謂ひ、又た東晉より宋、南齊にかけて倭國王に與へた官爵がいろ/\あるが、其の一例を謂へば 使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王 などと謂ふものがあるが、此等も多分日本から任那に派遣せられて居る當時の外交は一種特別の事情があるので、日本の朝廷が海外と交通する時に、其の使者の職を承はる者は ![]() 此等の歸化人は海外に派遣せらるゝ際、朝廷より貿易に關する御趣意を承つて、海外から珍貨を齎らし、若しくは 又た船首の官などが置かれた時代は大分海外交通が頻繁で、朝廷の近い處即ち河内と大和との界で、淀川大和川に入つて來る船を檢査する爲にそれが置かれたのであるが、其の以前は其の檢査を遙に遠い九州の入口で行つたので、漢委奴國王の印が志賀島から出たのも其の爲である。三國志の倭人傳に據ると日本より三韓並に魏の帶方郡に往來する者の貨物は、國王の命令として博多附近で檢査せられる。それ故當時海外交通を司る職に在つた安曇連などが、支那から受取つた國王の印を自分の家に預つて置いて、支那と交通する際に勝手に之を押捺して文書を作つたものであらう。勿論此の時の文書は竹簡木簡で、泥で封じた上に印を押捺するのであるから、印が在れば即ち支那へ持つて行つた時證據となるので、文書は簡單でも、或は無くても、よかつたかも知れない。之は後世足利時代に山口の大内氏が、足利家の日本國王の印を使用して明と交通したのと同樣の關係であつて、勿論古代の方は朝廷では其の印が如何に使用せられるかなどには無頓着で居られて、單に貿易の結果のみを考へて居られたのであらう。それ故、此の時代の外交は一言で掩へば通譯外交であり、貿易上の利益さへ有れば其の交通の關係は或は不問に附せられたか、或は明らかに承知せられざりしかであつて、體面上の問題は重きを置かれなかつたのであらう。但し日本文化がだん/\に進んで、時として貴族の間に支那の學問をなさむとする人が出て來ると、此の交通方法の破綻が顯はれることがある。菟道稚郎子が高麗の上表の無禮を發見した傳説などは其の一例であるが、これらは稀に有つたことで、大體は依然として通譯外交が繼續したのである。 然るに聖徳太子は支那の學問をも充分に爲して、海外の事情にも通ぜられたのであらう、通譯外交がいたく國家の體面を毀損せることに氣がついて、通譯が獨占して居つた外交の權を朝廷に收められ、隋に使者を遣はす時には歸化人の譯官、 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。此の時、日本國書の無禮には驚いたが、海外に居る國の王として不思議なものと思つたらしく、妹子の歸るのに添へて裴世清と謂ふ使者を遣はした。其の時妹子にも返翰を渡し、裴世清には別に國書を授けて遣はしたが、妹子は途中で百濟人に盜まれたと謂つて返翰を持つて來ない。之は多分其の書體が對等ではなかつたので、妹子は故意にそれを失つたか、或は太子の皇帝問倭皇 とあつた。後に出來た太子傳には、此のことを天皇から問はれた時に、太子は、天子から諸侯に賜ふ式である、しかし倭皇と謂つて皇の字を用ひてあつて、皇も帝も同樣に重い字であるからと謂つて、とりなして無事に通過したと謂つて居るが、實は支那の書式としては皇帝問倭王であるべき筈である、隋の原書は倭王であつたに相違ないが、日本で上られる時に少し手を加へたに相違ない。之に對して日本から隋へ送つた國書は日本紀にあつて、東天皇敬白西皇帝 とあつて、同じく對等の詞を使つてある。之に懲りたか、隋からは再び使者は來なかつたが、太子の考は日本が支那と對等の國であることを知らしめると同時に、國交を破らずして其の文化を取り入れ、多くの留學生などを遣るつもりであつたから、餘程うまく加減をして外交をせられたものと見える。兎も角此の一擧で日本の朝廷も自國の位置を自覺し、支那にも之を知らしめたのであるから、當時の世界に於ては國際上の一紀元と謂つてよかつたのである。これ以後引き續き支那との交通の行はれた時に、太子ぐらゐ巧妙に取り扱つたことも尠ないので、郭務 ![]() 勅日本國王主明樂美御徳 と書き出したのがあるが、此の勅書は日本に到着したか如何かは分明でない。大體聖徳太子の方針が歴代の國交に遺つて居つて、支那との間に不即不離の交通を維持して居つたらしい。其の中にも見事なやりかたは太子であつて、後にはこれ程巧妙には出來たことが無い。 太子の内政上の主義 次には内政に就いて述べるが、これも太子以前の國内の事情を十分に理解せなければ太子の勝れた點がわかりにくい。太子以前の國情は大化革新の際の詔に見えて居る所で、昔から天皇等の立て給へる子代の民、處々の屯倉、 國司國造、勿斂百姓、國非二君、民無兩主、率土兆民、以王爲主、所任官司、皆是王臣、何敢與公、賦斂百姓、 とあるが、これは當時の如き氏族制度時代に於て、即ち各氏族が尤も聖徳太子の斯の如き主義を思ひつかれたのは、支那の秦漢以來の政治にも通曉して居られた爲でもあらうが、或は又た隋代の政治改革を既に知つて居られて、それに倣はれたものと推測し得ることもある。隋の文帝は魏晉以來の名族專有の政治を改めて郷官を廢し、後の科擧制度の端緒を開いた人であつて、支那の政治の歴史には重大な關係を有つて居る人である。聖徳太子の憲法發布は妹子の遣隋以前に在るけれども、いづれ遣隋以前に隋の國情をば出來るだけ調べられたことであらうから、隋の政治改革をも知つて居られたかも知れぬ。さうすれば此の憲法の趣意は益々以て天皇の大一統主義と解釋すべきものであつて、今日の日本の國體の起源を開いたのは太子であると謂つてよろしい。唯太子は此の主義を實行するに至らずして早世し給ひ、後に三十年程を經て大化の時に主として天智天皇が之を實行せられたので、其の功績は孝徳天智の兩天皇に歸すべきであるけれども、兩天皇の改革は聖徳太子の宏遠な理想規模に據つたことは疑の無いことで、之は單に其の主義から謂ふばかりでなく、大化革新の主なる參謀であつた人々、南淵請安、高向玄理、僧旻など謂ふ人々は、皆聖徳太子が妹子につけて隋に遣はした留學生である。天智天皇にしても藤原鎌足にしても、此等の新智識が無かつたならば、決してあれだけの破天荒の鴻業を爲すことが出來なかつたであらう。して見れば大化革新の功績は其の主要な部分を、やはり聖徳太子に歸せなければならぬ譯である。 佛教採用の一理由 聖徳太子が佛教を盛にしたことに就いて、今日では格別に攻撃する人も無くなりつつあるが、一時國學者などは歴史の文を曲解してまでも惡口を謂つたので、譬へば推古天皇の十五年に神祇を祭祀することを怠つてはならぬと謂ふ詔勅が出て居るが、これだけは太子の意志でなくて、推古天皇の思召であると解釋し、太子攝政時代の中の事實にまで斯の如き選り別けをして太子を攻撃した。之は今日の史眼から見れば謂はれの無いことで、太子は佛教を盛にすると共に神祇をも崇敬せしめたに相違無い。それに就いて考ふべきことは當時佛教の如き新しい宗教を取り入れる必要が日本にあつたことである。之は明治の維新でもわかるが、維新以後迷信に關する淫祠を禁じ、或は巫女の職業を禁じた樣なことは、太子の時代に於ては最も必要があつたに違ひない。日本の探湯の刑罰、或は蛇を瓶の中に置いて之を訴訟の兩造者に取らせることなどは隋書にも出て居るくらゐであるから、一般に行はれて居つたに相違ない。かゝる迷信を除く爲には、當時最も合理的に進歩した宗教と謂はれる佛教の如きは極めて必要であつた。佛教は其の後になつて日本の迷信を利用して修驗道やら眞言宗やらが興つたけれども、太子時代に輸入された佛教の極めて理論的であることは、太子の著述なる三經疏に據つても知ることが出來る。 蘇我氏と太子 後世の國學者儒者から最も太子を攻撃するのは、馬子の弑逆を處分せなかつたことであるが、是亦時勢をも事情をも考へない議論である。馬子が弑逆を行つたと謂ふことは、今日から見れば明白な事實であつても、當時は下手人は別にあつて、而も馬子はその下手人を自ら殺して居る。形迹が顯はれない上に、當時の太子は廿歳にも達しない少年である。蘇我氏の權勢が絶頂に達して居る歳とて、若し太子が馬子に對して事を擧げて敗れたならば、皇室に如何なる危害が及んだかも知れない。それ故に隱忍して時を待ち、其の勝れた才徳を以て自然に馬子をも威服せしめ、蘇我氏の權力をも壓へる樣にしたことは、日本紀を讀んだだけでも分明である。 太子の薨去せられて後に、馬子が推古天皇に葛城の ![]() 斯の如く考へ來れば、太子は作者として、人格者として、殆んど缺點の無かつた人と謂ふことの出來るくらゐである。近頃になつて太子の一千三百年忌に、いろ/\な企に據つて太子の功徳が頗る表彰されたが、しかし其の間には古史に關する國史家の意見に我々の贊成せられない處も有るので、茲に自分の意見を概略發表して置く次第である。 (大正十三年六月) 底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房 1969(昭和44)年4月10日発行 1976(昭和51)年10月10日第3刷 底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂 1930(昭和5)年11月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:はまなかひとし 校正:菅野朋子 2001年10月17日公開 2006年1月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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