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文学精神は言う(ぶんがくせいしんはいう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 14:05:09 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

廃墟のなかに、そしてその上に、打ち建てられるであろう建築は、新らしい様式のものであらねばなるまい。暴風雨や天変地異に堪えるだけの、堅牢さが意図されるだろう。人間の住居にふさわしいほどの、美観が意図されるだろう。居住者に出来る限りの幸福を与えるような、便益さが意図されるだろう。そして外的条件、社会的条件は、如何に文明の程度が低かろうとも、例えば日本に於けるがように電気や水道や瓦斯などは時々停止するものであるという観念から、未だ脱しきれない事態であろうとも、そういう悪条件を克服するだけの設備が考案されるだろう。雨や雪をよく遮断し、煤煙をよく排出し、太陽の光線を最も多く吸収し、清い大気を最もよく流通させるように、窓や壁の配置が考慮されるだろう。而もそれら一切のことが、簡便と雄勁と美とのうちに企画されるだろう。――そういう建築のことを想うのは楽しい。それが廃墟に打ち建てられるということを想うのは、更に楽しい。楽しいばかりでなく、歓びでさえもある。
 だが、そういう建築を造る建築家の精神は、如何なるものであろうか。それは、人間としての矜持ある逞しい美しいものであろう。人間としての矜持とは、つまり、禽獣と異る人間性の自覚である。雀は最も平安な場所を本能的に選んで、そこに巣を造る。猫は最も快適な場所を本能的に選んで、そこに躓って眠る。もしも雀や猫の建築家があるとしたならば、彼は平安快適な場所を指示するだけで事足りるであろう。然し人間の建築家は、指示するだけでは何の役目をも果さない。彼は建築しなければならないのだ。平安快適な場所を造り出さなければならないのだ。この造り出すことそのことに、彼の人間としての矜持がある。そしてこの矜持の自覚には、それ自体に逞ましさと美しさとを含む。すべて何等かの意味の創造的精神には、逞ましさと美しさとがあるのが法則であって、これを失えばもはや創造的精神ではなくなる。
 斯かる精神を、建築家から抽出し、独自の存在と観て、私は今ここに、その復活顕現を翹望するのである。建築とか建築家とかを説いて来たのも、実は比喩であって、この精神を描出する手段に外ならなかった。
 戦争によって、日本の文化一般は殆んど廃墟と化した。戦争は本来、文化を擁護するためにこそ為されるべきものであるが、日本ではそれが逆となった。何故かを問うことはもはや止めよう。理由は既に世界に曝露されている。そして結果としての廃墟が吾々の眼前に拡がっている。ただに日本ばかりではない。日本の文化的師友だったヨーロッパも既に廃墟である。日本と文化的血縁の濃い中国も、既に荒蕪している。
 この廃墟の上に、新たな文化を建設しなければならないのだ。建設するその精神は、前述の建築家の精神の如きものであらねばなるまい。繰り返して言えば、人間としての矜持ある逞ましい美しいものであらねばならぬ。
 ところでこの精神は現在、周囲に如何なることを見るか。
 軍国主義、官僚主義、封建主義、利潤主義、すべてそれらの貪欲な独善的なものが、相次いで倒壊されつつある。やがては完全に倒壊されるであろう。これで文化建設への地ならしは出来るであろう。然し、この地ならしの過程に於て、真の建設精神は、恐らく次のように呟くかも知れない。
 ――反文化的な貪欲な独善的なものが、すべて崩壊しつくすことは、実に慶賀に堪えない。然るに、この崩壊を指導しつつあるアメリカについて、人々は何を見ているであろうか。高度に発達した文明と、莫大に蓄積された富と、生活の安易など、それらのものばかりを眼に留めていはしないか。もしそうならば、最も重大なものを見落してると言わなければならない。若いアメリカが持っていたもの、今もなお持ち続けているもの、所謂辺境精神、一種の清教徒的精神、独立戦争を指導した自由の精神、そういう理想主義的なものを、見落してると言わなければならない。そしてこの理想主義的なものこそ、真にアメリカを支えているものであって、これがなければ、如何なる文明も富も民主主義も人間の堕落を招来するだけであろう。
 ――アメリカのこの理想主義的なものを見落すことによって、人々は、政治的にアメリカから指導されつつある日本の現状について、誤った考えを懐いていやしないか。殊に、嘗ての日本の軍部に阿諛した態度そのままで、連合軍司令部にただ阿諛しようとする人々は、そうではあるまいか。先ずそれらの人々に問い質したいことがある。
 ――ゆっくり言うのは面倒だから、直截にやっつけよう。以前、士族と平民との区別が撤廃された時、諸君は恐らく、それらすべての人が平民になったように考えはしなかったか。だが、それらのすべての人がみな士族になったのだと考えては、なぜいけないか。そう考えるべきではあるまいか。ところで今回、華族をはじめ種々の上層階級、つまり貴族階級が、一般民衆の中に埋没されようとするに当って、諸君は、貴族もみな平民になるのだと考えてはいないか。だが、これを逆に、平民もすべて貴族になるのだとなぜ考えてはいけないか。寧ろそう考えるべきではあるまいか。単に身分階級のことではなく、心の持ち方について言うのである。
 ――また戦時利得税や財産税や、各種の補償凍結や耕地制度改革などについて、すべて徹底的な立案が要望され、富の平均的再分配が要望されているが、この問題について諸君は、富者が無くなることをのみ快哉としてはいないか。だが貧富は互に相対的なものであるからして、富者もみな貧者になるというよりも、貧者もみな富者になるのだと、そう考えてはなぜいけないか。寧ろそう考えるべきではあるまいか。単に所有物のことではなく、生活の心構えのことを言うのである。
 ――ところで、茲に提出されたような考え方は、恐らく諸君には出来ないだろう。如何なる場合にも、特権者が非特権者となり、高い者もすべて低い者となるとしか、諸君には考えられないのだ。非特権者が特権者となり、低い者もすべて高い者となるという、そういう考え方は、諸君の囚われた理性を昏迷さすに違いない。何に囚われてるかというと、デモクラシーという言葉にだ。だから諸君の政治的運動を反省してみ給え。すべてこれ、真の政治的運動ではなくて、単なる政権運動であり、成り上ろうとするあがきではないか。デモクラシーに於ける人権の尊重は、すべての者が特権を持ち、すべての者が高きに位置する、そこの所から初まらねばならぬことを、まだ諸君は理解していないし、ただデモクラシーという言葉の皮相な響きにのみ囚われているのだ。
 ――そういう諸君には、高い低いとかいう言葉が恐らく不愉快に聞えるだろう。然し人間としての人格のあり方について向上発展があるとすれば、高い低いは最も端的な明瞭な表現であって、万人に理解され得るものであろう。そしてこの表現の中に、理想主義の実質が含まれている。理想主義的なものを凡て失ったデモクラシーなどは、豚のそれに過ぎない。
 ――右のような設問や非議は、或は乱暴と思われるかも知れない。然しこの乱暴を敢て為す所以は、人々の思想が、宛も水の如く、低きへ低きへと就きたがるからに外ならない。こういう傾向は、敗戦にふさわしいものであるかも知れないが、何かを建設せんとするには禁物である。殊に、新たな文化を建設せんとするには禁物である。高きへ高きへと就く思想こそ今や最も必要である。新文化建設への地ならしは甚だ結構だが、それをして高きを崩してすべてを低きに平均せしむるものたらしめず、低きを向上さしてすべてを高きに平均せしむるものたらしめることは、出来ないものであろうか。
 ――これは単に万人を啓蒙することによって得らるるものではない。万人各自の自覚を俟って得らるるものである。それを望むことが無理だとするならば、せめて少数の人々にでもよろしい、この自覚を持って貰いたい。それらの人々によってこそ、新たな文化が建設せらるるであろう。
 以上のような呟く精神は、もはや既に明かな如く、政治的精神ではない。またひろく一般文化的精神でもあるまい。それは単に文学的精神であろう。なぜなら、それは、心の持ち方とか、生活の心構えとか、人格のあり方とか、物の考え方とか、そういうものを中心問題とするからである。そしてそれが説くところの新たな文化の建設というのは、文学の新たな復興創造と解せられるのである。
 この文学的精神は、如何なる事態のなかにも一種の理想主義を把持するし、如何なる現実のうちにも一種の理想主義を見出そうと欲する。茲に一種のと言う所以は、この理想主義が際限もなく伸展するからであり、その先方は文学自体が持つ夢想のなかに没して、それを辿ってゆけば、やがて人間性の破壊にまで到達するかも知れないからである。そしてこの窮極の点に於いて、この精神は逆に、原子爆弾をその象徴とする科学上の新時代に対抗して、人間性を擁護しようと意図する。だがそこに至るまでに、さし当ってこの精神は、あらゆる卑俗を忌み、自己を高貴に保とうとする。その性質は謂わば貴族主義である。
 茲に言う貴族主義とは、社会生活上のそれとは異る。権勢や富や華美など、階級的な特権を意味するのではない。卑俗とは生命力の微弱なことを言い、高貴とは生命力の強健なことを言うのだと、太陽の光のなかで考える、そういう性質を意味するのである。それ故にこの貴族主義者は、精神的に甚だ多欲なのである。あらゆることを見、あらゆることを考え、あらゆることを夢みようとする。神に身を任せると共に、悪魔にも身を任せる。つまり、社会生活上の貴族主義者が衣食住に於いて貪欲放縦であるが如く、この貴族主義者は思惟に於いて貪欲放縦なのである。彼は遂に己を破滅させるかも知れない。然し彼は言うであろう、自由のうちに破滅するのは本望だと。自由がこのように利用されることは太陽的である。自由とは自律の自由に外ならないと理解されるのであるが、ここではもはや、生長発展も破綻破滅も共に自律的なものとなる。
 このように説く時、政治的精神は驚いて叫ぶであろう。何たる個人主義ぞやと。然しそれは誤解である。この文学的精神は、個人主義どころか、新たな探求と建設とのために己を捧げてるのである。己を捧げてるが故にあらゆることが可能なのである。廃墟のことを忘れてはいけない。廃墟のなかに新たな建設が為されねばならないことを見落してはいけない。
 それにしても、少しく乱暴な精神だね。それが君の文学精神なのか。――そう筆者に尋ねる人もあるだろう。
 それに対して、筆者は微笑もて答えたいのである。――僕の精神は言わないが、吾々が持つべき文学精神なのだ。人間としての矜持ある逞ましい美しいものをそこに見出し得ないとするならば、それは怯懦の故であろう。そして怯懦は遂に真の自由をも建設をも知らずに終るであろう。





底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
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