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科学者と芸術家(かがくしゃとげいじゅつか)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-2 9:46:27 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して 科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか、これは自分の年来の疑問である。 夏目漱石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と しかし科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。もちろん両者の取り扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見いだそうとするのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑いもない事である。また科学者がこのような新しい事実に 世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いようである。しかし科学者には科学者以外の味わう事のできぬような美的生活がある事は事実である。たとえば古来の数学者が建設した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人間の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則はもちろん、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺激する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの また一方において芸術家は、科学者に必要なと同程度、もしくはそれ以上の観察力や分析的の頭脳をもっていなければなるまいと思う。この事はあるいは多くの芸術家自身には自覚していない事かもしれないが、事実はそうでなければなるまい。いかなる空想的夢幻的の製作でも、その基底は鋭利な観察によって複雑な事象をその要素に分析する心の作用がなければなるまい。もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。 ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の大部分は想像あるいは理想に関したものと考えるかもしれないが、この区別はあまり明白なものではない。広い意味における仮説なしには科学は成立し得ないと同様に、厳密な意味で現実を離れた想像は不可能であろう。科学者の組み立てた科学的系統は もう少し進んで科学は客観的、芸術は主観的のものであると言う人もあろう。しかしこれもそう簡単な言葉で区別のできるわけではない。万人に普遍であるという意味での客観性という事は必ずしも科学の全部には通用しない。科学が進歩するにつれてその取り扱う各種の概念はだんだんに 次に、自然科学においてはその対象とする事物の「価値」は問題とならぬが、その研究の結果や方法の学術的価値にはおのずから他に標準がある。芸術のための芸術ではその取り扱う物の価値よりその作物の芸術的価値が問題になる。そうして後者の価値という事がむつかしい問題であると同様に前者の価値という事も厳密には定め難いものである。 科学の方則や事実の表現はこれを言い表わす国語や方程式の形のいかんを問わぬ。しかし芸術は事物その物よりはこれを表現する方法にあるとも言わば言われぬ事はあるまい。しかしこれもそう簡単ではない。なるほど科学の方則を日本語で訳しても英語で現わしても、それは問題にならぬが、しかし方則自身が自然現象の一種の言い表わし方であって事実その物ではない。ただ言い表わすべき事がらが比較的簡単であるために、表わし方が多様でないばかりで必ずしもただ一つではない。芸術の表現しようとするは、写してある事物自身ではなくてそれによって表わさるべき「ある物」であろう、ただそのある物を表わすべき手段が一様でない、国語が一定しない。しかししいて言えば、一つの芸術品はある言葉で表わした一つの「事実」の表現であるとも言われぬ事はない。 しからば植物学者の描いた草木の写生図や、地理学者の描いた風景のスケッチは芸術品と言われうるかというに、それはもちろん違ったものである。なぜとならば事実の表現は必ずしも芸術ではない。絵を描く人の表わそうとする対象が違うからである。科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうとするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって草木山河はこれを表わす言葉である。しかしそのある物は作家だけの主観に存するものでなくてある程度までは他人にも普遍的に存する物でなければ、鑑賞の目的物としてのいわゆる芸術は成立せず、従ってこれの批評などという事も無意味なものとなるに相違ない。このある物をしいて言語や文学で表わそうとしても無理な事であろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものであろうと信じている。 しかしこのような問題に深入りするのはこの編の目的ではない。ただもう少し科学者と芸術家のコンジェニアルな方面を列挙してみたいと思う。 観察力が科学者芸術家に必要な事はもちろんであるが、これと同じように想像力も両者に必要なものである。世には往々科学を誤解してただ論理と解析とで固め上げたもののように考えている人もあるがこれは決してそうではない。論理と解析ではその前提においてすでに包含されている以外の何物をも得られない事は明らかである。総合という事がなければ多くの科学はおそらく一歩も進む事は困難であろう。一見なんらの関係もないような事象の間に密接な連絡を見いだし、個々別々の事実を一つの系にまとめるような仕事には想像の力に待つ事ははなはだ多い。また科学者には直感が必要である。古来第一流の科学者が大きな発見をし、すぐれた理論を立てているのは、多くは最初直感的にその結果を見透した後に、それに達する論理的の径路を組み立てたものである。純粋に解析的と考えられる数学の部門においてすら、実際の発展は偉大な数学者の直感に基づく事が多いと言われている。この直感は芸術家のいわゆるインスピレーションと類似のものであって、これに関する科学者の逸話なども少なくない。長い間考えていてどうしても解釈のつかなかった問題が、偶然の機会にほとんど電光のように一時にくまなくその究極を示顕する。その光で一度目標を認めた後には、ただそれがだれにでも認め得られるような論理的あるいは実験的の径路を開墾するまでである。もっとも中には直感的に認めた結果が それで芸術家が神来的に得た感想を表わすために使用する色彩や筆触や和声や旋律や脚色や事件は言わば芸術家の論理解析のようなものであって、科学者の直感的に得た黙示を確立するための論理的解析はある意味において科学者の もっともこのような直感的の傑作は科学者にとっては容易に期してできるものではない。それを得るまでは不断の忠実な努力が必要である。つとめて自然に接触して事実の細査に執着しなければならない。常人が見のがすような機微の現象に注意してまずその正しいスケッチを取るのが大切である。このようにして一見はなはだつまらぬような事象に没頭している間に突然大きな考えがひらめいて来る事もあるであろう。 科学者の中にはただ忠実な個々のスケッチを作るのみをもって科学者本来の務めと考え、すべての総合的思索を一概に投機的とし排斥する人もあるかもしれない。また反対に零細のスケッチを無価値として軽侮する人もあるかもしれないが、科学というものの本来の目的が知識の系統化あるいは思考の節約にあるとすれば、まずこれらのスケッチを集めこれを基として大きな製作をまとめ ある哲学者の著書の中に、小説戯曲は倫理的の 芸術家科学者はその芸術科学に対する愛着のあまりに深い結果としてしばしば互いに共有な弱点を持っている。その一つはすなわち偏狭という事である。もちろんまれには卑しい物質的の利害から起こる事もないではあるまいが、それらは別問題として、科学者芸術家に多い病は、他を ![]() 科学者と芸術家が別々の世界に働いていて、互いに (大正五年一月、科学と文芸) 底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1947(昭和22)年2月5日第1刷発行 1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行 1997(平成9)年12月15日第81刷発行 ※また、底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2000年10月3日公開 2003年10月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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