煙草は生涯吸わず、匂いも嫌いであった。音楽は好きであったが深入りはしなかった。政治上の談論に興味があった。 ターリングの家の来訪者名簿には、内外の一流の学者の名前の外に英国一流政治家の名前も見える。 一八九二年にはソリスベリー卿の懇請でエセックス州の名誉知事(Lord Lieutenant)を引受けさせられた。一九〇一年ボーア戦争後、軍隊組織に関する新しい職責が加わったので辞職した。その時の辞表が一枚の紙片に鉛筆で書いたものであったので当局者は苦い顔をしたそうである。彼はその頃色鉛筆を愛用していた。 一八九五年にはトリニティ・ハウス(海事協会)の学術顧問に聘せられた。かつてはファラデー、ティンダルの務めた職である。一八九七―一九一三年の間、しばしば所属のヨット、イレネ号に、国王や王子その他のいわゆる Elder Brethren と一緒に乗込んで燈台の検分をしたり、燈光や霧報(fog-signals)の試験をした。これには色や音に関する彼の知識が役に立ったのである。 国民科学研究所(National Physical Laboratory)の設立が問題となって調査委員会が出来たときにレーリーが議長に選ばれ、いよいよ設立となったときには副委員長となった。研究所長にグレーズブルックが推挙されたのは、レーリーの考えから出たに相違ない。この創立に際して中心人物となるにはレーリーは最も適任であった。科学者の側からも信頼されると同時に政府側の有力者、また貴族の間に信用が厚かったからである。 一九〇三年に「肝油事件」というのが起った。それは所長が知人から頼まれて肝油の分析をしてやった、その分析表が訴訟事件の証拠物件となり、分析業者や化学者の団体から抗議が出てだいぶ面倒な問題になったのである。これが動機となって研究所の存在理由に関する質問が議会に出たりしたが、これに対する答弁には同所で出版された論文集二巻が役に立った。その後もこの研究所の財政問題などで心を煩わすことが多かったようである。純粋な自由研究と政府の要求に応ずるような功利的研究との融和塩梅も最も痛切な困難であったらしい。一九一九年彼の死ぬる少し前に辞表を出し、間もなくグレーズブルックも停年で退職した。
一八九七年頃レーリーは自分の仕事が少しだれ気味になるのを自覚した。それで気を変えるために休暇の必要を感じた。一八九八年の初めにインドのプーナー(Poonah)で皆既日蝕が見られるというので思い立って十月末にコロンボ行の船に乗って出掛けた。インドでは到るところで歓迎されたが、それは貴族としてであって、彼を迎えた人達は彼の科学上の仕事などは全く知らないように見えた。彼はインド魔術を面白がり、夫人がいろいろの、彼から見ると無駄な買物をするのを気にしたりした。 一九〇〇年軍務局で爆発物調査委員会が設置されたとき、レーリーが委員長に選ばれた。彼の好みにはあまり合わないこの仕事を、彼は愛国的感情から引受けたと云われている。無煙火薬の形を管状にする方が有利であるということを論じた論文が全集の第五巻に出ているのはこういう機縁に因るのである。 一九〇一年には Chief Gas Examiner(ガス受給に関する監督局の長官)に任命され、ガス法規修正案の調査会の議長となり、また訴訟問題の判定に参与したりした。この職には死ぬまで停まっていたのである。 一九〇一年にロンドンのチューブ地下鉄道が開設されたが、このために家が振動して困るという苦情が出たので、政府はそのために調査委員を設け、レーリーが委員長になった。色々実験の結果モーターの取付けに適当な弾条をつけただけで、この問題は容易に解決された。
青年時代に手をつけた「空の青色」に関する問題が、二十六年後の一八九九年に現われた論文で取扱われている。空気分子自身による光の分散によって青色が説明され、それから分子数が算定される事を示した。 永い間レーリーの手足となって働いて来たジョージ・ゴルドンが一九〇四年の暮に病死した。それから一年ほどは助手なしであったが、子息すなわち現在のレーリー卿が休暇で帰っているときは父を助けてガラス吹きや金工をやっていた。一九〇五年に新しい助手 J. C. Enock を得たが、この人は一九〇八年にターリングを去った。 一八七六年頃から音の方向知覚の問題に興味を感じていたが、一九〇六年に到って、両耳に来る波の位相の差がこの知覚に重要な因子であることをたしかめた。 一八九九年に彼の全集の第一巻が出た。この巻頭に聖歌の一節 "The works of the Lord are great, ……" を刷るつもりであったが、出版所の秘書が云いにくそうに「これでは、ひょっとすると、Lord すなわち貴方だと読者が思うかもしれませんが」と注意した。なるほどというのでこの句は別の句に移した。 全集の終りの第六巻は彼の死んだ翌年に出た。論文の総数四六六である。彼の論文のスタイルはコンサイスで一種独特の風貌がある。数学的論文と純実験的論文とが併立しているのも目に立つ。彼はまた論文の終りに短い摘要を添えるのが嫌いであった。理由は、摘要だけ見たのでは実験の内容にはないものまでも責を負わされる虞があるというのであった。 彼は自分でもしばしば言明したように、全く自分の楽しみのために学問をし研究をした。興味の向くままに六かしい数学的理論もやれば、甲虫の色を調べたり、コーヒー茶碗をガラス板の上に滑らせたりした。彼にはいわゆる専門はなかった。しかし何でも、手を着ければ端的に問題の要点に肉迫した。 彼自身は楽しみにやっていても、学界はその効績を認めない訳には行かなかった。一九〇二年エドワード王が Order of Merit を設けた時に最初に選ばれた十二人の中にレーリーの名も入っていた。ケルヴィンやキチナー将軍や画家のワッツなども顔を並べていた。また一九〇四年にはノーベル賞を受けた。一九〇五年には王立協会の会長に選ばれたが、五年の期限が満たない三年後に辞任した。その理由は、長い海外旅行をしたいというのと、少し耳が遠くて困るというのと、外国語がよくしゃべれないので外国人との交渉に不便だというのであった。一九〇八年ケンブリッジで名誉総長デヴォンシャヤー公が死んで、その椅子がレーリーに廻って来た。就任式の仰々しい行列は彼にいささか滑稽に思われたようであった。見物人の群衆の中に交じった自分の息子を発見した時、眼をパチパチとさせて眼くばせをした。そういう心持を眼で伝えたのである。この時の記念としてレーリー賞の資金が集められた。彼はまた大学財政の窮乏を救うためにカーネギーを説いたり、タイムス紙を通して世間に訴えたりした。一九〇九年のダーウィン百年祭はレーリー総長の司会で行われたが、その時の彼の追懐演説に現われたダーウィンの風貌は興味が深いものであった。また一九一一年に出た版権法修正案が大学の権利を脅かすものであったので、総長レーリーは上院で反対演説をした。 レーリーは前から南洋の島々を見たいという希望をもっていた。一九〇八―九年の冬の間に南アフリカへ遊びに来ないかという招待を、時の南アの長官セルボーン卿から受けたので、そのついでに南洋へも廻る気で出かけた。しかしケープからシドニーへの荒い旅路は遂に彼の南洋行を思い止まらせた。アフリカでキンバーレー、ヴィクトリア滝を見てプレトリアへの途上赤痢に罹り、その報知はロンドンを驚かせた。それからナタル、ザンジバールをも見舞った。アフリカ沿岸航海中に深海の水色について色々の観察をした。その結果を一九一〇年に発表したが、彼の説は後にラマン等の研究によって訂正された。この旅行の帰途ナポリでカプリの琅洞をも見物したのであった。 南ア旅行から帰ったときは、病後のせいもあったが、あまり元気がなかった。もう仕事をする気力がなくなったのではないかという気がした。それでも帰るとから水の色に関する実験をぽつぽつ始めた。この頃から以後は全く実験助手なしであったから仕事は思わしく進まなかった。従って自然に数学的な方面の仕事に傾いて行った。彼は六十七歳になったが研究の興味も頭脳の鋭さも、少しも衰えなかった。ただ全く新しい馴れぬ方面の仕事に立入る気はなくなっていた。ある時彼の長子が「科学者も六十過ぎると、役に立たないばかりか、むしろ害毒を流す」と云ったハクスレーの言葉を引いて、どう思うかと聞いたら、「それは、年寄って若い人の仕事を批評したりするといけない事になるかもしれないが、自分の熟達した仕事を追究して行くなら別に悪い事はあるまい」と答えた。 一九一二年の暮にレーリーの末男が死んで、幸福な彼の晩年にも一抹の黒い影がさした。一九一三年の春は肋膜を病んだ。そのとき「もう五年生きていたいのだが」と云った。一九一四年ルムフォード賞牌を受けたときに、人への手紙に「私の光学上の仕事が認められたのは嬉しい。あれは外の仕事よりも一層道楽半分にやったのだが」と書いている。 大戦中ターリングは軍隊の駐屯所となった。ある時はツェペリンの焼け落ちるのが見えたり、西部戦線の砲声が聞こえたりした。音響学における彼の深い知識は戦争の役に立った。飛行機や潜航艇の所在を探知する方法について絶えず軍務当局から相談を受け、また一方では国民科学研究所と航空研究顧問委員会の軍事的活動の舞台でも主役を勤めていたので、その頃の彼の書斎は机の上も床の上もタイプライターでたたいた報告書類などで埋まっていた。 レーリーの航空趣味は久しいものであった。子供の時分に燈火をつけた紙鳶を夜の空に上げて田舎の村人を驚かし、一八九七年には箱形の紙鳶を上げ、糸を樹につないだまま一晩揚げ切りにしておいたこともあった。一八八三年には鳥の飛翔について、『ネーチュアー』誌に通信を寄せた。これがリリエンタールの滑翔の研究を刺戟したことは本人からレーリーに寄せた手紙で分る。ライト兄弟もまたレーリーの影響を受けたらしい形跡がある。一九〇〇年マンチェスターでの講演では飛行機の原理を論じ、ヘリコプテルや垂直スクリューにも論及した。それで航空研究顧問委員会が組織されたときに彼が委員長になったのも偶然ではない。航空研究に関して彼の極めて重要な貢献は「力学的相似の原理」(Principle of dynamical similarity)の運用であった。これがなくてはすべての模型実験は役に立たないのである。短い論文ただ二つではあったが、これがこの方面の研究の基礎となった。 レーリーが公衆の面前に現われた最後は心霊学界の会長就任演説(一九一九)をした時であった。この演説も全集に収められている。 一九一七―一八年の冬頃からどうも脚が冷えて困ると云ってこぼしていた。一九一八年の夏は黄疸で二箇月寝込んだ。彼は自分の最後の日のあまり遠くないのを悟ったらしかった。それでもやはり仕事を続け、一九一八年には五篇、一九一九年には七篇の論文を出した。 一九一八年の暮バキンガム宮で大統領ウィルソンのために開かれた晩餐会に列席した。明けて一九一九年正月の国民科学研究所の集会に出た時に所長の重職を辞したいと申出たが、一同の強い勧誘で一先ず思い止まった。その時のついでに彼はインペリアルカレッジの実験室に長子をおとずれた。丁度その時子息が実験していた水銀燈を見たときに、彼は、干渉縞[#「干渉縞」は底本では「干渉稿」]の写真を撮って、それで光学格子を作るという、自分で昔考えた考察を思い出した。しかしターリングの設備では実行が出来ないのであった。それで、次にロンドンへ来た折に二人で一緒にやってはどうかという子息の申出を喜んだように見えた。それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒したが、その時はすぐに回復した。 一九一九年五月十八日の日曜、例の通り教会へ行ったが気分が悪いと云って中途で帰宅し、午後中ソファで寝ていた。翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十八日とは好天気であったので、戸外の美しい日光の下でお茶に呼ばれるために、二階からやっと下りて来た。六月一日長子が週末で帰省したときに、自分はもう永くはないが、ただ一つ二つ仕上げておきたいことがあると云った。六月二十五日には「移動低気圧」に関する論文の最後の一節を夫人に口授して筆記させ、出来上がった原稿を Phil. Mag. に送らせた。六月三十日には少し気分がよさそうに見えた。晩餐後ミス・オーステンの小説『エンマ』を読んでいた。しかし従僕が膳部を下げにはいって見ると、急に心臓麻痺を起していたので、急いで夫人を呼んで来た。それから間もなくもうすべてが終ってしまった。 葬式はターリングで行われた。キングは名代を遣わして参列させ、その他ケンブリッジ大学や王立協会の主要な人々も会葬し、荘園の労働者は寺の門前に整列した。墓はターリング・プレースの花園に隣った寺の墓地の静かな片隅にある。赤い砂岩の小さな墓標には "For now we see in a glass darkly, but then face to face." と刻してある。その後ウェストミンスター・アベーに記念の標石を納めようという提議が大学総長や王立協会会長などの間に持出され、その資金が募集された。標石の上の方には横顔を刻したメダリオンが付いている。レーリーの私淑したと思わるるトーマス・ヤングの記念標と丁度対称的に向き合っている。除幕式は一九二一年十一月三十日、ジェー・ジェー・タムソンの司会の下に行われた。その時のタムソンの演説はさすがにレーリー一代の仕事に対する簡潔な摘要とも見られるものである。その演説の要旨の中から、少しばかり抄録してみる。 「レーリーの全集に収められた四四六篇の論文のどれを見ても、一つとしてつまらないと思うものはない。科学者の全集のうちには、時のたつうちには単に墓石のようなものになってしまうのもあるが、レーリーのはおそらく永く将来までも絶えず参考されるであろう。」 「レーリーの仕事はほとんど物理学全般にわたっていて、何が専門であったかと聞かれると返答に困る。また理論家か実験家かと聞かれれば、そのおのおのであり、またすべてであったと答える外はない。」 「彼の論文を読むと、研究の結果の美しさに打たれるばかりでなく、明晰な洞察力で問題の新しい方面へ切り込んで行く手際の鮮やかさに心を引かれる。また書き方が如何にも整然としていて、粗雑な点が少しもない。」「優れた科学者のうちに、一つの問題に対する『最初の言葉』を云う人と、『最後の言葉』を述べる人とあったとしたら、レーリーは多分後者に属したかもしれない。」 しかし彼はまたかなり多く「最初の言葉」も云っているように思われる。
(附記) 以上はほとんどすべて Robert John Strutt すなわち現在のレーリー卿の著書 "John william Strutt, Third Baron Rayleigh" から抄録したものである。ここでは彼の科学的な仕事よりはむしろこの特色ある学者の面目と生活とを紹介する方に重きをおいた。近頃の流行語で云えば彼は代表的のブールジョア理学者であったかもしれない。しかし彼の業績は世界人類の共有財産に莫大な寄与を残した。彼はまた見方によれば一種のディレッタントであったようにも見える。しかし如何なるアカデミックな大家にも劣らぬ古典的な仕事をした。彼は「英国の田舎貴族」と「物理学」との配偶によってのみ生み出され得べき特産物であった。吾々は彼の生涯の記録と彼の全集とを左右に置いて較べて見るときに、始めて彼の真面目が明らかになると同時に、また彼のすべての仕事の必然性が会得されるような気がする。科学の成果は箇々の科学者の個性を超越する。しかし一人の科学者の仕事が如何にその人の人格と環境とを鮮明に反映するかを示す好適例の一つを吾々はこのレーリー卿に見るのである。 冒頭に掲げた写真(省略)は一九〇一年五十九歳のときのである。マクスウェルとケルヴィンとレーリーとこの三人の写真を比べて見ると面白い。マクスウェルのには理智が輝いており、ケルヴィンのには強い意志が睨んでおり、レーリーのには温情と軽いユーモアーが見えるような気がする。これは自分だけの感じかもしれない。
(昭和五年十二月、岩波講座『物理学及び化学』)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#…]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- アクセント符号付きラテン文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] [3] 尾页
|