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言語と道具(げんごとどうぐ)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/2 10:15:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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人間というものが始めてこの世界に現出したのはいつ頃であったか分らないが、進化論に従えば、ともかくも猿のような動物からだんだんに変化して来たものであるらしい。しかしその進化の如何なる段階以後を人間と名づけてよいか、これも 言語といえども、ある時代に急に一時に出来上がったものとは思われない。おそらく初めはただ単純な叫び声あるいはそれの連続であったものが、だんだんに複雑になって来たものに相違ない。あるいは自然界の雑多な音響を真似てそれをもってその発音源を代表させる符号として使ったり、あるいはある動作に伴う努力の結果として自然に発する音声をもってその動作を代表させた事もあろう。いずれにしても、こういう風にしてある定まった声が「言葉」として成立したという事は、もうそこに「学」というものの芽生えが出来た事を意味する。例えば こういう事が出来るというのが、大きな不思議である。 一体これらの言葉あるいはそれに相当する抽象的な概念は自然その物に内存していて、われわれはただ自然の中からそれを掘り出しまたは拾い出しさえすれば宜いものであろうか。それともまたこのようなものを作りあげるに必要な秩序や理法が人間の方に備わっているので、われわれはただ自己の内にある理法の鏡に映る限りにおいて自己以外と称するものを認めるのであろうか。これは六かしい問題である。そして科学者にとっても深く考えてみなければならない問題である。しかしここでこの問題に立入ろうというのではない。 ともかくも言語があるという事は知識の存在を予定する。そしてそれがある程度の普遍性をもつものでなければならない。そうでなければ、人々は口々に 共通な言葉によって知識が交換され このような知識は、それだけでは云わばただ物置の中に積み上げられたような状態にある。それが少数であるうちはそれでもよい。しかし数と量が増すにつれて整理が必要になる。その整理の第一歩は「分類」である。適当に仕切られた戸棚や引出しの中に選り分けられて、必要な場合に取り出しやすいようにされる。このようにして記載的博物学の系統が芽を出し始める。 分類は精細にすればするほど多岐になって、結局分類しないと同様になるべきはずのものである。しかしこの迷理を救うものは「方則」である。皮相的には全く無関係な知識の間の隔壁が破れて二つのものが一つに包括される。かようにしてすべての戸棚や引出しの仕切りをことごとく破ってしまうのが、物理科学の究極の目的である。隔壁が除かれてももはや最初の混乱状態には帰らない。何となればそれは一つの整然たる有機的体系となるからである。 出来上がったものは結局「言語の糸で綴られた知識の 道具を使うという事が、人間以外にもあるという人がある。 そして科学の発達の歴史はある意味においてこの道具の発達の歴史である。 古い昔の天測器械や、ドルイドの石垣などは別として、本当の意味での物質科学の開け始めたのはフロレンスのアカデミーで寒暖計や晴雨計などが作られて以後と云って宜い。そして単に野生の木の実を拾うような「観測」の縄張りを破って、「実験」の広い田野をそういう道具で耕し始めてからの事である。ただの「人間の言語」だけであった昔の自然哲学は、これらの道具の掘り出した「自然自身の言語」によって内容の普遍性を増して行った。質だけを表わす言語に代って数を表わす言語の数が次第に増して行った。そうして今日の数理的な精密科学の方へ進んで来たのである。 言語と道具が人間にとって車の二つの輪のようなものであれば、科学にとってもやはりそうである。理論と実験――これが科学の言語と道具である。 (大正十二年五月『理学界』) 底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店 1997(平成9)年4月4日発行 入力:Nana ohbe 校正:浅原庸子 2005年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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