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物理学圏外の物理的現象(ぶつりがくけんがいのぶつりてきげんしょう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-4 6:13:26 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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物理学は元来自然界における物理的現象を取り扱う学問であるが、そうかと言って、あらゆる物理的現象がいつでも物理学者の研究の対象となるとは限らない。本来の意味では立派に物理的現象と見るべき現象でも、時代によって全く物理学の圏外に置かれたかのように見えることがありうるのである。 物理学というものはやはり一つの学問の体系であって、それが しかしそれほど根本的な問題はしばらくおき、もう少し具体的な問題を取ってみると、各時代において物理学上の第一線の問題とみなされ、世界じゅうの学者が競って総攻撃をするような問題があり、そうしてその問題の対象物は時代から時代へと推移して行く。この推移の経路がはたして単義的なものであるかどうかという問題が提出されうるように思われる。これは少なくもある程度までは偶然的人間的な事情に支配されることは疑いないように思われる。たとえば電子波回折の実験がX光線回折の実験の行なわれたころにすでに行なわれたというような事も、それ自身において必ずしも不可能でなかったと思われるから、もしもそうであったとしたら、その後の物理学界の動きはよほど実際とは違ったものになったのではないかと想像されるのである。 それと同様に未来の物理学進歩の経路も必ずしも単義的にただ一筋の予定の道筋を通るであろうとは考えられない。将来なされうべきある二つの画期的な発見のどちらが先に行なわれるかは偶然的な事情によって左右されうるであろう。そういうわけであるから、今から十年後の物理学界を予想する事はいかなる大家にも困難であろう。いついかなる問題が これだけの例から見ても、その当代の流行問題とはなんの関係もなくて、物理学の圏外にあるように見える事がらの研究でも、将来意外に重要な第一線の問題への最初の歩みとなり得ないとは限らない。それでそういう意味で、現在の物理学ではあまり問題にならないような物理的現象にどんなものがあるかを物色してみるのも、あながち無用のわざではないかもしれない。 そういう種類の現象で自分が多年心にかけていたものがいろいろあるが、それらの多数はいずれも事がらが偶然的偏差に支配されるために、結果が決定的再起的でないような種類に属するものである。たとえばガラス板を これらの現象を通じて言われることは、普通の古典的な理論的考察からすれば、およそ一様に均等に連続的にあるいは対称的に起こるであろうと考えらるるものが、実際には不均等に非対称的に不連続的にしかも統計的に起こるのである。このような場合を適当に処理すべき理論はもちろんのこと、その理論の構成に基礎となるべき概念すらもまだ全然発達していないのであるから、今のところでは物理学者はこれらをどうしてよいかわからない。従って問題にしようともしなければ、また見ても見ないつもりで目をつぶって通り過ぎるのが通例である。 上記のごとき現象が純粋な自然探究者にとって決して興味がなくはないのであっても、それが現在の学問の既成体系の網に引っかからない限りは、それが一般学者から閑却されるのもまた自然の成りゆきであったと思われる。ところが、最近に至って物理学の理論の基礎に著しい革命の起こった結果として、物理現象の決定性といったような基礎観念にもまた若干の改革が行なわれるようになった。その結果としておもしろいことには、われわれが従来捨てて顧みなかった上記の種類の不決定な事がらに対して、もはやいつまでもそうそう無関心ではいられなくなって来たと私には思われる。なぜかというと、上記の種類の現象の根本に横たわる形式的要素が、新物理学の基礎に存するそれらとどこか共通なものを備えているからである。 原子の構造とその性能に関してわれわれは個々のエネルギー水準の考えを導入した。しかしてそれはある方程式の固有値と称するものと連関していると考える。これは最も簡単な類型的の一例とさるる弦の振動の場合ならばその節点の数を決定するものであり、要するに連続的なものの中でただ特定なものだけの実在を決定するものである。ところでたとえば ハイゼンベルクのマトリッキスを一つのオーケストラにたとえた人があったが、たとえばガラスの割れ目のごときも、やはり一種のオーケストラが個々の場合に応じてそれぞれの曲を奏しているようなものであるかもしれない。原子の場合にわれわれは個々の原子の状態を確定する代わりに、ただその確率を知ると同様に、たとえば割れ目の場合でも精密な形を記載することはできなくても、その統計的特徴を これらは今のところはなはだしい空想であるかもしれないが、この空想には多少の物理的根拠があるとすれば、事がらがともかくも物理学的認識の根本観念に触れているだけに、少なくももっと深く追究してみる価値があるであろう。たとえその結果が消極的に終わるとしても、その考究の経路には少なからぬ獲物があるであろうと思われる。しかしそれは別問題としても、上記のごとき特殊の部類に属する現象の実験的研究からいろいろな統計的の規則正しさを発見しうるには、いかなる方法をとるべきかという事が少なくも当面の問題の一つでありはしないかと思われる。そういう実験の結果を整理するためにわれわれは種々な新しい概念と方法の導入を必要とするであろう、そういうものがだんだんに発達し整理されて行く経路は、やがて新しい理論の形成となるであろう。新物理学の考え方がいろいろな点で古典的物理学の常識に融合しないように感ずるのは、 物理学圏外の物理的現象と称すべきものは決して上記の部類に限らない。広大無辺の自然にはなお無限の問題が伏在しているのに、われわれの盲目なためにそれを問題として認め得ない結果、それが存在しないかのように 多年 また物理学者は電子や原子の問題の追究に忙しくて、到底日常眼前の現象を省みる またかつて 物理学圏外の物理現象に関する実験的研究には、多くの場合に必ずしも高価な器械や豊富な設備を要しない。従って中等学校の物理室でも、また 思うに本誌「理学界」の読者の中には、まさにそういう問題に理解と興味を持ち、また同時に必要の予備知識を持ち、しかして自分自身の研究に従事しうるだけの時間と便宜を有する人も多数にあるであろう。そういう人たちにそういう研究を勧めたいと思うのが、私のこの一編を書くに至った動機であったのである。正統的教養の楽園に安住する専門的物理学者の目から見れば、あまりに空想をたくましゅうした叙述が多かったように見えるかもしれない。 しかしこれらの空想にも、自分としては相当な物理学的実証の根拠は持っているつもりであるが、ここではこれについて詳説することのできないのを遺憾とする。ただもし、虚心に、正当な光のもとに読んでもらいさえすれば、これらの空想の中には、それらの専門家にとっても、いくらかの意義と興味のある暗示を含んでいるであろうという希望をもって、ここにこのつたない叙説の筆をおくことにする。 (昭和七年一月、理学界) 底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年9月5日第64刷発行 ※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2000年10月3日公開 2003年10月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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