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大阪の町人と学問(おおさかのちょうにんとがくもん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 16:15:23 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

大阪の町人の學問については、豫て私の友人幸田成友君などが隨分精細な調べをされて、大阪市史にも載せられて居るから、私が茲に語らんとする所は、大阪の町人と學問との關係について、私一個の考察を申述べるに過ぎない。而も此等の事に關しては、懷徳堂で嘗て山片蟠桃の話をし、この次ぎに富永仲基に關する話をする約束があり、又嘗て土屋元作君が橋本宗吉に關して精しいお話があつて、此等の人々はいづれも大阪の町人學者であるから、茲には唯一般的な大體に亙つた樣な考へを述べて見ようとするものである。
 近世の大阪が開けて大都會となり初めたのは、言ふまでもなく豐太閤の時からであるが、豐臣氏は間もなく亡んだから、其後の大阪は徳川幕府の時代に發達したものである。徳川時代に於ける大阪は重要な場所であつたが、幕府の御膝下といふのでもなく、唯經濟的都市、商賣の都として重要な都市とせられ、而してこの商賣の都といふことが時の文化に貢獻した譯であつた。元和の元年に豐臣氏が亡んで間の無い間は、大阪には學問らしいものがあつても、それは徳川時代に於ける商賣といふ點から出發した學問ではなく、豐臣といふ武家によつて創められた大都會といふ關係に基く學問の風であつた。この頃に於て、今日では學界からも一般世間からも注意を逸して居るが、漢學の方では、かなり注意を拂ふべきものがこの大阪から出て居る。それは如竹散人といふ人であつて、この人は足利時代あたりから引き續いた宋學の正統を受けた人である。彼の薩摩の國の人で有名な文之といふ僧侶があつたが、是が四書に訓點をつけた元祖であつて、彼の藤原の惺窩の如きすら文之から盜んだものであるとさへ傳へられる位であるが、如竹は此の文之の學問を承けたのであつた。この如竹は大隅の屋久島の産で、文之點の四書を出版した事に於ても有名である。丁度明治大正の時代に於て大阪に漢學を復興したのは西村天囚君で、同君は種子ヶ島の生れで、その隣りから如竹が出て、而もその如竹は大阪に於て漢學を復興したとはいへない迄も、相當大阪の學問に貢獻したといふことは、甚だ不思議な因縁といはねばならぬ。如竹は間もなく大阪を引き上げ、天囚君は三十年も大阪に居つて愈※(二の字点、1-2-22)此度大阪を去ることゝなつた、これは西村君の學問が大阪に合はないのであらうか、私が考へるより大阪の諸君にお尋ねするのが至當であらう。
 幸田君の大阪市史によると、大阪に於ける初期の漢學者は大抵醫者を兼業して居つた。古林見宜でも北島壽安の如きも醫者兼業であつたといふが、是は大阪ばかりではなく一般當時の漢學者でも飯を食はねばならぬところから飯の種は醫の方でやる、そして食ふ心配なしに學問をやるといふところから兼業をしたもので、伊藤仁齋の頃迄其兼業が善いか惡いかといふことについて説があつた位であるから、大抵の漢學者は醫者を兼業して居つたといふことを知ることが出來る。然しながら今迄述べた樣な學者は、商賣の都としての此大阪の畑に育つた學者ではない、そして是れから暫くの間は學者の種は繼續せなかつた。
 大體文化といふものが大阪に盛になつたのは元禄以後である。それは大阪ばかりではない、江戸でも同樣で、元禄以前には江戸の畑で生れた學問はなく、皆京都から輸入された學問であつた。徳川の中頃過には江戸でも音曲家や芝居の役者等は出來たが、元禄以前は京都から輸入されて居る。大阪では硬い方の學問は京都から輸入されるといふことも無かつた、それは輸入を受けるだけの畑すら出來て居なかつたからであらうと思ふが、淨瑠璃、芝居、音曲等の軟かいものは矢張り京都の方から輸入されて居たものである。要するに元禄以前の大阪の學問は誠につまらないものであつたといふことになる。勿論商賣の方では藏屋敷も出來、兩替屋等も出來て、商業は餘程盛に營まれて居つたが、學問の方は商賣とは反對に殆ど見るべきものがない。
 元禄以後になつても、大阪といふ土地相應に、硬い方の學問が興らずに軟かいもの、則ち平民文學といつた樣なものが先づ最初に興つた、西鶴等は其代表者である。大阪が町人の都として、經濟的の都市として、平民的文學といふ特色を持つて居る。其の西鶴の書いたものは、一概に淫奔的なものといふが、此時代から見て之を今日の言葉でいふならば解放された文學である。西鶴以前即ち足利時代から引き續いて行はれた草紙等といふものは、お伽噺的のものであつて頗る古典的のものである。支那では漢時代から「賦」といふものがある、此の賦の中には其地方々々の自慢になるものを聚めて、面白い文句を以て書いたものがあるが、足利時代のお伽草紙の樣なものは多く此の賦に相當するものである。彼の「淨瑠璃十二段草紙」等は皆古典的のものであつて、是が徳川時代迄繼續した。そして是が人形芝居や小淨瑠璃に應用されても、矢張り皆この體裁で書くことになつて居た。西鶴の書いたものは此點からいふと、古い型に囚はれず、當時の人の興味を惹く樣に書いたものであるところから、古典的の智識の無いものが讀んでも判ることになつて居る。尤も西鶴の書いたものは、今日から見れば、なか/\判り難いものであるが、當時の俗語や諺や比喩其の他のものを巧に書きこんであつて、當時にしては甚だ囚はれざる解放的のものであつた。さういふものから後になつて義太夫節にかゝる近松の淨瑠璃が出來た。近松門左衞門其の人は古典的と解放的との二つの文學を一人で持つて居るから、當時の時代と文學の傾向がよくわかる。享保以前の近松の淨瑠璃は古典的で、之を時代物といひ、又唐人物といつた彼の國姓爺合戰の如き、其芝居が足かけ三年つゞけてうつて尚流行つたが、國姓爺後日合戰を出した時にはそれ程人氣を呼ばなかつたといふことで、茲に於て近松は一轉して世話物を書くことになつた。勿論前から少しは世話物もかきつゝあつたが、專ら世話物で當てたのは享保初年以後であつた。かくの如く此人の一代の作物の傾向――古典的から解放的に――で大阪の文學の變り目がよく判るわけである。以上は軟かい方の文學に就ての話である。
 硬い方の學問の内、國學の方からいふと先づ契沖阿闍梨を擧げねばならぬ。契沖の前には下河邊長流といふものがある。其の目的とするところは古典であるが、其の研究法は解放的であつた。大體此の頃の國學特に歌學は足利時代からの繼續で、家元の許しを得なければ何事も出來ない、家元と變つた行き方をするとすぐ破門されるといふ具合で、學問の仕方は甚だ拘束されたものであつた。是れは今日の考へでいへば智識階級の自衞策であつて、自分の學問を擁護する爲めに、之を無暗に解放せないといふことである。徳川時代でも此の頃迄は此の拘束された學問の仕方を有難がつたものであるから、全く解放的の氣分はなかつたもので、是より前に江戸では梨本茂睡といふものが解放的な歌學をやつて、二條冷泉家に反抗したが、我國學史の位置からいへば到底契沖阿闍梨の比ではない。二條冷泉家では古今集の傳授を其の繩張りとして甚だ喧かましいものであつたが、下河邊長流や契沖はその喧かましくない萬葉集を解釋しようとし、恰かも其拔け道から解放された歌學をやつて、二條冷泉家以外に旗幟を樹てた。これは研究法の方の話であるが、其の他に先達物故された法學博士、文學博士有賀長雄君の先祖有賀長伯一家の歌學といふものがある。此の方は公卿のやる樣な歌を地下人である大阪でもやりはじめたものであつて、これから後公卿のやる國學を地下人がやることになり、歌ばかりでなく地下の蹴鞠とて公卿のやる蹴鞠迄やつて見た。これは研究法の解放といふわけではないが、公卿のやる事を地下人がやるといふ事になつて、畢竟公家の學問が地下に迄解放された事となつたもので、此の事實も大阪の文化の發達の上に忘れてはならぬことである。勿論かゝることは我國全體から見て學問の進歩の上に大した影響はなかつた事であるが、大阪としては忘れることが出來ない、この頃は元禄時代に相當する。
 漢學の方はこれとは少し遲れて享保頃からで、懷徳堂の元祖三宅石庵が大阪で教授をしたのが先づ始めであつて、それ迄にも學者がなかつたわけではないが、眞に町人の要求から興つた漢學は是を以て嚆矢とする。石庵の學問は鵺學問といはれた位で、朱子派でもなく王陽明派といふでもなく、朱子も王陽明もゴツチヤにした樣なものであつたが、町人の要求する所は朱子でも、王陽明でも何でもかまはぬ、唯道徳の修養になればよいのであるから、石庵の樣な學問でも歡迎を受けたものである。彼の懷徳堂を開いた五同志の如きも皆大阪の町人であつて、是等町人の要求するところは道徳の修養の爲めである以上、主として經學の方面であつて、詩文の方はどうでもよい。當時の漢學は先づ大要斯樣な程度のものであつた。懷徳堂の規約を作つたのは道明寺屋吉左衞門(富永芳春)といふ人であるが、其の規約に書いてあるところによると、親が學主であれば其子は絶對に學主となることは出來ないといふのが原則で、若し親が學主を他の人に讓つて、その後に於て其子が修業して良くなれば、その讓られた他の人から其子に學主を讓ることは出來るが、あく迄も血統からの相續を排斥して居るところなど、今の選擧制度の一として留任や重任を禁じて居る樣なものと相比べて面白いと思ふ。懷徳堂の此規約も後にはだん/″\弛んで父子に相續した樣な事もあるが、其の創立當時の五同志の時代には斷じてなかつた。かくの如く懷徳堂の組織は門閥の素地を作るをさけた頗る民衆的解放的のもので、本當の大阪の漢學といふものが大阪に根柢を作つたのは全く此の頃からである。道明寺屋吉左衞門は假名をよく書いたといふことであるから、漢學ばかりでなく書も能くしたらしいが、此の人たちが大阪の學問の根柢を作るに與つて力があつたことは言ふ迄もない。其の吉左衞門の子富永仲基の學問は甚だ解放されたものであつた。三宅石庵の學問は前にも言つた通り朱子でもなく、王陽明でもない、町人には頗る便利な學問であつたが、漢學を眞に批評的に考へるといふ風は町人の學問としては全く此の仲基によつて創められた。
 又仲基は佛教に關しても造詣頗る深く著述もある位である。仲基は先づ「説蔽」なる著作に於て儒教を批評し、「出定後語」を著はして佛教の批評をしたが、説蔽を書いたが爲めに其師三宅石庵から破門された。尚仲基は「翁の文」といふ著述に於て國學に關する意見を發表したものと思はれる、不幸にして翁の文は説蔽と共に絶えて今に見當らないが、翁の文の方は心當りを搜索して、發見し得られるものとの、手がかりだけはついて居る。此三著述が揃つたならば一度仲基のお祭でもして見たいと心掛けて居るが、兎も角仲基が町人であつて儒佛國學に通達して居つたことは我々の感嘆おかぬ所である。彼れは其の出定後語に於て、學問も國相應といふことがある、即ち天竺は幻、支那は文、などゝ批評して居るが、甚だ卓見であつて、定めし翁の文には國學に對して卓見を示して居ることだらうと思ふ。而も富永一家は仲基のみでなく、其弟の蘭皐は池田の荒木といふ家に養子に行つたが、當時池田には荻生徂徠の門人田中省吾なるものが隱れて居て、それから教へを受けたらしい。かくの如く富永一家は親子兄弟揃つて學者であつた。出定後語は仲基が黄檗山にカノ藏經の校合を手傳ひに行つて居る間に藏經を讀んだから作れたものであると言ひ傳へられて居るが、昔から僧侶には藏經全部を讀んだ人は決して尠くはない、けれども仲基程に卓見を持つて居た人は一人もないのであるから、藏經を全部讀んだお蔭で出定後語の樣なエライ本が出來たなどゝいふのは、僧侶輩の僻んだ根性から言つたことで採るに足らぬ妄言である。大體印度の佛典といふものは、時間と空間の觀念がない樣な書き振りをしたものであるが、仲基が出定後語に於てそれを歴史に合はす樣に讀んだといふことは、甚だ感服の外ないもので、畢竟仲基は佛教の發展の歴史的研究をした人であるといつてよい。僧侶に言はせると仲基は佛教を惡しざまに言つて居ると解して居るが、仲基の佛學はそんなものではない、佛教の發展の筋道を研究したものであるといふことは、其書を見ても明瞭である。仲基の佛學といつても其研究の筋道は漢學から入つたものであつて、其の學問が大阪の町人の利益にならうとかならぬとかいふことを念頭に置かず、全く時代と歴史とに超越した考へでやつたものである。そして是等の如き學者を生んだことは、大阪の學問が平民の手に移り、解放された結果として偶然に生れたもので、他に深い理由があるわけではないと思ふ。
 佛學の方では此の他に難波に居た鐵眼和尚といふのがある、彼の有名な「黄檗の藏經」の出版は全く鐵眼によつて出來たもので、それも大阪の町人の後援があつて初めて完成したものであらうと思ふ。支那では北宋の太祖太宗の時に出來た藏經は官版であつて、散逸して今其全部を見ることが出來ない。先年南禪寺で僅に其の一册が發見された位で殆ど見ることが出來ないが、其の後蘇東坡の頃即ち神宗の頃から以後には、民間の喜捨によつて出版された藏經がある、一つは浙江板といひ、一つは福州板で、東禪院板と開元寺板とが繼續して居る。日本では是とは遲れて藏經が出版されて居る、鎌倉時代の元寇の頃に藏經の出版が企てられたが出來ずに終つたらしく、それから南北朝時代にかけて五部の大乘經が出版された、然しこれとても武家の後援で出來たものであり、又天海僧正が藏經の出版をしたけれども、それも徳川幕府の力で出來たものであつて、支那では既に北宋の終りの頃に民間の力で藏經は出版されたが、日本では鐵眼の黄檗の藏經が民間の力で出版された初めである。而も此の鐵眼の黄檗の藏經は四角い册子の形をして居る、これは明の萬暦年間に出來た藏經と同じ形をして居るものであつて、由來藏經の折本は寺等に保存して置く上にはさしたる不便を感じないが、之を世間に流布する上には折本は嵩張つて不便であるから、是を册子としたことは藏經を世間に流布する上に效果があつたであらう。勿論此の黄檗の鐵眼板は鐵眼存生中に完成したものではあるまいが、此の計畫は鐵眼によつて達成されたものである。かくの如く大阪の町人の後援により而も大阪の僧鐵眼によつて爲された藏經であるが故に、富永仲基の如きも手易く藏經を見ることが出來たものであらうと思はれる。
 鐵眼は元禄以前に死んだが、是より後に出て佛學の新研究をした人は葛城の慈雲尊者(前に中河内の高井田に居た)である。此の人は眞言律宗の僧とはいひながら、何の宗旨にも囚はれず、殆ど各宗を統一し新しい見解をたてた人であつて、梵語の研究を纏めたといふ樣な功績があり、日本の佛教の新研究には重大な關係を持つて居る、此の人は寛政を中心とした時代に居つたのである。
 大阪の學問はかくの如く平民的、民衆的になつて來たが、これは享保年間が中心時期である。此の時代は京都にも江戸にも、見ることが出來ない學問の特色を發揮することが出來たのであつて、これは大阪なる都市が經濟の都市としても、江戸にも京都にも勝れて居つた時代であつたが爲めに、かくの如き他に見るを得ざる平民化の特色を發揮し得たものであらうと思ふ。
 其の後は左樣には參らず、國學も此の地に發祥したが他に移り、淨瑠璃の如き通俗文學も其の價値は減ずる樣になり、人形芝居の如きも人形ばかりが發達して淨瑠璃の文句の方は拙惡になり、漢學の方でも懷徳堂は永く續く間には學問の系統も門閥的になり、懷徳堂其のものにもいろ/\門閥が出來た。丁度此の頃は徂徠學が盛になつて來たから、懷徳堂としては朱子學を固執せなければならなくなつたのではあらうけれども、懷徳堂創設當初の意氣がなくなり、昔と違つて漢學の修業は唯道徳の修養の爲めだとは濟して居られず、詩文などでもやることになつた。中井竹山の如きは甚だ稀な偉い人ではあつたが、背景として幕府を利用するといふことを考へ、此の懷徳堂は政府から許された官學であるといふ樣なことを言ひたがり、教授といふ樣な肩書を書きたがつたりした。これは町人がだん/\門閥的となり、最初の意氣が無くなつた結果であらう。
 此の後に山片蟠桃、鴻池の伊助(草間直方といふ)、蘭學で名高い橋本宗吉等町人の學者がでた。蟠桃は其の音の示す如く番頭で、伊助の如きも大阪町人の檀那衆ではなく番頭であつて、丁稚から上つた學者である。
 當時の檀那衆は既に門閥となり、恐らく商賣の事も判からず、勿論學問もせず、使用人に何事も任かせ限りであつたものだから、文化の中心も使用人に集まり、經濟の仕方も皆丁稚や番頭の手に移り、學問も使用人の學問となつて終つたものである。これが享保以後の特別目立つた大阪の學問の系統である。
 かくの如く町人が門閥になつてからの檀那衆の學問を代表するものは木村蒹葭堂である。蒹葭堂は酒屋の檀那であつたが、此の人の學問は商賣には何の關係もなく、又道徳の修養とかいふ爲めでもなく、ホンノ道樂が昂じていろんなものを集めた結果から纏めることが出來た學問である。其の他種々な學問もあり、いろんな學者も大阪に出來て居るが、大體の筋道は先づ以上の通りであつて、題して大阪の町人と學問とはいふが、大阪文化史の一部とも見ることが出來よう。
 明治以後は全くこれとは別であつて、徳川時代に於ける大名を對手とするといふ樣な商賣の仕方が亡び、新しい時代の大阪となつたが、是を時代的に觀ると、現時の大阪は丁度桃山時代から寛文延寶頃の大阪に相當するものであつて、時代の文化といふ方面からいふと、全く今の大阪は暗黒な時代である。檀那衆即ち今の言葉でいふ資本家から大した學問のある人も出來ず、さりとて使用人の方からも大した學者も出て居ない。強ひて明治時代の大阪の學問を代表するものを需めるならば、それは大阪醫科大學位であつて、徳川時代の初期の大阪の學問は醫者が兼業して居たといふが、大阪醫科大學が現時大阪の學問の中心であるといふならば、丁度それに相似て居るのも面白い對照である。
 徳川時代の大阪の檀那衆の典型ともいふべき人で、私の知つて居るのは故平瀬龜之輔氏であつた、聞くところによると、平瀬氏は何を聞いても知らぬと言はれたことはないが、其の自分の商賣の事だけは何一つ知らなかつたといふことである、ところが平瀬家は商賣の方で振はないことがあつたが、其時は商賣に關係なしに唯道樂で集めた骨董品で商賣の損害を償はれたといふ話がある。此の徳川末期の町人の門閥家の代表的人物である平瀬氏は幸にして知つて居たが、今後明治大正以後の新しい大阪で學問ある町人の典型を私共が生きて居る間に見ることが出來るであらうか、どうか早くそれを見たいものだと樂んで待つて居る。
(大正十年某月大阪に於て講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:大阪における講演
   1922(大正10)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
2006年1月13日修正
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