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生ける人形(いけるにんぎょう)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-28 12:35:16 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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四十年ほど昔の話である。郷里の つい近ごろある映画の試写会に出席したら、すぐ前の席にやはり十歳ぐらいの男の子を連れた老紳士がいた。その子供がおそらく生まれてはじめて映画というものを見たのではないかと想像されたのは、映画中なんべんとなく「はあー、いろんなことがあるんだねえ。……はあ、いろんなことがあるんだねえ」という嘆声を繰り返していたからである。実際その映画にはおとなにもおもしろい「いろんな」ことがあったのである。 見なれた人にはなんでもない物事に対する、これを始めて見た人の幼稚な感想の表現には往々人をして破顔微笑せしめるものがあるのである。 文楽の人形芝居については自分も今まで話にはいろいろ聞かされ、雑誌などでいろいろの人の研究や評論などを読んではいながら、ついつい一度もその演技を実見する機会がなかった。それが最近に不思議な因縁からある日の東京劇場におけるその演技を 入場したときは 人形そのものの形態は、すでにたびたび実物を展覧会などで見たりあるいは写真で見たりして一通りは知っていたのであるが、人形芝居の舞台装置のことについては全く何事も知らなかったので、まず何よりもその点が自分の好奇的な注意をひいた。まず 見ない前にはさだめて目ざわりになるだろうと予期していた人形使いの存在が、はじめて見たときからいっこう邪魔に感ぜられなかったのは全くこの尺度の関係からくる錯覚のおかげらしい。 酒屋の段は、こんな事を感心しているうちにすんでしまった。次には 松王丸の妻もよくできていた。 このように無生の人形に魂を吹き込む芸術が人形使いの手先にばかりあるわけではない。舞台の右端から流れだす 次の幕は「 最後に「爆弾三勇士」があったが、これも前に一見した新派俳優のよりもはるかにおもしろく見られた。人間がやっていると思うと、どうしても感じる矛盾や不自然さが、人形だと、そう感じられない。あれで、もし背景などをもう少しくふうしてあれほど写実的にしなかったら、いっそう良い効果を得られはしなかったかと思われたのであった。 こういう新しいものを人形芝居に取り入れることについては異存のある人が多いようであるが自分はそうは思わない。もっと遠慮なく取りいれてみてもいいだろうと思う。見なれないうちは少しおかしくても、それはかまわない。百年の後には「 このはじめて見た文楽の人形芝居の第一印象を、近ごろ自分が興味を感じている映画芸術の分野に反映させることによってそこに多くの問題が喚起され、またその解決のかぎを投げられるように思われる。特に発声映画劇と文楽との比較研究はいろいろのおもしろい結果を生むであろうと思われる。そうしてその結果は人形芸術家にも映画芸術家にも、いろいろの新しい可能性の暗示を授けるであろうと想像される。 たとえば、スクリーンの映像では、その空間的位置がちゃんと決定されているのに、音響のほうは、聞いただけでその音源の位置を決定する事ができない。この事がいろいろ問題になっているが、文楽でこの問題はつとに解決されている。すなわち、たとえば、酒屋の段のお もし、人間の われわれは人形が声を発しない事を知っている。しかし人形の表情の暗示によってそれが声を発してくれる事を要求している。その要求に適合しうべき声がどこかから聞こえてくるとすれば、その声はひとりでに人形に乗り移ってしまう。ところが、これが人間の役者の場合だとそうは行かない。われわれは人間が声を発しうることを知っている。のみならず、その声がどこから、どういうふうに聞こえなければならぬかを熟知し期待している。それが、ちがった見当から、ちがったふうに聞こえてくると、結果は当然幻滅であり矛盾である。これは自然なものと不自然なものとの衝突から生じる これに似たことは映画の発声漫画においてしばしば発見されるかと思う。たとえば黒い線だけで描いた漫画の犬が妙な声をだして何か歌うとする、これが本物の犬の映像だとはなはだ困るであろうが、映画の犬だとそれがきわめて自然なことであり、その歌はほんとうに線画の犬が歌っているとしか思われない。不自然と不自然が完全に調和するのである。これも これと連関して考えられることは、人形の顔の表情のことである。かつてどこかで、人形の顔は何ゆえにあんなにグロテスクでなければならぬかということに関する この抽象と強調とアクセンチュエーションは、人形の顔のみならず、その動作にも同じ程度に現われる事はもちろんである。たとえば、すすり泣く女の肩の運動でも、実際の比例よりも郭大された振幅で行なわれる。人間の役者の場合だったら、かえって 人形の顔とその動作の強調の必要は、一つにはまた観客と人形との距離からも起こってくる。これと反対の場合は映画における大写し、いわゆるクローズアップの場合である。この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ、その筋肉の微細な運動までが異常に郭大される。指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめいに強調されて見える。それだから大写しの顔や手は、決して「芝居」をしてはいけないことになっている。それをするといやみで見ていられなくなるのである。 それだのに、頭の悪い監督の作った映画では、ちょんまげのかつらをかぶって、そうして、舞台ですると同じようなグロテスクなメーキャップにいろどった顔を、遠慮なくクローズアップに映写する。そうして、舞台ですると同じような誇張された表情をさせる。これでは観客は全く過度の刺激の負担に堪えられなくなるのである。 巧妙な映画監督は、大写しのなんともない自然な一つの顔を、いわゆるモンタージュによって泣いている顔にも見せ、また笑っているようにも見せる。これはその顔が自然の顔でなんら概念的な感情を表現していないからこそ可能になるわけである。同じことは能楽の面の顔についても人形芝居の人形の顔についてもいわれる、これらの顔は泣いているともつかず怒っているともまた笑っているともつかぬ顔である。しかしまたそれだから、大いに泣き、大いに怒りまた笑った顔となりうる潜在能をもった顔である。 それで、巧妙な音楽と人形使いの技術との適当なモンタージュによって、同一の顔がたちまちにして大いに笑い、たちまちにしてまた大いに泣くのである。こういう芸術を徳川時代の民間の 生まれてはじめて見た人形芝居一夕のアドヴェンチュアのあとでのこれらの感想のくどくどしい言葉は、結局十歳の 自分が文楽を見たころにちょうどチャップリンが東京に来ていた。だれかきっとチャップリンを文楽へ案内するだろうと予期していたが、とうとう一度も見には行かなかったようである。この頭のいい映画監督は、この文楽の人形芸術のうちから、必ず何物かを拾いあげて自分の芸術に利用したのではなかったかと想像される。 もっとも、文楽をいくらかでも理解するためには、 チャップリンよりもあるいはむしろロシアのエイゼンシュテインに文楽を見せて、そうして彼の理論に立脚した文楽論を聞く事ができたらさだめておもしろいことであろうと想像される、彼はおそらく しかし、結局、文楽や 四十年前の (昭和七年六月、東京朝日新聞)
この記事が東京朝日新聞に出たのを見た 底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日第1刷発行 1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行 1997(平成9)年9月5日第64刷発行 ※作品末の一節は、随筆集「蒸発皿」(1933(昭和8)年)刊行にあたって、追記されたものです。 ※本文中の「良弁杉」は、芝居の題名としては「ろうべんすぎ」と読むのが一般的ですが、ルビは底本どおり「りょうべんすぎ」としました。 入力:(株)モモ 校正:かとうかおり 2003年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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