一
昭和九年八月三日の朝、駒込三の三四九、甘納豆製造業渡辺忠吾氏(二七)が巣鴨警察署衛生係へ出頭し「十日ほど前から晴天の日は約二千、曇天でも約五百匹くらいの蜜蜂が甘納豆製造工場に来襲して困る」と訴え出たという記事が四日の夕刊に出ていた。 これがどの程度に稀有な現象だか自分には判断できないが、聞くのは初めてである。 今年の天候異常で七月中晴天が少なかったために、何か特殊な、蜜蜂の採蜜資料になるべき花のできが悪かったか、あるいは開花がおくれたといったような理由があるのではないかとも想像される。 近ごろ見た書物に、蜜蜂が花野の中で、つぼみと、咲いた花とを識別するのは、彼らにものの形状を弁別する能力のあるためだということが書いてあった。すなわち星形や十字形のものと、円形のものとを見分けることができるというのである。 しかし甘納豆の場合にはこの物の形が蜂を誘うたとは思われない。何か嗅覚類似の感官にでもよるのか、それとも、偶然工場に舞い込んだ一匹が思いもかけぬ甘納豆の鉱山をなめ知っておおぜいの仲間に知らせたのか、自分には判断の手掛かりがない。 それはとにかく、現代日本の新聞の社会面記事として、こういうのは珍しい科学的な特種である。たとえ半分がうそだとしてもいつもの型に入った人殺しや自殺の記事よりも比較のできないほど有益な知識の片影と貴重な暗示の衝動とを読者に与える。 この蜜蜂の話は人間社会の経済問題にも実にいろいろな痛切な問題を投げるようである。それよりも今さし当たって自分はなんとなく北米や南米における日本移民排斥問題を思い出させられる。 南半球の納豆屋さんには日本から飛んで来る蜜蜂が恐ろしいのである。
二
庭と中庭との隔ての四つ目垣がことしの夏は妙にさびしいようだと思って気がついて見ると、例年まっ黒く茂ってあの白い煙のような花を満開させるからすうりが、どうしたのかことしはちっとも見えない。これはことしの例外的な気候不順のためかとも思ってみたが、しかし、庭の奥のほうのからすうりはいつものように健康に生長している。 家人に聞いてみると、せんだって四つ目垣の朽ちたのを取り換えたとき、植木屋だか、その助手だかが無造作に根こそぎ引きむしってしまったらしい。 植物を扱う商売でありながら植物をかわいがらない植木屋もあると見える。これではまるで土方か牛殺しと同等であると言って少しばかり憤慨したのであった。 もっとも、自然を愛することを知らない自然科学者、人間をかわいがらない教育家も捜せばやはりいくらもあることはあるのである。
三
内田百間君の「掻痒記」を読んで二三日後に偶然映画「夜間飛行」を見た。これに出て来るライオネル・バリモアーの役が湿疹に悩まされていることになっていてむやみにからだじゅうをかきむしる。ジョン・バリモアー役の主人公が「おれもそんなに忠実なコンパニオンがほしい」とはなはだ深刻な皮肉を言う場面がある。 このごろ、のら猫の連れていた子猫のうちの一匹がどうしたわけか家の中へはいり込んで来て、いくら追い出しても追い出してもまたはいって来て、人を恋しがって離れようとしない。まっ黒な烏猫であるが、頭から首にかけて皮膚病のようなものが一面に広がっていてはなはだきたならしい。それのみならず暇さえあればあと足を上げては何かを振り飛ばすような動作をする。ちょっとすわったかと思うと、また歩きだしてはすぐにすわる、また歩きだす。しょっちゅう身もだえをして落ち着けないように見える。一夜、この猫が天鵞絨張りの椅子の上にすわっていたのを引きおろした跡に、何やら小さいもののうごめくのを居合わせた親類の婦人が見つけて、なおよく見ると、小さな蛆のようなものが無数に天鵞絨の毛の中にもぐり込んだりまた浮かび出したりしている。どうも椅子から出たものではなくて、猫が落としたものらしい。 長年猫を飼っているが、こんな寄生虫を見るのははじめてのことである。 自分の頭から背中から足の爪先までが急にかゆくなるように感じた。 この猫が書斎の前の縁側にすわってかゆがって身もだえをしていられると、どうにも仕事が手につかない。文字通りの意味でのシンパシーまたミットライドとはこんなのを言うのかもしれない。 三つの「かゆい話」のぶつかったのは全く偶然のコインシデンスである。しかし、それを三つ結びつけて感じるのは必ずしも偶然ではないであろう。
四
八月二十四日の晩の七時過ぎに新宿から神田両国行きの電車に乗った。おりから防空演習の予行日であったので、まだ予定の消燈時刻前であったが所によっては街路の両側に並んだ照明燈が消してあった。しかし店によってはまだいつものように点燈していたにもかかわらず、町の暗さが人を圧迫するように思われた。いつもは地上百尺の上に退却している闇の天井が今夜は地面までたれ下がっているように感ぜられた。これでは、明治時代、明治以前の町の暗さについてはもう到底思い出すこともできないわけである。 一週間も田舎へ行っていたあとで、夜の上野駅へ着いて広小路へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。 札幌から出て来た友人は、上京した第一日中は東京が異常に立派に美しく見えるという。翌日はもう「いつもの東京」になるらしい。 けんかでなしに別居している夫婦の仲のいいわけがわかるような気がする。
五
ある地下食堂で昼食を食っていると、向こう隣の食卓に腰をおろした四十男がある。麻服の上着なしで、五分刈り頭にひげのない丸顔にはおよそ屈託や気取りの影といったものがない。リットルのビールを二杯注文して第一杯はただひと息、第二杯は三口か四口に飲んでしまって、それからお皿に山盛りのチキンライスか何かをペロペロと食ってしまった、と思うともう楊枝をくわえてせわしなく出て行った。 なんだか非常にうらやましい気がした。何がうらやましいか、そのときにはよくわからなかった。たぶん、飲んでも食ってもふくれない「胃」がうらやましかったのではないかと思われる。 食うものばかりではない、見るもの聞くものまでがことごとく腹にたまって不消化を起こす自分などのような胃の弱い人間には、この男のような屈託のない顔は一生勉強してもとてもできそうもない。
六
お出額で鼻が小さくて目じりが下がって、というのは醜婦の棚おろしのように聞こえる。しかし、これは現代美人の一つの型の描写の少なくも一部分をなすものである。 おでこは心の広さを現わし、小さく格好よく引きしまった鼻はインテリジェンスとデリカシーの表象であり、下がった目じりは慈愛と温情の示現である、という場合もあるであろう。しかしまたこれと反対の場合のあることももちろんであろう。 顔の美醜は到底文字では現わせないものらしい。これを現わす解析法も幾何学もまだ発見されていない。まず現代でいちばん実用的な描写法としては世界的に知れ渡った映画スターなどのいろいろなタイプを借りて記載するのが近道であろうかと思われる。 国体や国民性の美醜にも言葉や教科書の文句では現わし難いものがある。それを学校生徒に教える唯一の道は先生自身がそのモデルでありタイプであることである。 小学校の先生になるのも容易なことではない。
七
最新の巨大な汽船の客室にはその設備に装飾にあらゆる善美を尽くしたものがあるらしい。外国の絵入り雑誌などによくそれの三色写真などがある。そういう写真をよくよく見ていると、美しいには実に美しいが、何かしら一つ肝心なものが欠けているような気がする。それが欠けているためにこの美しい部屋が自分をいっこうに引きつけないばかりか、なんとなく憂鬱に思われてしかたがない。何が欠けているかと思ってよく考えてみると、「窓」というものが一つもない。 窓のない部屋はどんなに美しくてもそれは死刑囚の独房のような気がする。こういう室に一日を過ごすのは想像しただけでも窒息しそうな気がする。これに比べたら、たとえどんなあばら家でも、大空が見え、広野が見える室のほうが少なくも自由に呼吸する事だけはできるような気がする。 汽船でも汽車でも飛行機でも、一度乗ったが最後途中でおりたくなっても自分の自由にはおりられない。この意味ではこれらは皆一種の囚獄である。しかし窓から外界が見える限り外の世界と自分との関係だけはだいたいにわかる、もしくはわかったつもりでいられる。これに反して窓のない部屋にいるときには外界と自分とのつながりはただ記憶というたよりない連鎖だけである。しかし外界は不定である。一夜寝て起きたときは、もうその室が自分を封じ込んだまま世界のいずこの果てまで行っているか、それを自分の能力で判断する手段は一つもないのである。 こんなことを考えてみてもやっぱり「心の窓」はいつでもできるだけ数をたくさんに、そうしてできるだけ広く明けておきたいものだと思う。
八
劇場などで座席を選ぶ場合に、一列の椅子のどちらか一方の端の席がいいという人がある。自分も実はその一人である。それは、出たい時にいつでも楽に出られるという便宜があるためである。しかしその便宜を実際に利用することはむしろまれで、多くの場合には、ただその自由の意識を享楽するだけである。 だれであったか忘れたが昔のギリシアの哲学者の一人は集会所のベンチの片端に席を占める癖があった。人がその理由を尋ねたら「せめて片側だけでも自由がほしい」と答えたそうである。昔も今もこうしたわがままなエゴイストの心理は同様だと見える。 しかし、一方ではまた、反対に両側に人がいないとさびしく物足りないという人もかなりあるようである。 群集を好む動物があり一方にはまた孤独を楽しむ動物があるかと思うと、また一方ではある時期には群集を選ぶが他の時期、特に営巣生殖の時期には群れを離れて自分だけの領地を占領割拠し、それを結婚の予備行為とした上で歌を歌って領域占領のプロパガンダを叫び、そうして花嫁を呼び迎える鳥類もある。 エゴイストが自由を欲するのは、やはり自分の領域を確保したいからである。そうしてそれは、少なくも学者や芸術家の場合では、やはり精神的の「巣」を営み、精神的の「子供」を生みたいという本能の命令によって自然にそうなるのではないかと思う。そうだとすれば学者や芸術家のわがままはやはり一種の自然現象であって、道徳的批判などを超越したものであるかもしれない。もしもそうだとしたら、このわがままもやはり進化論的の見地から重要な意義をもって来る。そうしてそれは人類の保存と人間社会の円滑な運転に必須な機巧の一部をなすものかもしれない。 こういうふうに考えて来ると世事の交渉を回避する学者や、義理の拘束から逃走する芸術家を営巣繁殖期に入った鳥の類だと思って、いくぶんの寛恕をもってこれに臨むということもできるかもしれない。
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