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鑢屑(やすりくず)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-4 6:34:12 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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一 ある忙しい男の話である。 朝は暗いうちに家を出て、夜は日が暮れてしまってから帰って来る。それで自分の たまたま祭日などに昼間宅に居ることがある。そうして便所へはいろうとする時に、そこの開き戸を明ける前に、柱に取付けてある便所の電燈のスウィッチをひねる。 それが冬だと何事もないが、夏だと白日の下に電燈の 習慣が行為の目的を忘れさせるという事の一例になる。 二 雨上がりに 植物の発育は過去と現在の環境で決定される。しかし未来に対する考慮は何の影響ももたない。もしそれがあるのだったら、今にも人の下駄の歯に踏みにじられるようなこんな道路の上に、このような美しい緑の芽を出すはずはない。 三 ○○町の停留場に新聞売りの子供が立っていた。学校帽をかぶって、汚れた袖無しを着ていたが、はいている靴を見ると、それはなかなか立派なものだった。 四 馬が日射病にかかって倒れる、それを無理に引ずり起して頭と腹と この場合において 馬と人間と一つにはならないという人があるだろう。 そんな理窟がどこから出て来るかを聞きたい。 五 日本中の大工業家が寄り合って飯を食ったり相談をする建物がある。その建物の正面の屋根の上に一組の彫像のようなものが立っている。中央に何かしら これはたぶん商工業の繁昌を象徴する、例えば西洋の 六 田舎道の道端に、牛が一匹つながれていた。そこへ十歳前後くらいの女の児が二、三人つれだって通りかかった。都会の小学校へ通っての帰途らしい。突然女の児の一人が「牛は、わりに横眼がうまいわねえ」と云った。 近頃次第に露骨になりつつある都会のある階級の女のコケトリーについて、人から色々の話を聞かされていた私は、この無心の子供のこの非凡な 七 知名の人の葬式に出た。 荘厳な祭式の後に、色々な いったい弔詞というものは、あれは誰にアドレッスされたものだろう。死んだ人を目当てにしたものか、遺族ないしは会葬者に対して読まれるものだろうか、それとも死者に呼びかける形式で会葬者に話しかけるものだろうか。あるいは読む人の心持だけのものであるか。 いずれにしてもあれはもう少し何とかならないものだろうか。 むしろ故人と親しかった二、三の人が、故人の色々な方面に関する略歴や逸事のようなものを、誰にも分る普通の言葉で話して、そうして故人の追憶を新たに 八 道路の真中に この瞬間に、私の頭の中には「煉瓦が砕けるだろうか、砕けないだろうか」という疑問と「砕けるだろう」という答とが、ほとんど同時に電光のように 実際われわれの感覚する生理的の時間は無限に小さな点の連続ではなくて、有限な拡がりをもった要素の連続だという事、それから、その有限な少時間内では時の前後が区別出来ないという学説は本当らしい。 このようにして生じた時間の前後の転倒は、われわれの記憶として保存されている間にその間隔を延長するのが通例であある。その結果として後日私がこの経験を人に話す場合に「煉瓦が砕けるだろうと思って見ていたら、果して砕けた」と云ってしまう恐れがある。これは無意識ではあるがやはり一種の嘘であるに相違ない。 九 ある偏屈だと人から云われている男が、飼猫に対する扱い方が悪いと云ってその夫人を離縁した。そういう噂話をして面白がって笑っている者があった。 表面に現われたそれだけの事実を聞けば、なるほどおかしく聞こえる。しかし、その男が元来どうしてそれほどまでに猫を可愛がるようになったかという過程を考えてみる、そうすると彼の周囲の人間が、少なくも彼の目から見て、彼の人間らしい暖かい心を引出す能力を欠いていたのではないかという疑いが起る。もしそうだとすると彼は淋しい人である。 こういう男にとって、その飼猫に対する こう考えると私はこの男を笑う気にはどうしてもならなくなった。 (大正十二年十月『週刊朝日』)
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