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現代小説展望(げんだいしょうせつてんぼう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/13 6:55:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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小説の本質 ある科学者がこういうことをいった――「科学に没頭していると人生の煩わしさを……人生そのものをも……忘れてしまう。科学は人生なしに成立する。それが、初めは淋しい気もしたが、この頃では却って嬉しい。」 淋しいか嬉しいか、それは別問題として、実際、科学は人生なしに成立する。人生がなくても……人間がいなくても……二つの点を結びつける線のうちでは直線が一番短いだろうし、空気は酸素や窒素やその他のものから出来てるだろうし、光は一秒間に約三十万キロ走るだろう。そういう事実を見出したのは人間であるが、事実そのものは人間の存在とは何の関係もない。 右のことは、数学や自然科学ばかりでなく、他の学問についてもいえる。肉体の細胞が如何にして癌に変化するかを、医学は説明する。夢の中で頭脳が如何に敏速な活動をなすかを、心理学は証明する。資本主義が如何なる機構の上に立つかを、経済学は解剖する。その他種々。然しながら、人間の肉体的現象が、或は精神的現象が、或は社会的現象が、如何に闡明されようとも、人間の「生きてるという感じ」は――生活感は――なおいえば、生活そのものは――視野の外に残されている。だから少々詭弁めいたいい方をすれば、人間生活がなくてもそれらの学問は成立する。恰度、芸術がなくても美学が成立するように。 こういう分りきったことをいう所以は、芸術は直接に人間生活を内包するということを、ここに断っておきたいからである。直接に生活を内包するというのは、見方を変えれば、生活の直接の現われだといってもよい。 人間生活なしには芸術は成立しない。人間生活のない音楽は単なる音響であり、人間生活のない絵画は単なる色彩である。 「自然」は神の宮にして、生ある柱
時おりに捉えがたなき言葉を漏らす。 人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き 森、なつかしき眼差に 人を眺む。 長き 広大の無辺の中に、混らうに似て、 聲と 色と 物の (ボードレール、鈴木信太郎訳) これは象徴派詩人の自然観であるが、それは自然に対する単なる視察ではなく、自然に対する生活的味到である。そういうところから芸術が生れる。然しこれは詩であって小説ではない。 トルストイに「三つの死」という短篇小説がある。その終りの方に、一本の木が切り倒されることが描いてある。朝早く、東がやっと白みかけたころ、森の中で、一本の木が斧で切られている。その斧の不思議な音が、森の中で繰返される。鶺鴒が別な木の枝に逃げる。 下では斧がますますこもった音をひびかせ、みずみずした真白な木屑が露を帯びた草の上へ飛んで、一撃ごとに軽い裂けるような音が聞えた。木は身体全体をびりびりふるわせて、その根の上で喫驚したように揺れながら、曲っては素早くもとへ返った。一瞬間すべてはひっそりと静まり返った。が、また木はぐっと曲って、その幹の中でめきめきと裂ける音が聞え、そして小枝を折ったり、大枝をへしまげたりしながら、しめった土の上へ横ざまにどっと倒れた。斧の音と人の足音とは静になった。鶺鴒は一声鳴いて高く舞い上った。彼がその翼でひっかけた枝は、暫く揺れていてから、他の枝と同じように、葉もろともに静まった。木々は新たに出来た空間に、一層歓ばしげにその動かない枝を張った。
太陽の第一線が、透明な雲を貫いて空にその光を投げ、やがて大地と天空とを一さんに駆けぬけた。霧は浪をなして谷間に溢れ、露はきらきら光りながら緑葉の上で戯れ、透明な白い雲は大急ぎで蒼穹の面を散っていった。小鳥どもは茂みのなかを飛び廻って、我を忘れたもののように、何やら幸福そうに啼き交わした。みずみずした葉は歓ばしげに、静かに梢の上で囁きかわし、生きた木々の枝々は、死んで倒れている木の上で、静かに荘厳に動き始めた。 (中村白葉訳) 精彩な新鮮な描写である。ところが、この木の死だけでは、小説にはならない。この一篇が小説になってるゆえんは、貧しい男の死と富裕な女の死とが、木の死と対照的に描かれてるからである。右に引用した部分だけでも、立派な芸術的描写ではある。それには人間生活が裏づけられている。もし人間生活が――人生が――なかったならば、森の中の一本の木が切り倒されることを、こういう風に書けるものではない。然しここに裏づけられてるのは、単に生活的情感だけである。それが、他の二人の人間の死とつみ重ねられて、生活的現実性にまで濃度をまして、はじめて小説となっている。もし木の死だけで一篇の小説を成そうとするならば、おのずから異なった手法が必要であろう。 勿論小説には一定の形式というものはない。如何なる形式の小説を書こうと、それは作者の自由である。然しそれには必ず生活的現実性の裏づけが必要である。 生活的現実性という言葉は、私が仮りに使ったもので、一言説明しておく。 人間の生活は――なおいえば、人生は――種々の相貌を具え、種々の色合を呈し、種々の叫びを発する。その、叫びや色合ばかりでなく、相貌までを含めたものを、生活的現実性のあるものと私はいう。そして小説は、特殊のものを除いて本来、この生活的現実性を持っていなければならない。ごく客観的に人間生活を描いてあるような外見の小説で、実は案外、その叫びや色合きり描かれていないものがある。またその逆なものもある。要は、作者の眼の据え所と心構えの如何とによる。 ザイツェフの短い小説だが、「狼」というのがある。――狼の群が一週間も続いて猟師たちから狩立てられる。彼等は傷つき且つ餓えながら、雪の積った曠野の中を彷徨する。時々立止っては一かたまりになって吠え立てる。そしてはまた歩きだす。夜になってもさまよい続ける。 狼共は徐に歩いた。死んだような雪は蒼白い眼で彼等を眺めた。上からは何物かどんよりと光って、下では細かい薄い氷が……いやな音を発した……。
狼共は考えた。やはり後に残った友達の方が正当だった。白い曠野は実際彼等を憎んでいる。彼等が生きていて駆廻ったり蹂躙ったり、安眠を妨げたりするのを憎んでいる――とそんな風に考えた。この果知れぬ曠野が今にもまっ二つに裂けて、すっぽりと彼等を挟みこんで、そのまま葬ってしまうだろうと感じた。そして彼等は絶望した。 「手前、俺等を何所へ連れて行くんでえ?」と彼等は年取った狼を詰問した。「手前途を知ってるかい、何所へ出るんでえ?」年取った狼は黙っている。 が、一番若い馬鹿な狼が殊更しつこく、こういってつめかけてきた時、年取った狼は振返ってぼんやり彼をながめたが、急に殺気を帯びてきて、返答する代りにざくりと彼の頸項に咬みついた。 (昇曙夢訳)
こういう章を読んでゆくと、雪の曠野を彷徨してる飢えた狼だけでなく、その中に直接現われてる一種の人間生活の相貌を、吾々は感ずる。しかもこの一篇の中には人間は殆ど立現われてこないのである。 [1] [2] [3] [4] [5] [6] 下一页 尾页
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