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爾雅の新研究(じがのしんけんきゅう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:22:10 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

爾雅の研究に就いては余は嘗て之を二つの方面から考へたことがある。即ち一は新らしい言語學に依つて研究する方法であつて、これは爾雅が如何なる成立ナリタチの書であるとも、又其の中に含んでゐる言語が如何なる時代、若しくは地方のものであるとも、それらのことを必ずしも穿鑿することなしに、單にこれを支那古代の言語を集めた書として、其の傍近の種族が有する國語に比較し、共通した語根を有するや否やを考へ、其の關係を明らかにするので、其の方法は東亞諸國の言語に對する智識を必要とするのであるが、余は嘗て主に東北塞外種族の言語即ち大體ウラルアルタイ語系に屬する言語から考へて、爾雅の中にそれらの言語と一致する言語があるか否かを檢し、其の一端を一度京都大學の言語學會で發表したことがある。當時余は別に稿本をも留めなかつたが、之に就いては他日一の研究論文として學界の批判を請ふべき機會があらうと思ふ。それから今一つの研究方法は爾雅を以て普通に傳へられてゐる如く諸經に對する辭書として、爾雅そのものゝ成立と同時に、諸經の發展をも相關係せしめて考へることであつて、其中の言語が如何なる時代若しくは地方のものであるかと云ふことも或る程度までは考へ得られるので、其の編纂された次序、意義等から推して、某の時代、某の地方の言語を含む經籍が、やはり某の時代、某の地方に於て竄改されたのでないかといふことを斷ずる資料とするのである。此方法に就いては余は久しき以前より興味をもつてゐたが、近頃此の方法に依つて少しく研究を試みた所があるので、猶ほ不完全ではあるが、兎も角其得たる所を發表して吾黨諸君の批判を請ふことにしよう。
 爾雅の成立に就いては、舊來の註疏などの説では、皆其の初を周公に歸してゐて、郭璞の序にも爾雅は蓋し中古に興り漢氏に盛なりと言ひ、※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に中古とは周公のことであるといつてゐる。又※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には解家の説く所として先づ春秋元命包の語を擧げ、爾雅は周公の作であるといひ、更に今俗傳ふる所の三篇の爾雅は或は仲尼の増す所とか、或は子夏の益す所とか、或は叔孫通の補ふ所とか、或は沛郡の梁文の著はす所とかいふ諸説を擧げて、先師の口傳には既に正驗無しと言つてゐる。所が後世の學者は之に就いて多く疑問を抱いてゐて、朱子は其の語類に爾雅は傳注を取つて作れるものなるに、後人は却て爾雅を取つて傳注を證すと言つて居り、四庫全書總目提要にも爾雅の古書としての價値をば頗る疑つてゐる。尤も提要には大戴禮の孔子三朝記に孔子が魯の哀公に爾雅を學ばしめたといふことが見えてゐるので、それを以て爾雅の由來の遠い證據としてゐるが、かやうな考證の方法には余は勿論異議がある。又提要に爾雅の出來たのは詩傳を作つた毛亨以後であるとし、大體小學家が舊文を綴輯し、遞に相増益したもので、周公孔子といふは皆依託の詞であると言つてゐるのは然るべきことであるが、揚雄の法言に爾雅を以て孔子の門徒が六藝を解釋したものとしてゐるのも、王充の論衡に爾雅は五經の訓詁であるといつてゐるのをも排して、爾雅の五經を釋するは十の三四にも及ばず、又專ら五經の爲めに作つたものでもないと言ひ、楚辭、莊子、列子、穆天子傳、管子、呂氏春秋、山海經、尸子、國語等と同じ語のあるのは盡く爾雅がこれらの書から取つたのであると解し、爾雅は本來方言急就の流であるが、説經家が古義を證するに都合がよい所から之を經部に列するに至つたに過ぎないといふやうに批判してゐる。此の批判は頗る極端なもので、提要に爾雅が經書以外の諸書の文を取つたといつてゐる所のものは、實は戰國から漢初の頃までの間に出來た種々の書籍に多く共通して載せられてゐるものであつて、其の何れが前であるとも後であるとも定め難いのであるが、それを偏に諸書が前で爾雅が後であると斷じたのは決して當を得たものと云ふことが出來ない。尤も楚辭の如きは漢初に於て經書と同樣に世に重んぜられたものであらうから、是れは或は經書と同じくそれに對する訓詁とすべき部分を爾雅に含んでゐると見られないこともない。それで平心に考へると勿論從來傳へられてゐる所の爾雅が周公の作で孔子、子夏、叔孫通、梁文の増補を經たといふことは不確實であらうが、然し其書の成立が初めに或る部分が出來、それから次第/\に附益され、或は叔孫通や、梁文の頃まで附益されて來たといふことは其人の主名さへ信じなければ、發展の順序だけは大體從來傳へられてゐる通りであるかも知れない。
 さて以上は爾雅の成立に就いて單に傳來の上から常識に依つて判斷したのであるが、此の判斷が正確であるか否かを檢するには、其の内容が此の判斷と一致するか否かを檢するに若くはない。余は其の方法に依つて出來るだけ之を檢したのである。先づ大體上から爾雅を通覽しても直ぐ分ることは、最初釋詁一篇が出來、之に次いで釋言が出來、釋訓以下は次第に増益されたものであるといふことである。試みに其の一部分を證據立てるならば、釋詁に
[#「示+煙のつくり」、26-10]祀祠蒸嘗※(「示+龠」、第4水準2-82-77)祭也
とあるのは即ち祭のことを釋したので、最初の爾雅はこれだけの解釋で滿足してゐたのである。然るに釋天に至り、更に祭名の一章を生じて釋詁にあるよりもずつと細かい解釋をしてゐるが、其の中、※[#「示+勺」、26-12]祠嘗蒸等の主なる祭は全く釋詁と重複してゐるのである。次に釋言篇の如きに至つては全く釋詁の體裁に依つて別に作られたものであつて、編纂の方法にも何等新らしい考が見えてゐない。即ち前に釋詁があつたので、それに對して同じ體裁のものを作つて見たに過ぎないのである。釋訓篇の如きは又釋詁釋言の體裁を學んで、その上に當時既に行はれてゐた詩書、特に詩に對して特別に作られたやうなものである。其他釋親以下の各篇は大體に於て釋天篇と同じ體裁であつて、最初の爾雅が專ら動詞の解釋たるに對して、名詞の解釋を補つたものゝ如くに見える。※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏にも
其諸篇所次、舊無明解、或以爲有親必須宮室、宮室既備、事資器用、今謂不然、何則造物之始、莫先兩儀、而樂器居天地之先、豈天地乃樂器所資乎、蓋以先作者居前、増益者處後、作非一時、故題次無定例也。
とあるは、其當を得たものと思ふ。要するに爾雅の最も古く、又最も完全な體裁を保つてゐるのは釋詁であるといつてよいのである。
 さて爾雅の中で最も古い此の釋詁篇が、其の編次に最初から意義のあつたことは、又疑ない所である。このことは既に※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行の爾雅義疏に注意して次の如く述べてゐる。即ち釋詁篇は始也より以下終也より以上、皆古言を擧げて釋するに今語を以てしたものである。又釋言篇は上篇即ち釋詁篇が首に始を言ひ末に終を言へるに對して、首に中を言ひ亦末に終を言ふ、蓋し中を以て始終の義を統べ而して上下の詞を包んだものであるといふのである。これに據れば釋詁篇が初めより一定の體裁で作られ、釋言篇もそれに倣つて作られたものたることは、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)懿行も明らかに認めて居るのである。所が其體裁から考へて尤も疑問となるのは釋詁篇に於て殊に重複の多いことである。これに就いて※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏が文字重複、展轉相通、蓋有諸家増益、用廣異聞、釋言釋訓以下、亦猶是焉と言つてゐるのは確實であるが、郭註及び※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には此の重複を以て互訓であると考へ、例へば舒業順敍也、舒業順敍緒也といふのには、※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に互相訓也といひ、粤于爰曰也、爰粤于也といふのには、郭註に轉相訓としてあつて、すべて此類のには兩方から互に相訓じたものであると解釋したのは誤であらうと思ふ。これは寧ろ初め舒業順の三字を敍の字で以て解釋するのみで足つてゐたのを、後に緒の字が新に用ゐられてきて、新語を以て舊語を更に解釋する必要を生じたから、斯くの如く重複するに至つたものと視るのが妥當であらう。尤も此の重複即ち一部の竄入は、必ずしも以前からの解釋の次に加へられるとは限つて居らないで、時としては其の前に加へられることもある。然し兎も角此の重複が順次に増益されたものなることは正に※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言ふ如くであるとせねばならぬ。即ち大體に於て爾雅の各篇は十九篇の中に既に製作の時代の相違がある上に、其の各篇の中にも又時代の違つた増益のあることを知り得るのである。所で此の増益は※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言ふが如く單に異聞を廣むといふ無造作な意味のものであらうか。これが更に研究すべき興味ある問題である。
 先づ其の問題に就いて非常に感ずるのは清朝の經學者などが大に輕蔑する※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に却て頗る貴重なる資料を含んで居ることである。爾雅の郭璞の序の※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏に春秋元命包を引いてゐるが、其の中に
子夏問、夫子作春秋、不以初哉首基爲始何、是以知周公所造也、

とある。この釋詁が初哉首基の字で始まつてゐるから周公の作でなければならぬといふのは勿論妄斷であるが、然し春秋に用ゐてある所の始といふ意味の字は元とか正とかの字であつて初哉首基の字でないといふことが、既に漢代から疑問になつてゐたのは大に注意すべき所である。初哉首基の字は主として尚書の大誥、康誥、召誥、洛誥等の諸篇に用ゐられてゐる文字であつて、周公に關係がある所から、漢代の緯學に於て爾雅をも周公の作と判斷したのは必ずしも無理ならぬことである。尤も今の爾雅には始也とある中に元の字をも含んでゐるが、これは或は後人の竄入であるか或は他書の中にある元の字の解釋であるかも知れない。[#著者所蔵の「研幾小録」の欄外には、「召誥 其惟王位在徳元(孔傳其惟王居位在徳之首)」といふ著者の書き込みがある。]※(「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1-92-63)疏には易の文言の元者善之長也を引いて居り、又邵晉涵の爾雅正義には呂氏春秋造類篇に元者吉之始也とあるのを擧げ、又た説苑奉使篇に史黯曰元者吉之始也を引いてあるが、この造類は召類の誤りであるらしく、召類篇には史黯を史默に作つてあるが、是れはいづれも易の渙卦の爻辭によつて説を爲したもので、文言を引いたのと同意義である。易の經に列したのは春秋より先だとも考へられないから茲に問題としない。それで以上の證據から次の如き疑問を發することが出來る。即ち爾雅の釋詁が最初に製作せられた時には未だ春秋は製作せられてゐなかつたのではないかといふことである。少くとも爾雅の如き辭書に、春秋の書中の文字を解釋する程までには未だ世に行はれてゐなかつたといふことを考へ得るではなからうか。
 次に又尤も重大な疑問とすべきことは、※(「赤+おおざと」、第3水準1-92-70)氏の言へる如く釋詁も釋言も共に終也を以て終るべき筈であるのに、釋詁が終也を以て終らないで其の次に崩薨無禄卒徂落殪死也を以て終つてゐることである。これから生ずる疑問は釋詁篇が最初に出來た時は崩薨無禄卒徂落殪死也の一節が未だ無かつたのみならず、釋言が釋詁の體裁に從つて爾雅に附加へられた時にも猶此の一節が無かつたのではなからうかといふことである。而して更に其の次に起る疑問は此の一節の中で崩薨無禄卒の四語は皆春秋に見はれた所の文字であることであつて、始也の中に春秋の中の言葉を含んで居らないことゝ對照して、益々春秋の製作が最初の釋詁の出來た後に在るのではないかと思はしめるのである。
 更に此の死也の一節から生ずる疑問は徂落といふ尚書堯典の中の文字が釋詁の増益せられた部分に存在してゐることである。之と相應じて同じく疑問とすべきは爰粤于那都※(「搖のつくり+系」、第3水準1-90-20)於也との一節である。この一節は粤于爰曰也と爰粤于也との二節の次に見えてゐて、前の二節は郭璞からして既に轉た相訓ずと解してゐるが、此の一節は前の二節に較べると明らかに附益せられたものなることを知り得るのである。その中都の字は郭璞の注にも皐陶曰都を引いてゐる如く、明らかに皐陶謨から取つたものであるが、それが前の二節に對して後から附益せられたと思はれる一節の中に見えてゐるのは注意すべきことである。然かも徂落とか都とかいふ文字は決して當時の通用語ではなく、何か古語か若しくは方言かであつて、其の一般に行はれたらしく思はれぬ語であることも注意すべきである。これらの點に依つて典謨の諸篇が晩出の書であるといふ疑問をも生じ、又その晩出の書は多く務めて古語若しくは方言の如き通用語ならざるものを含んでゐて、其の書が最初の爾雅よりも以後に現はれて來たのではないかといふことが考へ得られるのである。猶ほ之と相關聯して考ふべきことは平均夷弟易也とある一節の中の弟の字である。此の字は堯典の中に古文では平秩東作とあるのを、今文には平秩を便※[#「豊+弟」、29-16]に作つてゐることに依つて、今文の方の文字が爾雅に見えてゐるといふことも考へられ、又同時に此の弟の字なども所謂互訓といふ重複の證據はないけれども、矢張り後來の附益でないかとも考へられるのである。それから又鬱陶※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)喜也の一節に就いて考へねばならぬことがある。それは鬱陶の字である。この字は今の尚書には見えて居らない。然しながら孟子滕文公篇に舜のことを書いて古書を引いたらしく思はれる文があつて、それは從來の學者も既に注意して舜典の一片であらうとまでいはれてゐるが、其の中に鬱陶の字が見えてゐるのである。それで最も多く詩書の語を含み、詩書以外の語を餘り含んで居らぬ釋詁篇に鬱陶の字が見えてゐることは、それに依つて從來の學者の舜典の一片であらうと云ふ説が多分當つてゐると考へ得られるのである。勿論これは互訓の證據とすべきものが無いのであるが、恐らく徂落とか都とかいふ文字と同じ時に釋詁に増入せられたものに相違無からうと思ふ。
 釋言篇は大體釋詁の體裁に倣つたものであるが、其の篇首の殷齊中也といふ一句は、此篇の出來た頃の時代思想の特徴を表はしてゐるとも謂ふべきものである。釋地篇の九府の條に東西南北其他八方の産物を擧げて、最後に中有岱岳、與其五穀魚鹽生焉とあるに依つても、岱岳の附近を支那の中央と考へる思想が或る時代に存在してゐたことが分るのであるが、これと一致した思想は又同じく釋地篇の四極の條に、距齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙とあつて、郭璞も齊中也と注して居り、齊州とは即ち中州といふ意味に用ゐられてゐる。丁度此の思想と釋言の齊中也との思想とは大體一致するのであつて、恐らく戰國の頃文化の中心が齊にあつた時、即ち稷下に多く學者が集つた時代の思想と推測し得られるのである。それから殷中也に就いては、郭璞は書の堯典の以殷仲春で解釋してゐるけれども、齊中也と同じやうな意味から來たものとすれば、殷も地名と考へてよいのである。殷を中央とする思想は矢張り孔子を素王とする思想と關係があるので、殷中也との解釋は恐らく孔子素王説の起る頃に出來たのではないかと思ふ。さうすると釋言の篇首に此の二つの異つた思想が一句に含まれてゐるのは如何といふに、恐らく最初は殷中也だけであつたのが、後になつて齊中也が竄入せられたのであるかも知れない。それで大體から考へても釋言の全體の體裁は釋地などの體裁よりも古樸に出來てゐるから、釋言の製作は殷中也との思想の起つた時代にあると見るのが適當であらう。さうすると大體七十子以後孟子以前の時代と考へてよからうと思ふ。從つて釋詁が其の以前に出來たとすれば、周禮大宗伯の疏に爾雅者孔子門人作以釋六藝之文言とあるのが、必ずしも無稽といふことが出來ぬのである。

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