とはいえ、その時俺は、周さんが日本人の俺に向って訴えてるという、微妙な意味合いが分ってきた。同国人同志なら、違った言葉遣いが出て来ただろう。 泣いてる周さんの顔は、窶れて肉が落ちたように見える。それが次第に大きく脹らみ、額や頬に肉が盛り上ってき、眼もかっと見開かれると、怒ってるのだ。 「千代乃を殺したのは、わたしではありません。どぶろくの仕入れ先をわたしは千代乃に隠したが、良心に咎むるところありません。隠すべきを、当然、隠しただけです。貸金の利子を請求したのも、請求すべきを、当然、請求しただけです。ただそれだけのことで、千代乃は死ぬようなことになりました。わたしには訳が分らない。あの尾高たち、街のボスたちの根性が、わたしには分らない。慾張りというだけでなく、卑劣、邪悪です。戦争中わたしがどんなにいじめられたか、ひとには分りません。そしてこんどは、千代乃を殺しました。あんたたちは、しばしば、日本の軍部だの何だのと言いますが、ボスは軍部よりひどい。日本の国内で、日本の婦女を自殺させました。もし自殺しなければ、きっと刺し殺したでしょう。しかも、罪はどこにありますか。第三国人のわたしを愛したのが罪でしょうか。ああ、千代乃が可哀そうです。そしてわたしも、可哀そうです。」 周さんには、憤りと悲しみとが交々起って来るのだった。 復讐、ということも周伍文は考えてみた。暴力を以てではなく、法廷に持ち出しての抗争。だが、それは全く見込みないことが分った。先刻来ていた中老の男は、張というひとで、周から相談を受けて、いろいろ研究してみた結果、全然だめだということになった。こちらに弱みがある上、先方の尻尾はどこも掴めなかった。そして単に自殺なのだ。 張は仲間うちでの有力者で、こんどのことについて、周の一切の面倒をみてやった。周はもう土地に嫌気がさして、また横浜に立ち退くことになっていた。千代乃の葬式は簡単に済まし、横浜に移転してから改めて喪に服するつもりだった。 「ストック品が無くなったら、店を閉めて、横浜へ行きます。とにかく、商品は売らなければなりませんからね。千代乃の遺骨は、親戚のひとが持ってゆきました。荷物も持たせてやりました。金もやりました。もうわたし、一人きりです。」 しいんとして、潮の引いた後のようだった。さほど寒くもないのに、周さんがやたらにつぐ火鉢の炭火が、徒らに赤々としている。眠れない深夜のように。意識は茫としているのに、眼だけが冴えていた。酔ったばかりではなかった。 突然、周さんは頓狂な声を立てた。 「あ、ありました。一つ残っています。」 鏡台が残っていたのである。周さんも一緒に使っていたものではあるが、鏡台といえば、やはり千代乃さんに属するのだ。 「鏡は、女の魂とか言われていますね。」 古風な言葉だ。 「あれがある限り、やはり千代乃も残っている。そうではありませんか。」 「まあ、そうかも知れないね。」 周さんの眼を見つめると、周さんも俺の眼を見つめた。互に、何かを探り出そうとするのではなく、一緒に感じ合おうとするのだ。 「ほんとうに、千代乃に逢いましたね。」 囁くような静かな言葉だった。 確かに逢ったようだ。俺は頷いた。 「わたしも逢いました。二度逢いました。」 煙草の煙で室内は濛々としていた。時間がとぎれとぎれに空白となった。 「それでは、出かけましょうか。」 「そう、出かけてもいいね。」 なんのことだかはっきりはしないが、それでも、よく分ってはいたのだ。まだいろいろ饒舌り、その言葉は空に消え、そして感じだけが残っていた。 周さんは立ち上って、奥の室にはいり、電燈をつけた。俺もついて行って、上り框から覗いた。 横手に、紫檀の大きな鏡台があった。その鏡の裏側から、周さんは小さな姫鏡台を取り出した。朱色に塗った玩具みたいなもので、どこかの土産物でもあろうか。それから、大鏡台の抽出を開けて、いろんな下らないものを取り出した。白粉やクリームの壜、化粧道具、櫛やピン、刷毛類など、たぶんもう使い古されたものばかりらしい。そして、そのうちの小さい物は姫鏡台の抽出に入れ、はいりきれない物は鏡の前に並べた。 周さんは俺の方を振り向いて、淋しげに頬笑んだ。俺は静かに頷いた。 周さんは有り合せの木箱を探して、姫鏡台とその他の品をつめこみ、上から紐で結えた。 それから周さんは、裏口の方へ行って、鶴嘴と平鍬を持って来た。 俺は合着のオーバーを着て、木箱をさげ、周さんはジャケツのままで、鶴嘴と鍬を持った。 頷き合って出かけた。 酔余のいたずら、でもないし、真面目な意図、でもないし、何が何やら分らないながらも、へんに俺は心が暗かった。滑稽であろうと、道化ていようと、とにかく、それを遂行しなければならない。 途中で、木箱がぐんぐん重くなってきた。 もう止めなければいけない。いつも愛人についてのいざこざで頭を悩まし、毎日酒に酔って彷徨し、そして心身を消耗すること、もう止めなければいけない。死を思い、自殺を思うこと、もう止めなければいけない。津軽海峡のことなど、もう止めなければいけない。 木箱はぐんぐん重くなった。 車除けの石があって、俺はそれに腰を下した。 周さんも立ち止った。 「どうかしましたか。」 「箱がとても重くなった。」 「では、わたし持ちましょう。」 「なあに、いいよ。」 立ち上って、歩きだした。 「こんなこと、もうこれからは止めようよ。」 周さんは素直に答えた。 「止めましょう。」 暫く歩いた。 「もうこれからは、合理的に生きようよ。」 周さんは素直に答えた。 「合理的に生きましょう。」 それが、果して周さんとの問答だったかどうかは、分らない。 焼跡の草原まで来て、月が出てることが分った。薄曇りの空の中天に、淡い半月があって、地上には靄の気が漂っていた。 周さんは立ち止った。俺が千代乃さんを見かけた所だ。高い雑草の中に、周さんは数歩分け入り、そして地面を見つめた。千代乃さんの死体が横たわっていた場所だろう。その辺、草は踏み荒されていた。 周さんは鶴嘴をふるった。だがそれには及ばなかった。地面は案外柔かく、鍬だけで充分だった。二尺ばかり下に、小石交りの固い層があり、そこを鶴嘴で突破すると、また柔かくなった。四尺ほど掘った。 深夜のその作業は神祕じみていた。こそこそと侏儒どもが、地下の宝物を発き盗もうとしてるかのような、錯覚が起った。然し現実に、穴を掘ってるのは周伍文であり、側で見てるのはこの野島だ。なにか滑稽で忌々しく、笑殺したいのだったが、反対にふっと涙が湧いた。 「もういいだろう。」 あたりを憚る低い声で言った。 二人とも穴を覗き込んだ。ただ黒々としている。 俺は思いがけない自分の声を聞いた。 「アジアの憂鬱を、埋めよう。」 周さんは素直に答えた。 「アジアの憂鬱、埋めましょう。」 それも、果して二人の対話だったかどうか。 俺は木箱を周さんに渡した。周さんは木箱を穴に投げこんで、俺には全然意味も感情も通じない言葉を呟いた。それから鍬で穴を埋めた。地均しをして、草を分けて道に出た。へんに気がせいて、ゆっくりしておられない思いだった。道に出てほっとした。 黙々として真直に歩いた。後を振り向きもしなかった。 周さんは家の戸を引き開け、俺がはいると、戸締りをしてしまった。俺を帰らせないつもりかも知れない。 周さんは裏の方へ行った。手足を洗う水音がして、靴ではなく、下駄をつっかけて戻って来た。 「ああ、これですっかり済んだ。」 独語のように言って、俺に軽く頭を下げた。 炭火を盛んにおこし、濁酒を熱くして飲み、煙草をふかして、二人で顔を見合せたが、なんだか、夢から覚めたような白々しさで、そして胸うちに淋しい空虚があった。 「張さんも、君の好きなようにするがいいと、言いました。前から考えていたことです。」 俺が何も尋ねないのに、周さんはそんなことを言った。 「そして、どうなの。」 「さっぱり、気が済みました。」 あんながらくたな品物ばかりで……。そしてあんなことで……。 「アジアの憂鬱……。」 口の中で言いかけて、俺はやめた。 不思議なのは、確かに夢ではなかったが、出かけてからこれまで、千代乃の名前が一度も出なかったことである。それで、その名前を聞いて俺はぴくりとした。 「もう千代乃は出て来ません。わたしは完全に一人きりです。」 地中に埋めたのは、アジアの憂鬱ではなく、千代乃だったのか。 周さんはまた饒舌りだした。 横浜に行って、一稼ぎするつもりである。それから、中国に一度帰りたい。紹興の近在に、伯父や伯母や兄弟が、たくさんいる。横浜にはまた戻って来る。その時は、紹興の本場物の老酒を、何十年も何百年もたった豊醇な老酒を、たくさんお土産に持ってこよう。そして酒好きな人たちに、ここへよく飲みに来た人たちに、贈物にしよう。みんな良い人ばかりだ。然し、街のボスたちはいけない。自分はもう千代乃についての怨みは忘れるつもりだが、それでも、ボスはいけない。日本にはもうこれからボスは少なくなるかも知れないが、その代り、ほかの嫌な奴が出て来るだろう。そんな奴が幅を利かせるだろう。日本は不思議なところだ。善良な人々と、邪悪な人々と、両極端に別れてるようだ。千代乃の淋しい葬式に対してだって、二通りの眼があった。憎悪や軽蔑の念で見る眼と、愛情や同情の念で見てくれる眼と、二通りの眼があった。その両方の眼を、自分ははっきり見て取った。日本は、どうしてそうなんだろう。中国には、無関心か関心かの二つしかない。日本には、憎悪と、愛情と、両極端がある。どうしてそうなんだろう。自分が異国人である故からであろうか。 そんなことを聞きながら、俺の方では、憎悪と愛情との流転変質のことを考えていた。憎悪にせよ愛情にせよ、それは恒常的なものではなくて、いつも一方から他方へと移り変り、相対的な人事関係によって、刻々に変化する。愛すればこそ憎むなどと言うのは、おめでたい限りで、憎めばこそ愛すると逆に言ったら、どうなるか。 俺には、どぶろくだけが頼りだった。 「異国人の中にあっての憂愁だね。僕には、同国人の中にあっての憂愁が、いつもあるよ。」 「あんたとは別です。だから、憂愁があるなら、その憂愁を共にしましょう。」 「よかろう、共にしよう。」 「今夜は、飲み明かしましょう。わたしのお別れの宴です。いくらでもある限り、飲んで下さい。」 酔眼ばかりでなく、酔った意識が、朦朧として、体も支えかねる心地だった。 ふと、眼を挙げて俺は、表の土間の方を見やった。そこは電燈も消えており、真暗で、その先方は戸締りがしてあるはずだ。 周さんも、俺の様子に気付いてか、表の方を見やったが、それだけで、ほかには何も感づかなかった。 だが確かに、表の街路に女の足音がして、二度ほど戸が軽く叩かれた。周さんの言葉にも拘らず、千代乃さんじゃないか。それとも俺の錯覚か。あとはまたしいんとなった。 二人は倦きもせず濁酒をあおり、精神は朦朧となりながら、ぽつりぽつり語った。 俺はまた表の方を見やった。それにつれて、周さんも見やったが、何も感づかなかった。 だが確かに、表の街路に女の足音がして、二度ほど戸が軽く叩かれた。千代乃さんじゃないか。それとも俺の錯覚か。あとはしいんとなった。 なんとしたことか、周さんは卓子に顔を伏せて泣いていた。
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