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弘法大師の文芸(こうぼうだいしのぶんげい)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/13 16:20:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 所で其の規則に關係した種々の書籍の中に於て、大師が茲に採用された本は、それではどれだけの價値があるかと云ふことになります。さう云ふ事になりますと、是は又當時のいろ/\の書籍を調べることに就いて溯らなければならぬ。それには又道具があるのであります。支那では代々歴史を編纂します。支那は革命の國でありまして、天子の血統が時々變りますから、天子の血統が變りますと、前の代の歴史を編纂します。其の編纂する時には、大抵昔から前の代まで保存されて居つた書籍の目録を作ることになつて居ります。是は面白いことであります。それで唐の時代には其の前の隋の代の歴史を作つて居る。其の時に隋書の中に昔から隋の時まで行はれて居つた本の目録があります。それは隋書の經籍志と申します。經籍を記録したと云ふ意味でありますが、それには上古から隋代まで行はれて居つて、隋代まで保存されてあつた書籍の目録が附いて居る。それで詰り隋の時まで保存された本の目録と云ふものは、大抵一通り分ります。勿論それは遺漏が無いことはありませぬ。それからして其の次の唐の代に實際行はれて居つた書籍の目録と云ふものは、唐が亡びてから作つた唐書と云ふ歴史に載つて居る。是は二通りありまして、新唐書、舊唐書と申しますが、舊唐書と云ふものには矢張り隋書と同樣に經籍志と云ふものがあります。新唐書には、藝文志となつて居ります。詰り上古からして唐の代まで殘つて居つた本の目録と云ふものは、經籍志なり藝文志なりに載つて居ります。其の目録に載つて居る本は、詰り相當に勢力のあつた本と云ふことが明かに分ります。それで古い學問をする人、殊に古代の書籍のことを調べる學問をする人は、隋書の經籍志、舊唐書の經籍志、及び新唐書の藝文志などと云ふものを大切なものと致して、此の三つの目録に依つて、古い書籍を調べる例になつて居ります。それで詰り大師が茲に採用された書籍に於きましても、此の三つの目録で、其の當時行はれて居つたか、行はれなかつたかと云ふことを檢査するのが、古いものを調べる一つの法則になつて居ります。
 所がもう一つ斯う云ふ事があります。唐の代などゝ申しますと、二三百年繼續して居りまして、唐の代の歴史を作るのは、唐の代が亡んで仕舞つて、次の代に作るのである。それで唐の代には相當に盛んに行はれた書籍であつても、唐書と云ふ歴史を作る時は、どう云ふ譯か書籍が無くなつたものが隨分尠からぬものである。さう云ふやうに唐の代にあつた本でも、唐書の中に載つて居らぬ本の研究をするのには、又どうかしてしなければならぬことになつて居る。それで支那でもいろ/\方法がありますが、日本ではさう云ふ事を調べるに都合の好い本があります。是は日本の本でありますが、支那人などに非常に大切にされるものであります。それは『日本國現在書目』と云ふ本であります。今日の現在書目ではありませぬ。是は平安朝の時に儒者の家柄でありました、南家の儒者の藤原佐世と云ふ人が作つたものであります。是はどう云ふ譯で作つたかと云ふと、日本では支那から段々澤山の書籍を輸入して、之を研究して居つた。日本では其の當時から非常に支那の學問が盛んでありました。所が嵯峨に冷然院と云ふものがあつた。冷然院とは今は『冷泉院』と書くが、昔は『冷然院』と書いて居つた。其處に澤山な書物があつたが、それが燒けた。現に此の現在書目には冷然院と書いたものを使つて居ります。所が冷然院が火災に罹つたのは、此の『然』と云ふ字は、下に四つ點が打つてあります。是は烈火と云うて火と云ふ字である。冷然院は下に火が附いて居るので燒けたと云ふので、それから後は冷泉院と改めたと云ふことであります。兎に角冷然院には澤山の本があつたが、平安朝の初めに火災に遭ひまして、大分本が燒けました。其の後に又段々本をいろ/\集めて、其の時に『日本國現在書目』といふ支那の書籍目録を作つたのが即ち是れであります。是は即ち唐の末頃の時に出來ましたのでありますから、唐の末頃までに日本國に傳はつた書籍で、其の時に日本に現在あつた書籍は、是に載つて居るから分ります。それで支那人も此の日本國現在書目を、隋書の經籍志とか、新唐書の藝文志とか、或は舊唐書の經籍志とかに對照致しまして、其の中に拔けて居るものが、此の日本國現在書目に載つて居ります。即ち新唐書なり舊唐書なりを作る時に、既に無くなつて仕舞つた本が是れに載つて居ります。幸に日本には此の書目があるので、唐代の當時どう云ふ本があつたか、弘法大師などが世の中に存生せられた時にはどう云ふ本が實際行はれて居つたかと云ふことを知るには、日本國現在書目を見れば分るのであつて、是は今日大變大切な本であります。
 所で元へ戻つて弘法大師が文鏡祕府論を作られるに就いて採用された本は、それ等の目録に載つて居るかどうか、それが載つて居れば、是は少しも疑ひのない立派な本だと云ふことは明かなわけで、斯う云ふ事は極めて現金なものであります。總て皆載つて居る。それで一番最初に申しました四聲のことを發明した沈約の四聲に關する本といふものは、それは元と一卷ありまして、それが即ち隋書經籍志に載つて居る。又沈約と云ふ名は出て居りませぬが、是は日本國現在書目にも勿論載つて居る。それから其の次に申しました劉善經と云ふ人の四聲指歸と云ふ本であります。四聲指歸と云ふ本は、是は隋書經籍志にも載つて居れば、日本國現在書目にも載つて居ります。さうして殊に大師は此の本は餘程丁寧に見られもし、又御好きでもあつたものと見えまして、文鏡祕府論の卷一の終りに、四聲論と云ふことが載つて居ります。是は紙數が六七枚ありますが、それは殆ど劉善經の四聲指歸から全部拔書きをされたと思はれるほど、悉く茲に其の文を引いてある。是は四聲指歸だと云ふことは御斷りも何もありませぬが、四聲論の中に『經案ずるに』と書いてある。劉善經の一番下の經の字であつて、是は劉善經の著述から採つたと云ふことは明かに分ります。大師は劉善經の本は御好きであり、又必要な本であると云ふことを知つて居られたと見えて、澤山拔書きをされて居ります。それで四聲指歸と云ふ本は、今日は天にも地にも殘つて居りませぬ。幸ひに大師が此處に六枚なり七枚なりを其の儘採つて居られたから、此の四聲指歸に依つて六朝時代の四聲に關する議論の大體を知ることが出來るのであります。兎に角一番最初に四聲を發明して、それが詩の規則になると云ふ時までには、いろ/\の議論がありました。沈約はそれが必要として論ずる。又それはいかぬと云うて反駁する人も當時にあつた。當時支那は南朝と北朝と分れて居つて、沈約は南朝の人である。所が北朝の方にも相當の學者があつて、反對をしたものがある。甄思伯などゝ云ふ人は、當時有名なもので、反對をして居る。又當時沈約と同じやうな考をもつて、四聲の議論をした人が幾人もある。それ等の書籍と云ふものは、一部分ではありますけれども、皆劉善經の四聲指歸の中に當時皆引いてあつたと見えまして、それを大師が文鏡祕府論の第一卷の終りに引いて置かれた爲めに、其の當時の四聲の議論を明かに見ることが出來るやうになつて居ります。是等は大師が幸ひ之を採用して置かれたから、六朝時代、今から見ると千二三百年前の音の議論を、今日からして當時は斯う云ふものであつたと云ふことを明かに見ることが出來る次第であります。是等は大師の文鏡祕府論と云ふものがあるおかげでもつて、我々今日斯う云ふことの研究が出來るのであります。又王昌齡の詩格と云ふのは、是は前に谷本博士も御考證になりました通り、是は大師が性靈集の中に、この詩格に關する本が當時いろ/\あるけれども、近頃では此の王昌齡の詩格が大變流行るといふので、天子に其事を上表されて居るやうな譯で、其の當時大變流行つて居つたと云ふことが分ります。併し是等でも卷數などには相違がありまして、是は新唐書の藝文志の方では二卷として居りますが、性靈集には一卷としてある。又日本に傳はつて居る唐の才子傳と云ふものには一卷としてある。是は一卷と云ひ二卷と云ふのは、どうでも宜からうと思ひますが、古い本に一卷と書いてあると、實際それが後になつて二卷と書いて居つても、前の本は一卷であつたと云ふことが分りますので、斯う云ふ事から目録を大切に致します。斯の如き相違がありますが、是は新唐書の藝文志にも載つて居り、又唐の才子傳と云ふ本にも載つて居ります。それで王昌齡の詩格と云ふものは、大師が當時賞讚されたのみならず、其の當時一般の人にも賞讚せられて居つたものであると云ふことが分ります。此の王昌齡の詩格と云ふものは、此の文鏡祕府論の中にも段々『王が曰く』と云ふことが書いてあります。此の祕府論の外には王昌齡の詩格と云ふものは何處にも引いてありませぬ。全く大師の文鏡祕府論に依つて、此の本はどう云ふものであつたと云ふことを想像するより外ありませぬ。
 其の次には皎然、此の人の著述は新唐書の藝文志には詩式が五卷、それから詩評が三卷あるとしてありますが、今日では矢張り是も殆ど大部分は皆無くなつて居ります。今日でも此の皎然の詩式と云ふものは、僅かに一部分殘つて居りますけれども、是は乾隆年間に出來た四庫全書總目提要の解題に依つて見ても、今日の詩式は其の當時の詩式の儘でないと云ふことが明かであつて、極めて殘缺した小部分の本であると云ふことが分るのみならず、今日殘つて居る皎然の詩式には、大師が申します當時の詩の作法、即ちどう云ふ聲はどう云ふ所に用ひてはならぬと云ふやうな細かいことは一つも殘つて居らずして、大體の批評のやうなことばかり殘つて居る。それで皎然が書いた詩の作法は、矢張り文鏡祕府論の中に殘つて居る。それは皎然が詩議と云ふものやら、又いろ/\の批判をしたことを、大師は此の文鏡祕府論に引かれて居りますから、それで皎然の詩式の大要は、今日でも幾らか分るやうになつて居ります。
 其の次に申しますのは崔融と云ふ人の本でありますが、果して崔融かどうかと云ふことも實は明かには分りませぬ。併し大師の文鏡祕府論の中を繰つて見ると、其の中に崔融と云ふ人だらうと思ふことがあります。此人には唐朝新定詩體と云ふ著述があります。即ち唐の時に文官試驗をするのに、どう云ふ體でもつて詩を作らなければならぬと云ふ規則を著述したものであります。或は之を新定詩格とも書いて居ります。大師は矢張り文鏡祕府論の中に崔氏の唐朝新定詩體と云ふものを引いて居られます。さうして其の名目は隋書の經籍志にも、新唐書の藝文志にも、舊唐書の經籍志にも無いのが、日本國現在書目の中に殘つて居ります。併し唯だ本の名目があるだけで、崔融が作つたと云ふことは殘つて居りませぬ。大師の文鏡祕府論の中に崔氏とも書いてあるが、或る所には崔融とも書いてあるので、始めて是れが崔融の著述だと云ふことが分るのであります。詰り崔融が當時の詩の格式を著述したのでありますが、若し大師の文鏡祕府論が無かつたならば、其の人の名が分らぬ。よしんば現在書目で書名が分つても、誰れが作つたのか分らぬのであります。此の文鏡祕府論が今日殘つて居るが爲に、其の人の著述も分り、其の内容も分ることになつて居ります。
 其の次は元兢と云ふ人で、此人には、詩髓腦と云ふ著述が一卷あります。此の本も新唐書の目録にも、舊唐書の目録にもありませぬ。日本國現在書目だけに殘つて居る。是も矢張り元兢と云ふ人が作つたと云ふことは、明かに分らぬのでありますが、幸ひ文鏡祕府論の中に『右は元氏の髓腦に見えたり』と云ふことが書いてあるので、元兢と云ふ人の詩髓腦を書いたと云ふことが分つたり、又内容が分るのであります。
 つまり是等の本は皆其の當時大層必要な本として行はれて居つたのでありますが、若し文鏡祕府論がなかつたならば、悉く是等の本は絶滅して、今日は其の人の名も分らず、其の本の名も分らなくなつたのでありませう。然るに大師が文鏡祕府論の中に合せて一つに纏めて、是は誰某の議論、是は誰某の議論と云ふことを書いて置かれたので、是等の書籍の名も分り、著述者の名も分り、もう一つは唐の時代の詩の格式は如何なるものであつたかと云ふことも分るのであります。文官試驗としても大切な規則があり、又當時詩と云ふものは音樂に掛けても歌はれると云ふのは、どう云ふ法則で歌はれるかと云ふことは、今日大師の文鏡祕府論があつて、始めて分るのであります。支那人でも之を今日手掛りにするのであります。即ち其の手掛りは弘法大師の文鏡祕府論に依る外何の手掛りもありませぬ。此の點は文鏡祕府論の重大な價値のある點でありまして、千二三百年前の、重くるしく云へば詩の作り方、碎けて云へば其の當時之を俗歌俗謠と同樣、歌に唄つた音樂の仕方と云ふことが、文鏡祕府論で分るのであります。祕府論は僅に六册の本でありますが、非常に大切な本であると云ふことは、是れで御分りにならうと思ひます。
 勿論是は弘法大師が自ら序文の中に自分で御斷りになつたに就いて申しましたゞけで、其の外にも大師が引用された本があります。それは矢張り現在書目に出て居ります所の文筆式と云ふものであります。文筆式を文鏡祕府論の中に引いて居るのであります。
 それからして又茲に斯う云ふことがあります。是は今日でも殘つて居る本でありますが、今日殘つて居る本に就いてさへも、大師の本が大變に大切な役目をすると云ふ證據をもう一つ申します。唐の初めに殷※(「王+番」、第4水準2-81-1)と云ふ人がありまして、其の人の著述に昔から其の當時までの詩を集めた河嶽英靈集と云ふ本があります。是は今日でも殘つて居りますけれども、其の河嶽英靈集の序文を大師が文鏡祕府論の四卷目に引用されて居る。所が今日殘つて居る序文と少しばかり違つて居つて、大師の引用されて居る方が文字が百何字か多いのであります。即ち今日殘つて居るのは、文鏡祕府論に引いた時よりは百幾字か失つて居るのであります。それで今日殘つて居る本でありましても、それはいかぬ本で、大師の見られたものは其の當時の元の儘の本であると云ふことが分ります。それから大師が此の序文を引いて居るのには、詩の數が二百七十五首あるとしてあります。所が現在傳はつて居る河嶽英靈集には、二百七十五を二百三十五と改めてある。それで其の數を當つたものがあります。當つて見ると二百二十八首しかなかつたと云ふ。さうして見ると大師が見られた本は二百七十五首と云ふ元の儘であるにも拘はらず、今日は其の中の五十首ばかりは失つて居ると云ふことが分ります。兎に角今日の河嶽英靈集は殘缺した本で、元の儘の本ではないと云ふことが分ります。是は唯だ一の篇序文を文鏡祕府論の中に引いて置かれた爲に、さう云ふ事が分ります。

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