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科学上における権威の価値と弊害(かがくじょうにおけるけんいのかちとへいがい)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-2 9:47:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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科学上における権威の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。ことに今日のごとく各方面の科学は長足の進歩を遂げてその間口の広い事、奥行の深い事、既往の比でない。なかなか風来人が門外から このような時代においてもしある科学の全般にわたって間口も広く奥行も深く該博深遠な知識をもった学者があって、それが学習者を指導し各部分の専門的研究者や応用家の相談相手になって行くとすれば実にこの上もない事である。しかしそのような権威は今後ますます少数になるだろうと思われる。そうなると止むを得ず間口の広い方の権威者と間口が狭くて奥行ばかり深い権威者か二つに一つよりしかないような場合がないとも限らない。このような云わば一元的 one dimensional な権威といえども学修者研究者にとって甚だ必要なものである事は勿論である。 今ここに夏休みに温泉に出かけようとする人がある。その人にとっては先ず全国の温泉案内書のようなものは甚だ重宝である。それで調べていよいよある温泉に行くとなると、今度はその温泉の案内に明るい人の話が聞きたくなるのである。前に述べた二種の権威者は丁度これに似たものである。前者については一つ一つの温泉の詳しい事は分らないが各温泉の特徴については明瞭な知識を与え選択の ともかくも学術上の権威者の一つの役目は丁度旅行者に対する案内者の役目である。京都見物を一定時日の間に最も有効にしようというには適当な案内者あるいはこれに代るべき案内書があると便利である。そうでないと往々重要なものを見落す 案内人として権威の価値は明らかであるが、同時に案内人の弊害もある事は割合に考える人が少ない。 通りすがりの旅人が金閣寺を見物しようとするには案内の小僧は甚だ重宝なものであるが、本当に自分の眼で充分に見物しようとするには甚だ不都合なものである。一通りの定まった かつてロンドン滞在中、某氏とハンプトンコートの離宮を拝観に行った事がある。某氏はベデカの案内記と首引で一々引き合わして説明してくれたので大いに面白かった。そのうちにある室で何番目の窓からどの方向を見ると景色がいいという事を教えたのがあった。その時自分はこんな事を云った。「これでは自分で見物するのでなくてベデカの記者に見物させられているようなものだ。」自分は同行者の温順な謙譲な人柄からその人がベデカの権威に絶対的に服従してベデカを通しての宮園のみを鑑賞する態度を感心もしまた歯がゆくも思った。しかし考えてみると、多くの自然科学の学生がその研究の対象とする自然を見るのに、あるいは教科書を通しあるいは教師の講義録を通して見るのみで、自分の眼で自分の頭で自然を観察するものが果して 学生にとっては教科書や教師のノートは立派な権威である。これらの権威を無批判的に過信する弊害は甚だ恐るべきものでなければならない。もしノートや教科書の教ゆる所をそのままに受け取り、それ以上について考える所も見る所もなかったらどうであろう。その人は単に生きた教科書であって自然科学その物については何の得る所もないのである。 自然科学の目的とする所は結局自然その物である以上は本当の事は直接自然から学ばねば分るものではない。教科書やノートは丁度案内者に過ぎない。それが間違っていない限りはまるで方角の分らぬ者には必要欠くべからざるものである。京都見物の人が土産話の種とすると同様、日常常識として結構であるかもしれぬが 案内者のいう所がすべて正しく少しの 権威というのは元来相対的なものである。小学校の生徒の科学知識に対しては中等教育を受けた者は大抵は権威となり得る資格があるはずである。大学卒業者はその専門では先ず社会一般の権威となり得るはずである。物理学者と称せらるるものなどはその修むる専門の知識においては万人の権威であるべき訳である。しからばあらゆる大学教授の学殖はすべて同一であるかというに、そういう事は不可能であるが、同じ物理学の中でもそれぞれの方面にそれぞれの権威があってこれらの人々の集団が一つの理想的な権威団を形成すると考えてよい。この権威の財団法人といったようなものの権威の程度はどのようであろう。これとても決して絶対的なものではない。 つまり各部門においては現在既知の知識の終点を究め、同時に未来の進路に対して適当の指針を与え得るものが先ず理想的の権威と称すべきものではあるまいか。 現在既知の科学的知識を少しの あらゆる方面で偉大な仕事をした人は自信の強い人である。科学者でも同様である。しかし千慮の一失は免れない。その人の仕事や学説が九十九まで 本当の科学を修めるのみならずその研究に従事しようというものの忘るべからざる事は、このような雷同心の スコラ学派時代に科学の進歩が長い間全く停滞したのは、全くこの旋毛曲りが出なかったために外ならない。レネサンスはすなわち偉大な旋毛曲りの輩出した時代である。ガリレーはその執拗な旋毛曲りのために縄目の苦しみを受けなければならなかった。ニュートンがデカルト派の形而上学的宇宙観から割り出した物理学を離れて Hypotheses non fingo という立場からあのような偉業をしたのもそうである。Huyghens, Young が微粒子説を打破したのもファラデーが action at a distance を無視したのでも、アインスタインが時と空間に関する伝習的の考えを根本から引っくり返して相対率原理の基礎を置いたのでも、いずれにしても伝習の権威に囚われない偉人の旋毛曲りに外ならないのである。 美術家は画法に囚われて自然を見なくなり、宗教家は経典に囚われて生きた人間を忘れ、学者はオーソリチーに囚われる。そして物質界を赤裸々のままで見る事を忘れる。美術家は時に原始人に立返って自然を見なければならない。宗教家は赤子の心にかえらねばならない。同時に科学者は時に無学文盲の人間に立返って考えなければならない。われわれが物理学のかなり深いところを探究しているつもりでも、時々子供や素人から受ける質問が往々にして意外に根本的な物理学の弱点にふれる事を見るのである。 エネルギー保存説の開祖ロベルト・マイヤーは、当時の物理の世界から見ればむしろ旋毛曲りの頑固な田舎親爺であったに相違無い。 (大正四年頃) 底本:「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店 1997(平成9)年4月4日発行 入力:Nana ohbe 校正:浅原庸子 2005年3月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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