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工学博士末広恭二君(こうがくはくしすえひろきょうじくん)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-2 10:17:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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昭和七年四月九日工学博士 末広君の家は旧宇和島藩の士族で、父の名は 昭和六年の秋米国各大学における講演を頼まれて出張し、加州大学、スタンフォード大学、加州及びマサチュセッツのインスチチュート・オブ・テクノロジーその他で、講義、あるいは非公式談話をした。帰路仏国へ渡ってパリでも若干の講演を試みた。三月九日帰朝早々から風邪を引き、軽い肺気腫の兆候があるというので大事を取って休養していたが、一度快くなって、四月五日の工学大会に顔を出したが、その翌日の六日の早朝から急性肺炎の症状を発して療養効なく九日の夕方に永眠した。生前の勲功によって歿後勲一等に叙し 末広君の学術方面の業績は多数にあって到底ここで詳しく紹介することは出来ないし、またそれは工学方面の事に迂遠な筆者の任でもないが、手近な主だったものだけを若干列挙してみると次のようなものがある。 平板に円孔を 末広君の研究の行き方や筋道を見ると色々な優れた特徴がある。一口に云うと昔の一般の工学者に較べて、すべてが物理学者風であったように見える。卒業後物理学科の聴講に出たり、ベルリン留学中かの地の若い学生の中に交じってブラジウス教授受持の物理実験の初歩のコースを取ったりした事実は、この特徴の由来を想像させるものである。工学部の課目中に物理実験を加えるようになったのも同君並びに同志の諸氏の考えが導因となったもののように記憶するが、この点は筆者の思い違いかもしれない。鋭い直観の力で一遍に当面の問題の心核を 末広君の独創を尊重する精神は、同君の日本及び日本人を愛する憂国の精神と結び付いて、それが同君の我国の学界に対する批判の基準となっていたように見える。「ケトーの真似ばかりするな」これが同君のモットーであった。この言葉の中には欧米学界の優越に対する正当なる認識と尊敬を含むと同時に、我国における独創的の研究の鼓吹、小成に安んぜんとする恐れのある少壮学者への警告を含んでいたのである。「どうも日本人はだめだ」と口癖のように言っていた、その言葉の裏にもやはり酌んでも尽きない憂国の至誠が溢れていたのである。米国講演の旅から帰った時新聞記者に話したという我学界への苦言にも、日本の学者が慢心するのを心配している心持が十分に酌み取られる。 同じような内省的な傾向から、自分でも人でもいわゆる「大家」になることを恐れていた。かつて筆者が不精で 末広君の大学における講義にも特徴があったそうである。分量を少なく、出来るだけ簡易平明にして、しかも主要な急所を洩れなく、また実に適切な例を使って説明するという行き方であり、また如何なる教科書とも類を異にしたオリジナルなものであったという事は同君の講義を聞いた高弟達の異口同音の証言によって明らかである。 学会などにおけるディスカッション振りにも、やはり優れた頭脳と 学生の卒業論文などについても指導甚だ懇切であった。初めにはいきなり酷く叱られて 鉄腸 若い時分キリスト教会に出入りして道を求めたが得る所がなかったと云っていた。禅に志して坐禅をやったことがあったが、そこにも求めるものは得られなかった。晩年には真宗の教義にかなり心を引かれていたそうである。 学生時代には柔道もやり、またボートの選手で、それが 運動で鍛えた身体であったが、中年の頃赤痢にかかってから 米国から講演の依頼を受けた時にも健康の点でかなり躊躇していたが、人々もすすめたので思い切って出かけたのであった。最近に出版された John R. Freeman : Earthquake Damege and Earthquake Insurance を見ると、末広君が米国に招かれるに到った由来が明らかになっている。この本の第二十二章に地震研究方針について米国学界への著者の提案が列挙してある。その冒頭に、先ず有能な学者を日本に派遣して大学地震研究所におけるあらゆる研究の模様を習得せしめよということ、次に末広所長を米国に迎えて講演させ、また米国における将来の研究方針についてその助言を求め、また末広式の地震分析器を各所に据え付けて地盤の固有振動の検出を試みよといったようなことが書いてある。巻末に貼紙として添付された刷物には、末広君の講演の梗概と著者の Some After-thoughts が述べてある。この書の著者は米国在来のやり方の不備に飽き足らず末広君の色々な考えにすっかり共鳴したからのことと考えられるのである。同君帰朝後筆者が逢った時に「反響はどうだった」と聞いたら「少しはこちらの研究も刺戟にはなっているらしいね」という答であった。 この講演の旅は末広君にはかなり愉快な旅であったらしくも思われるが、しかしやはり身体にはこたえたではないかと思われる。 墓は染井の墓地にある。戒名は真徹院釈恭篤居士である。 (以上は
終りに筆者の乞いに応じて自由にこの草稿の素材を供給して下さった御遺族の方々、並びに故人の同僚や高弟の方々に対してはここに厚く感謝の意を表したいと思う。昭和七年五月十五日) (昭和七年六月『科学』) 底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店 1997(平成9)年5月6日発行 入力:Nana ohbe 校正:浅原庸子 2005年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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