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音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」(おんがくてきえいがとしての「ラヴ・ミ・トゥナイト」)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-2 9:43:03 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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この音楽的映画の序曲は「パリのめざめ」の表題楽で始まる。まず夜明けのセーヌの川岸が現われる。人通りはなくて朝霧にぬれたベンチが横たわり、遠くにノートルダームの双生塔がぼんやり見える。眠りのまださめぬ裏町へだれか一人自転車を乗り込んで来て、舗道の上になんだか棒のようなものを投げ出す。その音で長い一夜の沈黙が破られる。この音からつるはしのようなもので 朝霧やパリは眠りのまださめず あちらこちらに窓あける音 とでもいったような趣がある。 「イズンティット・ロマンティク」の歌の連続が次のような順序に現われる。始めはモーリスが店の三枚鏡の一枚一枚に映りながらこれを歌う。この歌が街頭へ飛び出して自動車のおやじから乗客の作曲家に伝染し、この男が汽車へ乗ったおかげで同乗の兵隊に乗り移る。兵隊が行軍している途中からこの歌の魂がピーターパンの幽霊のような姿に移って横にけし飛んだと思うと、やがて流浪の民の夜営のたき火のかたわらにかなでられるヴァイオリンの弦のしらべに変わる。この音の流れて行く末にシャトーのバルコニーが現われて夢見るような姫君のやるせない歌の中にこの同じ主題が繰り返さるる。そうして最後のリフレーンで「イズンティット・ロマーン」まで歌った最後の「ティック」の代わりに、バルコンの下から忍びよるド・サヴィニャク伯爵の 公爵のシャトーの中のかび臭い陰気な モーリスがシャトーの玄関をはいってから、人けのない広間をうろつきまた駆け回る場面の伴奏も抑揚変化が割合によくできていて人を飽きさせない。 医者が姫君を診察するとき、心臓の鼓動をかたどるチンパニの音、 モーリスの出現によって陰気なシャトーの空気の中に急に一道の明るい光のさし込むのを象徴するように、「ミミーの歌」の一連の連続が 舞踊会の「アパッシュの歌」とその画面は自分にはあまりおもしろくなかった。何かが一つ足りないような気がする。どこかに無理があるであろう。 仕立て屋だということがわかってからの「ナッシンバッタテーラ」の繰り返しもわりにおもしろくできている。家扶家従、 最後の汽車と騎馬との追っ駆けは、無音映画としてはあまりに この映画は一面にはこうした音楽的な構成においていろいろな試みをしている。この点においてこの映画の創作者ルーバン・マムーリアンは一つの道楽をしてひとりで悦に入っている感がある。しかしまた一面においては常設館の常顧客であるところの大衆の期待に応ずるような手ごろの材料をかなりに盛りだくさんにあんばいすることに骨を折ったようである。たとえばド・ヴァレーズ伯爵がけしからぬ犯行の現場から下着のままで街頭に飛び出し、おりから通りかかったマラソン競走の中に紛れ込み、店先の値段札を胸におっつけて選手の番号に擬するような、 三人の このようにいろいろな味のちがったものを多数に全編の中に取り入れて、趣味のちがった多数の観客の享楽に適するようにしようとすれば、どうしても多少の無理が起こりやすい。それをこのくらいにまでまとめ上げるのはやはり凡手ではできないであろう。それにしてもクレールの「パリの屋根の下」や「自由をわれらに」のようなものに比べると、どうしても少しごたごたした感じのするのはやむを得ない。 しかしこの映画はまたまさにそういう点から見て、未来の音映画の進化の径路を暗示するものと思われる。この映画の傾向を次第に発展させて行けば結局は日本固有の (昭和七年十一月、キネマ旬報) 底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年9月5日第64刷発行 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2003年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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