映画と国民性
すべての芸術にはそれぞれの国民の国民的潜在意識がにじみ出している。映画でもこれは顕著に滲透している。アメリカ映画はヤンキー教の経典でありチューインガムやアイスクリームソーダの余味がある。ドイツ映画には数理的科学とビールのにおいがあり、フランス映画にはエスカルゴーやグルヌイーユの味が伴なう。ロシア映画のスクリーンのかなたにはいつでも茫漠たるシベリアの野の幻がつきまとっている。さて日本の映画はどうであろう。数年前の統計によるとフィルムの生産高の数字においてはわが国ははるかにフランスやドイツを凌駕しているようであるが、これらの映画の品等においてはどうであるか。たくさんの邦産映画の中には相当なものもあるかもしれないが、自分の見た範囲では遺憾ながらどうひいき目に見ても欧米の著名な映画に比肩しうるようなものはきわめてまれなようである。 ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったかはわかりかねるが、この批評はある度までは甘受しなければなるまい。なんとなればわが国の映画製作者でも批評家でも日本固有文化に関心をもって、これに立脚して製作し批評しているらしい人は少なくも自分の目にはほとんど見当たらないからである。アメリカニズムのエロ姿によだれを流し、マルキシズムの赤旗に飛びつき、スターンバーグやクレールの糟をなめているばかりでは、いつまでたっても日本らしい映画はできるはずがないのである。 剣劇の股旅ものや、幕末ものでも、全部がまだ在来の歌舞伎芝居の因習の繩にしばられたままである。われらの祖父母のありし日の世界をそのままで目の前に浮かばせるような、リアルな時代物映画は見たことがない。チャンバラの果たし合いでも安芝居の立ち回りの引き写しで、ほんとうの命のやりとりらしいものはどこにも求められない。時局あて込みの幕末ものの字幕のイデオロギーなどは実に冷や汗をかかせるものである。現代の大衆はもう少しひらけているはずであると思う。もちろん営利を主とする会社の営業方針に縛られた映画人に前衛映画のような高踏的な製作をしいるのは無理であろうが、その縛繩の許す自由の範囲内でせめてスターンバーグや、ルービッチや、ルネ・クレールの程度においてオリジナルな日本映画を作ることができないはずはない。それができないのは製作者の出発点に根本的な誤謬があるためであろう。その誤謬とは国民的民族的意識の喪失と固有文化への無関心無理解とであろう。もっとも、良い映画のできないということの半分の責任は大衆観客にあることももちろんであろうが、しかし元来芸術家というものは観賞者を教育し訓練に導きうる時にのみ始めてほんとうの芸術家である。チャップリンのごとき天才は大衆を引きつけ教育し訓練しながら、笑わせたり泣かせたりしてそうして莫大な金をもうけているのである。 和歌俳諧浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。
(付記) 紙数に制限のあるために省略した項目の中にはたとえば「字幕」の問題や、映写幕の形状の問題のごときものがある。また芸術的実写映画としての山岳映画や猛獣映画のごときものについても一通り述べたかったのであるが、これらについても他日適当な機会に、他の場所で一応の考察を試みたいと思う。 本編を草するために参考にした書物は次のようなものである。(次第不同)
V. I. Pudovkin : On Film Technique, 1930.
W. Pudowkin : Filmregie und Filmmanuskript, 1928.
B ![※(アキュートアクセント付きE小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-63.png) la B ![※(アキュートアクセント付きA小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-55.png) lazs : Der sichtbare Mensch. Eine Film-Dramaturgie (2te Aufl.)
B ![※(アキュートアクセント付きE小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-63.png) la B ![※(アキュートアクセント付きA小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-55.png) lazs : Der Geist des Films, 1930.
L ![※(アキュートアクセント付きE小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-63.png) on Moussinac : Panoramique du cin ![※(アキュートアクセント付きE小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-63.png) ma, 1929.
Bryher : Film Problems of Soviet Russia, 1929.
L. Moholy-Nagy : Malerei, Fotografie, Film.
Der russische Revolutionsfilm (Schaub ![※(ダイエレシス付きU小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-81.png) cher 2, Orell F ![※(ダイエレシス付きU小文字)](http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-09/1-09-81.png) ssli Verlag.)
Russische Filmkunst (Ernst Pollak Verlag.)
G.Herkt : Das Tonfilm-Theater.
Close Up : Vol. VI, VII.
エイゼンシュテイン、映画の弁証法(佐々木能理男訳)。
ベーロ・ボラージュ、映画美学と映画社会学(前掲「映画の精神」の邦訳、佐々木能理男訳)。
上田進訳編、映画監督学とモンタージュ論。
レオン・ムーシナック、ソヴィエト・ロシアの映画(飯島正訳)。
エリック・エリオット、映画技術と芸術(岸松雄訳)。
佐々木能理男訳編、発声映画監督と脚本論。
ヴェ・シュクロフスキイ、シナリオはいかに書くべきか(本間七郎訳)。
セルディス、トオキイと映画芸術(高原富士郎訳)。
佐々木能理男・飯島正、前衛映画芸術論。
映画科学研究、第八輯。
新撰映画脚本集、下巻。
以上ただ手に触れるに任せて一読しただけのものを並べたに過ぎない。すべてが良書だというわけではない。翻訳を読むには用心しなければいけない。映画の実例についての著者の所論や感想は「続冬彦集」に集録してあるから読んでもらいたい。姉妹芸術としての俳諧連句については昭和六年三月以後雑誌「渋柿」に連載した拙著論文【「連句雑俎」】を参照されたい。現在の論文は、これと「二枚折り」になる性質のものである。
(昭和七年八月、日本文学)
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