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笑い(わらい)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-4 17:34:11 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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子供の時分から病弱であった私は、物心がついてから以来ほとんど医者にかかり通しにかかっていたような それで、これから告白しようとする私の奇妙な経験がどこまで 私は子供の時分から、医者の診察を受けている場合にきっと笑いたくなるという妙な癖がある。この癖は大きくなってもなかなか直らなくて、今でもその 病気といっても四十度も熱があったり、あるいはからだのどこかに堪え難い痛みがあったりするような場合はさすがにそんな余裕はないが、病気の自覚症状がそれほど強烈でなくて、起き上がってすわって診察してもらうくらいの時にこの不思議な現象が起こるのである。 まず医者が脈をおさえて時計を読んでいる時分から、そろそろこの笑いの前兆のような妙な心持ちがからだのどこかから起こって来る。それは決して普通のおかしいというような感じではない。自分のさし延べている手をそのままの位置に保とうという意識に随伴して一種の緊張した感じが起こると同時にこれに比例して、からだのどこかに妙なくすぐったいようなたよりないような感覚が起こって、それがだんだんからだじゅうを 舌を出したり いよいよ胸をくつろげて打診から聴診と進んで来るに従って、からだじゅうを駆けめぐっていた力無いたよりないくすぐったいような感じがいっそう強く鮮明になって来る。そうして深呼吸をしようとして胸いっぱいに空気を吸い込んだ時に最高頂に達して、それが息を吹き出すとともに一時に爆発する。するとそれがちゃんと立派な「笑い」になって現われるのである。 何もそこに笑うべき正当の対象のないのに笑うというのが不合理な事であり、医者に対して失礼はもちろんはなはだ恥ずべき事だという事は子供の私にもよくわかっていた。そばにすわっている両親の手前も気の毒千万であった。それでなるべく我慢しようと思って、くちびるを強くかんだり、こっそりひざをつねったりするが、目から涙は出てもこの「理由なき笑い」はなかなかそれぐらいの事では止まらなかった。そのような努力の結果はかえって防ごうとする感じを強めるような効果があった。ところが医者のほうは案外いつも平気でいっしょに笑ってくれたりする。そうすると、もう手離しで笑ってもいいという安心を感じると同時に、笑いたい感覚はすうと一時に消滅してしまうのである。 胸部の皮膚にさわられるのが直接にくすぐったい感覚を起こさせるので、それが原因かと思われない事もないが、実はそうではなくて、それよりはむしろ息を吸い込もうとする努力と密接な関係のある事が自分でよくわかる。腹部をもんだりする時には実際かえってそう笑いたくならなかった。 かかりつけの医者に 「男というものはそうむやみになんでもない事を笑うものではない」というような事を常に父から教えられ自分でもそう思っていた。いわんやなんら笑うべき正当の理由のないのに笑うという事は許すべからざる不倫な事としか思われなかった。それで、ある時だれか他家のおばさんが「それはどこかおなかに弱い所のあるせいでしょう」と言ってくれた時には、何かなしに一種のありがたい福音を聞くような気がした。なんだか自分の意志によって制すべくして制しきれない心の罪が、どうにもならない肉体の罪に帰せられたように思われた。 いわゆる笑うべき事がない時に笑い出すのは医者に いちばん困るのは親類などへ行って改まった しかしそういう場合に私に応接した多くのおばさんたちは、子供の私がわけもなく笑い出してもそんな事はてんで問題にもならないようであった。かえって向こうでもにこにこして「たいへん大きくなった」などという。そんな事を言われてみると、もう少しも笑わなくともいいようになる。そうして同時になんとも言えない情けない こういう「笑い」の癖は中学時代になってもなかなか直らなかった。そしてそれがしばしば自分を苦しめ恥ずかしめた。おごそかな神祭の席にすわっている時、まじめな音楽の演奏を聞いている時、長上の訓諭を 年を取るに従って多少自分の内部の心理現象を内察する事を覚えてからはこの特殊な笑いの分析的の解説を求めようとした事は幾度あったかわからない。しかしそれは自分などの力にはとても合わないむつかしい問題であった。結局自分の神経の働き方にどこか異常な欠陥があるのであろうという、はなはだ不愉快な心細い結論に達するのが常であった。 いったい私にとっては笑うべき事と笑う事とはどうもうまく一致しなかった。たとえば村の名物になっている そうかと思うと、たとえばはげしい あるいは門前の川が いずれの場合にも、普通いかなる意味においても決して笑うべき理由は見つからないが、それにもかかわらず笑いの現象が現われ来るのをいかんともする事ができなかった。 もう一つの場合は、人から何か自分に不利益な誤解を受けて、それに対する弁明をしなければならない時に、その弁明が無効である事がだんだんにわかって来るとする、そういう困難な場合に不意に例の笑いが呼び出される。これは最もぐあいの悪い場合であるが、それを意志の力で食い止める事は、とても他人に想像されまいと思われるほど私には困難である。 この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、 ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。 戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。 これらはむしろ狂に近い例かもしれないがしかしともかくもこんないろいろの事実を総合して考えると、一般に「笑い」という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。 笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が 私が始めてこの説を見いだした時には、多年熱心に捜し回っていたものが突然手に入ったような気がしてうれしかった。 笑う前にその理由を考えてから笑うという事は不可能であるとしても、笑ってしまったあとで少なくもその行為の解明がつかないのは申し訳のない事であると思っていた。その困難な説明がどうやらできそうな心持ちがしだした。 それにはこの学者の説と、昔よそのおばさんが言った「どこかおなかに弱い所があるせいでしょう」という事とを合わせて考えてみるといいようである。 以上にあげた特殊な「笑い」の実例を見ると、いずれも精神ならびに肉体に一種の緊張を感じるべき場合である。もし充分気力が強くて、いわゆる腹がしっかりしていて、その緊張状態を一様に保持し得られる場合にはなんでもない。しかしからだの病弱、気力の薄弱なためにその緊張の持続に堪え得ない時には知らず知らず緊張がゆるもうとする。これを引き締めようとする努力が無意識の間に断続する。たとえばやっと歩き始めた子ねこが、足を踏みしめて立とうとする時に全身がゆらゆら揺れ動くのもこれと似たところがある。そういう断続的の緊張 この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、 実際自分のようなものでも、健康のぐあいがよくて精力の満ちているような場合に、このような変則な笑いの出現する事はまれであって、病後あるいは精神過労の後に最も顕著な事から考えてもこの仮説は少なくともよほど見込みがありそうである。 このような考えから出発して一般の笑いの現象を研究してみたらどうかという事は自然に起こる次の問題である。 狂人やヒステリー患者の病的な笑いはどうであろう。これは第一自分の経験もないし、また観察すべき材料も手近にないからよくはわからないが、たとえば女のからだのある変化に随伴して起こりがちなヒステリーなどは、 しかしそれはしばらくおいて、もう少し そういう笑いの中で最も純粋で原始的だと言われるのは、野蛮人でも文明人でも子供でもおとなでも共通に笑うような笑いでなければならない。野蛮人がいかなる事を笑うかという事が知りたいのであるがこれはちょっと参考すべき材料を持ち合わせない。やむを得ず子供の場合を考えてみた。子供の笑いの中で典型的だと思うのは、第一に何かしら意外な、しかしそれほど恐ろしくはない重大ではない事がらが突発して、それに対する軽い 惰性をもったものがその正常の位置から引き退けられて、離たれた時に、これをその正常の位置に引きもどさんとする力が働けば振動の起こるというのは物質界にはきわめて普通な現象である。そして多くの場合においてその惰性は恒同であり、弾力は それにもかかわらず笑いの現象を生理的また心理的に考える時にこの力学の これを一つの working hypothesis として見た時には、そこからいろいろな 子供の笑いと子供にはわからないおとなの笑いとの間には連続的な段階がある。(A)尊厳がそこなわれた時の笑い、(B)人間の弱点があばかれた時の笑いなどは必ずしもこれを悪意な Schadenfreude とばかりは言われない。ここにもある緊張のゆるみが関係してくる。 (C)望みが遂げられた時の喜びの笑い、これも無理なしにここの仮説の圏内にはいる。 少しむつかしくなるのは、(D)得意な時の自慢笑い、(E)軽侮した時の冷笑などである。しかし(D)には(A)と(C)の混合があり、(E)には(B)や(D)の錯雑がある。 (F)苦笑というのがある。これは自分を第三者として見た時の(A)と(B)とが自分を自分とした時の苦痛と混合したものででもあろうか。 こんなふうにしてもっといろいろな種類の笑いがLMN……というぐあいに導き出されそうに思われる。しかしこのような問題はもう純粋な心理の問題になって肉体との縁が遠くなる。これは自分のここに言おうとする事ではなかった。 この「仮説」はただ自分の奇妙な「笑い」に対する少年時代からの疑いを解くために考えたものである。この考えの普遍性を主張しようとしているわけでは決してない。しかしそれが少なくも多数の人に普遍なものを含んでいなければ私はやはり安心ができない。 物事を系統化する事の好きな人はその系統にはいらない事実に盲目になりがちなものである。私の現在の場合にもそんな傾向がないという事は断言できない。それでこれはまだまだ充分に考えてみなければどうなるかわからないが、しかしよく研究してみたらいくらか物になりそうな見込みはある。 読者の内にもし専門の学者があらばその人はこの私の (付記) この稿をだいたい書いてしまって後に、ベルグソンの「笑い」という書物が手に入って読んでみた。なるほどおもしろい本である。この書の著者は、笑いにはすべて対象があるものと考えていて、対象のない笑いには触れていない。そしてその対象は直接間接に人間的なものと考え、顔や挙動や境遇や性格やの 読んでいるうちにいろいろ有益な暗示も受けるし、著者の説に対する一二の疑いも起こった。しかしこれを読んだために私がここに書いた事の一部を取り消したり変更する必要は起こらなかった。私の問題は「対象なき笑い」から出発して、笑いの生理と心理の中間に潜むかぎを捜そうとするのであるが、ベルグソンはすっかり生理を離れて純粋な心理だけの問題を考えているのである。 ベルグソンの与えている種々な笑いの場合で私のいわゆる「仮説」とどうしても矛盾するようなものはなくて、むしろこれに都合のいい場合がかなりにあった。そしてこの書の終わりに近くなって笑いと精神的の これらの読後の感想についてはしるしたい事がいろいろあるが、この稿とは融合しない性質のものだから、それは別の機会に譲る事にした。 (大正十一年一月、思想) 底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1947(昭和22)年2月5日第1刷発行 1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行 1997(平成9)年12月15日第81刷発行 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2003年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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