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「手首」の問題(「てくび」のもんだい)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/3 18:19:13 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、 このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く この手首の自由の問題は弦楽器のボーイングに限らずその他のいろいろな技術の場合にも起こって来るからおもしろい。 玉突きをするのにキュー ゴルフについては自分自身には少しの体験も持ち合わせないのであるが、T氏の話によるとあれのクラブの使用にもやはり自由なる手首の問題が最も大切だということになっているそうである。 いわゆるスモークボールを飛ばして打者を 中学時代に少しばかり居合い抜きのけいこをさせられたことがある。刀身の抜きさしにも手首の運動が肝要な役目を勤める。また真剣を上段から打ちおろす時にピューッと音がするようでなければならない。それにはもちろん刃がまっすぐになることも必要であるが、その上に手首が自由な状態にあることが必要条件であるように思われた。従って人を切る場合にでも同様なことが当てはまるであろうと思われる。撃剣でも こんな話を偶然ある軍人にしたら、それはおもしろいことであると言ってその時話して聞かせたところによると、乗馬のけいこをするときに、 どうも世の中の事がなんでもかでもみんな手首の問題になって来るような気がするのであった。そう言えばすりこぎでとろろをすっているのなどを見ても、どうもやはり手首の運用で巧拙が別れるような気がする。 ところが、手首にもやはり人によって異なる個性のあるものだという事実をある偶然な機会によって発見した。それは、セロの曲中に出て来る急速なアルペジオをひくのに、弦から弦と弓を手早く移動させるために手首をいろいろな角度に屈曲させる。その練習をしている際に私の先生の手首と自分の手首とでは、手首の曲がる角度の変化の範囲はほぼ同じであるが、しかしその両極端の位置、従ってその平均の位置における角度がかなり著しく違うということに気がついたのである。それで、先生には最も自然で無理のない手首の姿勢が 手首の問題についての自分の経験はまずこれだけであるが、よく考えてみると、この手首の問題を思い出させるような 科学の研究に従事するものがある研究題目を捕えてその研究に取りかかる。何かしらある見当をつけて、こうすればこうなるだろうと思って実験を始める。その場合に、もし研究者の自我がその心眼の明を曇らせるようなことがあると、とんでもない失敗をする恐れがある。そうでない結果をそうだと見誤ったり、あるいは期待した点はそのとおりであっても、それだけでなくほかにいろいろもっと重大な事実が眼前に歴然と出現していても、それには全く盲目であって、そのために意外な誤った結論に陥るという危険が往々ある。それで科学者は眼前に現われる現象に対して言わば赤子のごとき無私無我の心をもっていなければならない。止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消えるような機微の現象を発見することは不可能である。それには心に私がなく、言わば「心の手首」が自由に柔らかく弾性的であることが必要なのではないか。 だれであったかある学者が次のようなことを言っていた。「自然の研究者は自然をねじ伏せようとしてはいけない。自然をして自然のおもむく所におもむかしめるように導けばよい。そうして自然自身をして自然を研究させ、自然の神秘を物語らせればよい」そうしてわれわれは心を空虚にして、その自然の物語に耳を傾け、忠実なる記録を作ればよいのであろう。これを自分の現在の場合の言葉に翻訳すると、「研究の手首を柔らかくして、実験の弓で自然の弦線の自然の妙音を引き出せばよい」とも言われるであろう。研究者によって先天的の手首の個性の差異から来る手つきの相違はあっても、結局ほんとうの音を出せばよいのではないか。 子供を教育するのでも、同じようなことが言われる。これについては今さら言うまでもなく、すでに昔から言いふるされたことである。教育者の手首が堅くてはせっかくの上等な子供の能力の弦線も充分な自己振動を遂げることができなくて、結局 政治の事は自分にはわからない。しかし歴史を読んでみると、為政者が君国のために、 官海遊泳術というものについてその道に詳しい人の話だというのを伝聞したことがある。それによると学校を卒業して役所へはいって属僚になってもあまり一生懸命にまじめに仕事をするとかえっていけない、そうかと言ってなまけても無論いけないのだそうである。どうもはなはだふに落ちない不都合な話だと思ったのであったが、しかし翻ってこれを善意に解釈してみると、やはり役人たちがめいめい思い思いの赤誠の自我を無理押しし合ったのでは役所という有機的な機関が円滑に運転しないから困るという意味であるらしい。役所でも会社でも言わば一つのオーケストラのようなものであってみれば、そのメンバーが堅い手首でめいめい勝手にはげしい 中学時代にはよく「おれは何々主義だ」と言って力こぶを入れることがはやった。かぼちゃを食わぬ主義や、いがくり頭で通す主義や、無帽主義などというのは 三つの音が協和して一つの バイオリンの音を出すのでも、弓と弦との摩擦という、言わば一つの争闘過程によって弦の振動が誘発されるとも考えられる。しかしそれは結局は弦の美しい音を出すための争闘過程であって、決して 欧州大戦前におけるカイゼル・ウィルヘルムのドイツ帝国も対外方針の手首が少し堅すぎたように見受けられる。その結果が世界をあのような戦乱の 近ごろスペインの舞姫テレジーナの舞踊を見た。これも手首の踊りであるように思われた。そうしてそのあまりに不自然に強調された手首のアクセントが自分には少し強すぎるような気もした。しかしこれがかえっていわゆる近代人の闘争趣味には合うのかもしれないと思われるのであった。 しかし、時代思想がどう変わってもバイオリンの音の出し方には変わりがないのは不思議である。いわゆる思想は流動しても科学的の事実は動かないからであろう。馬の ついでながら、揺れる電車やバスの中で立っているときの心得は、ひざの関節も足首の関節も柔らかく自由にして、そうして心もちかかとを浮かせて足の裏の前半に体重をもたせるという姿勢をとるのだそうである。大地震の時に倒れないように歩くのも同じ要領だということである。これも言わば足の場合における「手首の問題」とでも言われるであろうか。 (昭和七年三月、中央公論) 底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年9月5日第64刷発行 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2003年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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