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記録狂時代(きろくきょうじだい)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/10/2 10:04:48 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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何事でも「世界第一」という名前の好きなアメリカに、レコード熱の盛んなのは当然のことであるが、一九二九年はこのレコード熱がもっとも シカゴ市のある男は七十九秒間に生玉子を四十個まるのみしてレコードを取ったが、さっそく医者のやっかいになったとある。ずっと昔、たしか南米で生玉子の競食で優勝はしたが即死した男があった。今度のレコードは食った量のほかに所要時間を測定してあるのが進歩である。時間が無制限ならば百や二百の生玉子をのむのは容易である。 ウィーンのある男は厳重なる検閲のもとにウインドボイテル(軽焼きまんじゅうの類)を六十九個平らげた。彼の敵手は決勝まぎわに腹痛を起こして惜敗したと伝えられている。 こういう種類の競技には登場者の体重や身長を考慮した上で勝敗をきめるほうが合理的であるようにも思われるが、そうしないところを見ると結局強いもの勝ちの世の中である。 食いしんぼうのレコード保有者でも少し風変わりなのは、パリのムシウ・シエールである。この人は一年間に宴会に出席すること四百回、しかも毎回欠かさずに卓上演説をしてのけたそうである。わが国でも実業家政治家の中には人と会食するのが毎日のおもなる仕事だという人があると聞いてはいるが、三百六十五日間に四百回の宴会はどうかと思われる。それにしても、この四百回の会食を遂げたという事実の真実性を証明するための審査ははなはだめんどうであったろうと想像される。 シガー一本をできるだけゆっくり時間をかけて吸うという競技で優勝の栄冠を獲たのはドイツ人何某であった。すなわち、五時間と十七分というレコードを得たのである。遺憾ながらそのシガーの大きさや重量や当日の気温湿度気圧等の記載がない。この競技は速度最小という消極的なレコードをねらうところに一種特別の興味がある。できるだけのろく燃えるという事と、燃えない、すなわち消火するという事とは本質的にちがうのである。これに対してたとえば百メートルの距離をできるだけのろく「走る」競技が成立するかどうかという問題が起こし得られる。高速度活動写真でとった、いわゆるスローモーションの競走映画で見ると同じような型式の五体の運動を、任意の緩速度で実行できるかというと、これは地球の重力gの価を減らさなければむつかしそうに思われる。できるだけのろく「歩く」競技も審査困難と思われる。しかしこのシガーの競技は可能であるのみならず、どこかに実にのんびりした超時代的の妙味があるようである。ただこの競技の審査官はいかにも御苦労千万の次第である。だれかしかるべき文学者がこの競技の光景を描いたものがあれば読んでみたいものである。 シガーの灰の最大な団塊を作ったというレコードもやはりドイツ人の手に落ちた。これは一九二九年のことであるが、ことしはヒトラーがたくさんな書物の灰をこしらえた。それでも昔のアレキサンドリア図書館の火事の灰のレコードは破れなかったであろう。 ベルギー人のメニエ君は一枚のはがきに一万七千百三十一語を書き込んでレコードを取った。これを書きあげるのに十四年かかったそうである。平均一年に千二百二十三語強、一日に三語ないし四語の割合である。面積一平方ミリに一語くらいの勘定になるようである。日本でも米粒の表面に和歌を書く人があるが、これに匹敵する程度の細字と思われる。聞くところによると、米粒へ文字を書くには、米粒を手のひらへのせて、毎日暇さえあればしみじみとながめている、するとその米粒がだんだんに大きく見えて来ておしまいには玉子のように、また盆のように大きく見えてくる、その時にまつ毛を一本抜いて、それに 器械文明が発達すれば、精密なことは器械がしてくれるから人間はだんだん無器用になってもいいかというに、そうではなくて精密な器械を使うにはやはり精密な感官を要するので、器械の発達につれて人間も発達しなければ間に合わない。 タイピストの一九二九年のレコードは一分に九十六語でこれはフランスの某タイプ嬢の所有となっている。これなども神経のはたらきの可能性に関するものである。 ロスアンゼルスのアゼリン嬢は三十六秒間に八平方メートルの面積をきれいに 八十歳の老人でできるだけ長時間ダンスを続ける、という競技の優勝者ブーキンス君は六時間と十一分というレコードを取った。もっと若い仲間でのレコード七十九時間と三十分というのはウィーンのウィリー・ガガヴチューク君の手に帰した。三昼夜と七時間半も踊りつづける間に、睡眠はもちろん不可能であるが、食事や用便はどういうふうにしたものか聞きたいものである。 これに似たのでは八十二時間ピアノをひき通したというのがある。この男の商売が これらの根気くらべのような競技は、およそ無意味なようでもあるが、しかし人間の気力体力の可能限度に関する考査上のデータにはなりうるであろう。場合によってはある一人のこういう耐久力のいかんによって一軍あるいは一国の運命が決するようなことがないとも限らない。 最も変わったレコードとしては、アメリカのコーラスガールで、 これらの例で明らかであるように、いわゆるレコードはすべて数字によって記録されるものである。場合によっては数の大きいほどいいこともありまた場合によっては少ないほどすぐれていることもあるが、とにかく一線の上に連続的に配列された数量の尺度によって優劣をきめるのである。こうしなければ優劣は単義的に決定しない。従ってレコードは設定されず、設定されないレコードは「破る」こともできない、破れないレコードはいわゆるレコードではないのである。たとえば帽子の代わりにキャベツをかぶって しかしまた、数字のレコードで優勝したとしても、その人が、その数字の代表する量の大小以外の点でもすぐれているという証拠には決してならない。これは明白なことであるが、しかし、往々忘れられ勝ちな事実である。帽子のサイズのレコード保有者は必ずしも レコードは上述のごとく、いわば一つの線状尺度の比較できめるだけのものである。それで、もしも、物や人の価値をきめる属性の数がただ一つならば、このような線の尺度が一つあれば間に合う。しかし、空間の中に静止する一点の位置を決定するだけでも三つの数字が必要である。百個の点の集団なら三百の数字が入用になる。物理的体系の「 これに反してここに紹介した各種の珍奇なレコードは、ともかくもそれぞれ一つの「自由度」に対する数量的レコードへのおぼつかない試みの第一歩として、それぞれに固有ななんらかの文化的な意味をもつものだと思われるのである。 レコードでもあまりありがたくないのがある。国辱的レコードというものもいろいろあるのである。二十余年前にワシントン府の青葉の町を遊覧自動車で乗り回したことがあった。とある 何一つレコードを持たないような円満具足の理想国はどこかにないものかと考えることもある。 (昭和八年六月、東京朝日新聞) 底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年6月13日第65刷発行 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2003年7月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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