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量的と質的と統計的と(りょうてきとしつてきととうけいてきと)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/4 17:24:55 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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古代ギリシアの哲学者の自然観照ならびに考察の方法とその結果には往々現代の物理学者、化学者のそれと、少なくも この歴史的事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題の前提として引用される。これは、この言葉の意味の解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解の結果は往々不幸にして有害なる影響を科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題がポピュラーでそうして伝統的権威の高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。 量的というだけならば古代民族の天文学的測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記の科学の ガリレー、ゲーリケ以後今日まで同様なことがずっと続いて跡を絶たない。ヴォルタの電盆や 現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く踏み過ぎる人であり、そうしてあまりに歴史的事実を無視する人であり、約言すれば科学自身の精神を無視する人でなければならない。 重大な発見の中でいわゆる Residual phenomena の研究から生まれるものがある。これらはもちろん非常に精密なる最高級の量的実験の結果としてのみ得られるものである。たとえばあまりに有名なルヴェリエの海王星における、レーリーのアルゴンにおけるごときものである。また近ごろの宇宙線(Cosmic ray)のごときものもそうである。これらの発見の重大な意義はと言えば、それらのものの精密なる数値的決定より先にそれらのものが「 もちろん質的の思いつきだけでは何にもならないことは自明的であるが、またこれなしには何も生まれないこともより多く自明的である。西洋の学界ではこの思いつきを非常に尊重して愛護し、保有し、また他人の思いつきを尊重する学者が多いのであるが、わが国ではその傾向が少ないようである。「ただの思いつきである」という批評は多く非難の意味をもって使われるようである。思いつきはやはり愛護し助長させるべきであろう。 これらはきわめて平凡なことである。それにかかわらずここでわざわざこういうことを事新しく述べ立てるのは、現時の世界の物理学界において「すべてを量的に」という合い言葉が往々はなはだしく誤解されて行なわれるためにすべての質的なる研究が encourage される代わりに無批評無条件に discourage せられ、また一方では量的に正しくしかし質的にはあまりに著しい価値のないようなものが過大に尊重されるような傾向が、いつでもどこでもというわけでないが、おりおりはところどころに見られはしないかと疑うからである。そのために、物理的に見ていかにおもしろいものであり、またそれを追求すれば次第に量的の取り扱いを加えうる見込みがあり、そうした後に多くの良果を結ぶ見込みのありそうなものであっても、それが単に現在の形において質的であることの「罪」のために省みられず、あるいはかえって忌避されるようなことがありはしないか、こういうことを反省してみる必要はありはしないか。 むしろそういう研究を奨励することが学問の行き詰まりを防ぐ上に有効でありはしないか。 もちろん多くの優秀なる学徒たちは何もわざわざそういう質的の、容易なようで実はむずかしい実験などをやらなくても、立派に量的であって、しかもおもしろくて有益であるような研究に従事するほうが賢明であり能率が良いと考えるであろうし、またそれはまさにそのとおりである。それだけならば何も問題はないのであるが、しかしもしそういう人たちがかりにそういう人たちとは反対にわざわざ難儀で要領を得ない質的研究をしている少数な人たちの仕事を、意識的、ないしは無意識的に discourage しあるいは積極的に阻止するようなことが、たまにならばともかく、学界一般の 現代において行なわれておりあるいは行なわれうべき質的研究は必ずしも初めから有益でありおもしろいとは限らない。十中八九は実際おそらくなんらの目立った果実を結ぶことなく歴史の ずっと昔から質的にしか知られていないような現象の研究には通例異常な困難が伴なう。結局の目的はやはりこれらを量的分析にかけるにあるが、現象のいかなる こういう種類の問題の一例は、おなじみのリヒテンベルクの放電像のそれである。この人が今から百何十年前にこの像を得た時にはたぶん当時の学者の目を驚かせたに相違ないのであるが、それがその後の長い年月の間にただ こういう種類の現象は分類的に見るとたいてい事がらが偶然的に統計的であって、古典的物理学の意味において deterministic でないような部類に属しているのである。 統計的数字を取り扱うことが「量的」であるかないか、従来の古典物理学で言うところの量的であるかないか、これは議論にもならないような事であるが、しかし事実上往々、たとえば地球物理学の問題における統計的研究は物理学上の量的研究とは全然別種のものと見なされ、どうかするとそれがかなり有益であり興味あるものであっても、「統計的だから」というわけをもって物理的なるものの圏外に置かれ、そういう仕事を行なう人たちには「統計屋」なるあまり愉快でない名前がさずけられる場合もあった。実際多くは統計屋であったかもそれはわからない。しかしそういう事実からして、統計的研究――物理学方法論から見た一つの方法としての――が本質的に無価値なるがごとき「感じ」を与えるようになるとしたら、それもまた憂うべきことである。 近代物理学では実際統計的現象の領土は次第次第に拡張されて来た。そうして古い意味での deterministic な考え方は一つのかりの方便としてしか意味をもたなくなって来た。同じ原因は同じ結果を生ずるという命題は、「同じ」という概念の上におおいかかった黒雲のために焦点をはずれた写真のように こういう時代において、それ自身だけに任せておくととかく立ち枯れになりやすい理論に生命の水をそそぎ、行き詰まりになりやすい抽象に新しい疎通孔をあけるには、やはりいろいろの実験が望ましい。それには行ない古したことの精査もよいが、また別に何かしら従来とはよほどちがった方面をちがった目で見るような実験的研究が望ましい。ことにこの眼前の生きた自然における現実の統計的物理現象の実証的研究によって、およそ自然界にいかに多様なる統計的現象がいかなる形において統計的に起こっているかを、できるならば片端から この難儀の問題の黒幕の背後に控えているものは、われわれのこの自然に起こる自然現象を支配する未知の統計的自然方則であって、それは――もしはなはだしい空想を許さるるならば――熱力学第二方則の統計的解釈に比較さるべき種類のものではあり得ないか。マクスウェル、ボルツマン、アーレニウスらを悩ました宇宙の未来に関するなぞを解くべきかぎとしての「第三第四の方則」がそこにもしや隠れているのではないか。 このような可能性への探究の第一歩を進めるための一つの手掛かりは、上記のごとき統計的質的現象の周到なる実験的研究と、それの結果の質的整理から量的決算への道程の中に拾い出されはしないであろうか。 要するに、従来のいわゆる統計物理学は物理学の一方の 最後についでながら私が近ごろ出会ったおもしろい経験をここにしるしておこう。それはある会合の席でプランクトンの調査に関する講演を聞いた時、「今回のわれわれの調査はまだ単に量的であって質的の点までは進んでいない」という言葉を聞いて 以上未熟な考察の一部をしるして貴重なる本誌の紙面をけがし読者からのとがめを招くであろうことを恐れる。紙数の限りあるために意を尽くさない点の多いのを遺憾とする。ただ量的にあまりに抽象的な、ややもすれば知識の干物の貯蔵所となる恐れのある学界の (昭和六年十月、科学) 底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年9月5日第64刷発行 ※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2000年10月3日公開 2003年10月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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