ただ取り止めもつかぬ短夜の物語である。 毎年夏始めに、程近い植物園からこのわたりへかけ、一体の若葉の梢が茂り黒み、情ない空風が遠い街の塵を揚げて森の香の清い此処らまでも吹き込んで来る頃になると、定まったように脳の工合が悪くなる。殺風景な下宿の庭に鬱陶しく生いくすぶった八つ手の葉蔭に、夕闇の蟇が出る頃にはますます悪くなるばかりである。何をするのも懶くつまらない。過ぎ去った様々の不幸を女々しく悔やんだり、意気地のない今の境遇に愛想をつかすのもこの頃の事である。自分のような身も心も弱い人間は、孟夏を迎うる強烈な自然の力に圧服されてひとりでにこんな心持になるのかと考えた事もある。こんな厭な時候に、ただ一つ嬉しいのは、心ゆくばかり降る雨の夕を、風呂に行く事である。泥濘のひどい道に古靴を引きずって役所から帰ると、濡れた服もシャツも脱ぎ捨てて汗をふき、四畳半の中敷に腰をかけて、森の葉末、庭の苔の底までもとしみ入る雨の音を聞くのが先ず嬉しい。塵埃にくすぶった草木の葉が洗われて美しい濃緑に返るのを見ると自分の脳の濁りも一緒に洗い清められたような心持がする。そしてじめじめする肌の汚れも洗って清浄な心になりたくなるので、手拭をさげて主婦の処へ傘と下駄を出してもらいに行く。主婦はいつもこの雨のふるのにお風呂ですかと聞くが、自分は雨が降るから出掛けるのである。門を出ると傘をたたく雨の音も、高い足駄の踏み心地もよい。 下宿から風呂屋までは一町に足らぬ。鬱陶しいほど両側から梢の蔽い重なった暗闇阪を降り尽して、左に曲れば曙湯である。雨の日には浴客も少なく静かでよい。はいっているうちにもう燈がつく。疲労も不平も洗い流して蘇ったようになって帰る暗闇阪は漆のような闇である。阪の中程に街燈がただ一つ覚束ない光に辺りを照らしている。片側の大名邸の高い土堤の上に茂り重なる萩青芒の上から、芭蕉の広葉が大わらわに道へ差し出て、街燈の下まで垂れ下がり、風の夜は大きな黒い影が道一杯にゆれる。かなりに長いこの阪の凸凹道にただ一つの燈火とそのまわりの茂りのさまは、たださえ一種の強い印象を与えるのであるが、一層自分の心を引いたのはその街燈に止った一疋の小さいやもりであった。汚れ煤けたガラスに吸い付いたように細長いからだを弓形に曲げたまま身じろきもせぬ。気味悪く真白な腹を照らされてさながら水のような光の中に浮いている。銀の雨はこの前をかすめて芭蕉の背をたたく。立止って気をつけて見ると、頭に突き出た大きな眼は、怪しいまなざしに何物かを呪うているかと思われた。 始めてこの阪のやもりを見た時、自分はふとこんな事を思い出した。自分が十九歳の夏休みに父に伴われて上京し麹町の宿屋に二月ばかり泊っていた時の事である。とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴える。外には程近い山王台の森から軒の板庇を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲い来る雨の足に座敷からさす灯が映えて、庭は金糸の光に満つる。恍惚としていた時に雨を侵す傘の音と軽い庭下駄の音が入口に止んで白い浴衣の姿が見えた。女中のお房が雨戸をしめに来たのである。自分は笛を下に置いて座敷にはいった。女中は縁側の戸を一枚々々としめて行って残る一枚を半ばで止め、暗い庭の方をじっと見ている。自分は父の机の前に足と投出したままで無心に華車な浴衣の後姿から白い衿頸を見上げた時、女は肩越しにチラと振り向いたと思う間に戸をはたとしめた。この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、やがて縁側に手をついて、宜しくば風呂を御召しあそばせと云った時はもう平生のお房であった。女が去った後自分は立って雨戸を一枚あけて庭を見た。霧のように細かな雨が降っている。何処かで轡虫の鳴くのが静かな闇に響く。夢から醒めたような心持である。戸袋のすぐ横に、便所の窓の磨硝子から朧な光のさすのに眼をうつすと、痩せたやもりが一疋、雨に迷う蚊を吸うとてか、窓の片側に黒いくの字を画いていた。 その後田舎へ帰ってからも、再び東京に出た後も、つい一度もやもりというものを見なかったが、駒込の下宿に移って後、夏も名残のある夜の雨にこの暗闇阪のやもりを見つけた時、十九の昔の一夜がありあり思い出された。あの後父が再び上京して帰った時の話の末に、お房と云う女中は縁あって或る大尉とかの妻になったと聞いた。事によれば今も同じ東京に居るかも知れぬ。彼は云わば玉の輿にのったとも云われようが、自分の境遇は随分変った。たとえ昔のお房に再会するような事があっても、今の自分を十年の昔豪奢を尽した父の子とは誰れが思おう。やもりを見て昔を思い出すと運命のたよりなさという事を今更のように感じる。そしてせっかく風呂に入って軽くなった心を腐らしてしまうのであった。 やもりは雨のふる夜ごとに暗闇阪の街燈に出ているが、いつ何処から這い上がるとも知れぬ。気を付けていたにもかかわらず一度も柱を登る姿を見た事がない。日の暮れるまでは影も見えず、夜はいつの間にか現われてガラスに貼り付けたように身動きせぬ。朝出がけに見るともう居ない。夜一夜あのままに貼り付いていたのが朝の光と共に忽然と消えるのでないかと云うような事を考えた事もある。 暗闇阪を下りつめた角に荒物屋がある。この店はちょうど自分が今の処に移る少し前に新しく出来たそうである。毎日通り掛りに店の様も見れば、また阪の方に開いた裏口の竹垣から家内の模様もいつとなく知られる。主人はもう五十を越した、人の好さそうな男であるが、主婦はこれも五十近所で、皮膚の蒼黄色い何処となく険のあるいやな顔だと始め見た時から思った。主人夫婦の外には二十二、三の息子らしい弱そうな脊の高い男と、それからいつも銀杏返しに結うた十八、九の娘と、外には真黒な猫が居るようであった。亭主と息子は時々店の品物に溜まる街道の塵をはたいている。主婦や娘は台所で立働いているのを裏口の方から見かける事があるが、一体に何処となく陰気なこの家内のさまは、日を経るに従うて自分の眼に映る。主婦は時々鉢巻をして髪を乱して、いかにも苦しそうに洗濯などしている事がある。流し元で器皿を洗っている娘の淋しい顔はいつでも曇っているように思われた。 二、三ヶ月程たって後息子の顔が店に見えぬようになって、店の塵を払う亭主は前よりも忙がしげに見えたが、それでもいつも同じような柔和な顔つきで、この男のみは裏木戸に落つる梧葉の秋も知らぬようであった。 やもりはもう見えぬようになった。冬が容捨もなく迫って来て木枯しが吹き募るある夜、散歩の帰り途に暗闇阪近くなった時、自分の数間前を肩をすぼめて俯向いて行く銀杏返しの女がある。たいていの店は早く仕舞って、寂れた町に渦巻き立つ砂ほこりの中を小きざみに行く後姿が非常に心細げに見えた。向うから来かかった老婆がすれちがった時、二人は急に立止って、老婆の方から、「ホー、しばらくだったね、もう少しはいいかえ」と聞く。振りむいたとき見ると荒物屋の娘であった。淋しい笑を片頬に見せて、消入るような声で何か云っているようであったが凄まじい木枯しが打消してしまって、老婆の「ホー」と云った寒そうな声と、娘の淋しかった笑顔とは何かなしに自分の心にしみ込むようであった。暗闇阪の街燈は木枯しの中に心細く瞬いていた。 翌る年の春、上野の花が散ってしまった頃、ある夜膳を下げに来た宿の主婦の問わず語りに、阪の下の荒物屋の娘が亡くなったと云う話をした。今日葬式が済んだと云う。気立ての優しいよい娘であったが、可哀相にお袋が邪慳で、せっかく夫婦仲のよかった養子を離縁した。一体に病身であった娘は、その後だんだんに弱くなって、とうとう二十歳でこんな事になったと話して聞かせた。自分は少し前に上野でこの娘に会うたことを思い出した。その時は隣の菓子屋の主婦と子供を二、三人連れて、花吹雪の竹の台を歩いていた。横顔は著しく痩せてはいたが、やがて死ぬ人とも見えなかったのである。 自分が年中で一番厭な時候が再び来て暗闇阪にはまたやもりを見るようになった。ある夜荒物屋の裏を通ったら、雨戸を明け放して明るい座敷が見える。高く釣った蚊屋の中にしょんぼり坐っているのは年とった主婦で、乱れた髪に鉢巻をして重い病苦に悩むらしい。亭主はその傍に坐って背でも撫でているけはいである。蚊屋の裾には黒猫が顔を洗っている。 やもりと荒物屋には何の縁もないが、何物かを呪うようなこの阪のやもりを行き通りに見、打ち続く荒物屋の不幸を見聞きするにつけて、恐ろしい空想が悪夢のように心を襲う。黒ずんだ血潮の色の幻の中に、病女の顔や、死んだ娘の顔や、十年昔のお房の顔が、呪の息を吹くやもりの姿と一緒に巴のようにぐるぐるめぐる。 二、三日経て後の夕方、荒物屋の座敷には隣家の誰れ彼れが大勢集まって酒を酌んでいた。畳屋も来ている、八百屋の顔も見える。あかるいランプの光は人々の赤い顔に映えて何となく陽気に見える。台所では隣の菓子屋の主婦が忙がしそうに立働いている。知らぬ人が見たら祝いの酒宴とも見えるだろう。しかし病めるこの家の主婦は前夜に死んだのである。いまわと云う時に、死んだ娘の名を呼んだとも云う。 養子に離れ、娘にも妻にも取り残されて、今は形影相弔するばかりの主人は、他所目には一向悲しそうにも見えず、相変らず店の塵をはたいている。台所の方は近所の者などがかわるがわる世話をしているようであった。それから間もなく新しい女が店に坐るようになった。下宿の主婦は、荒物屋には若い好い後妻が来たと喜んで話した。自分も新しい主婦の晴れやかな顔を見て、何となくこの店に一縷の明るい光がさすように思うた。 今年の夏、荒物屋には幼い可愛い顔が一つ増した。心よく晴れた夕方など、亭主はこの幼時を大事そうに抱いて店先をあちこちしている。近所のお内儀さんなどが通りがかりに児をあやすと、嬉しそうな色が父親の柔和な顔に漲る。女房は店で団扇をつかいながら楽しげにこの様を見ている。涼しい風は店の灯を吹き、軒に吊した籠や箒やランプの笠を吹き、見て過ぐる自分の胸にも吹き入る。 自分の境遇にはその後何の変りもない。雨が降ると風呂に行く。暗闇阪の街燈には今でもやもりが居るが、元のような空想はもう起らぬ、小さな細長い黒影は平和な灯影に眠っているように思われるのである。
(明治四十年十月『ホトトギス』)
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