趙源は家の前へ出て立った。路の上はうっすらと暮れかけていた。彼はその時刻になってその前を通って往く少女を待っているところであった。緑色の服装をして髪を双鬟にした十五六になる色の白い童女で、どこの家のものとも判らないし、また、口を利き合ったというでもないが、はじめて顔を合わした時から、その潤みのある眼元や口元に心を引きつけられていた。そして、翌晩となり、翌々晩となるに従って、二人の間は非常に接近したように思われた。 その晩は四日目の晩であった。源は今晩こそ少女に言葉をかけようと思っていた。初心な彼は、その翌晩あたりから何か少女に言ってみたいと思い、またできることなら少女を自分の家の中へ連れて往って、話をしてみたいと思っていたが、その機会を捉えることができなかった。彼は天水の生れで、遊学のために銭塘に来て、この西湖葛嶺の麓に住んでいる者であった。その隣になった荒廃した地所はもと宋の丞相賈秋壑が住んでいた所である。源は両親もない妻室もない独身者の物足りなさと物悩ましさを、その少女に依って充たそうとしていた。 緑の衣裳が荒廃した地所の前に見えた。かの少女が来たのであった。少女はすぐ前へきた。少女の黒い瞳はこっちの方を見ていた。 「あなたは、よくここをお通りになるようですが、何方ですか」 源はきまりがわるかった。女の眼は笑った。 「私はすぐあなたのお隣よ、知らないでしょ」 その付近には豪家の邸宅が散在しているので、少女もその一軒に住んでいる者であろうと思ったが、他郷からきている彼にはそれが判らなかった。 「そうですか、私も近頃ここへ来たものですから、何方ですか」 「すぐお隣よ」 少女は近ぢかと寄ってきて笑った。 「では、私の所へも寄っていらっしゃい、お馴染になりましょう」 「あなたは、おひとりね」 源の手端に少女の細そりとした手が触れた。 「ひとりですよ、寄っていらっしゃい」 源は少女の手を軽く握った。少女は心持ち顔を赤くしたようであったが、振り払おうともしなかった。 「いいでしょう、ちょっと寄っていらっしゃい」 源は少女の手を引いた。少女は逆らわずに寄ってきた。 源は少女をいたわるようにして家の中へ入って往った。狭い家の中には、出る時に点けた燈が燃えていた。源は少女を自分の傍へ坐らせた。 「何人も遠慮する者がありませんから、自由にしていらっしゃい」 少女は始終笑顔をして源を見ていた。 「あなたは、お隣の方だと言いましたね、何方です」 「今に判りますよ」 「さあ、どこだろう」 源はわざと仰山に言って考えるような容をして見せた。 「あなたは、夕方になると、いつもこの前を通っているようですが、どちらか往く所がありますか」 「別に往く所はありませんが、夕方がくると、淋しいから、歩いてるのよ」 「では、今晩は、二人でゆっくり話そうじゃありませんか」 少女はその晩、源のもとに一泊して朝になって帰って往ったが、それをはじめに夜になるときっと来て泊って往った。源は女が名も住所も言わないので、それを聞きたかった。 「あなたは所も言わなければ、名も言わないが、何という名です」 ある晩、源がそう言って訊くと、少女は、 「さあ、何という名でしょう」 と言って笑ったが、やはり名は言わなかった。 「いいでしょう、こうした関係になってるじゃないか、名を言ったっていいでしょう」 「そのうちには、あなたが厭だと思っても、わかる時がありますよ、わざわざ訊かないたっていいでしょう」 「しかし、名ぐらいは訊きたいじゃないか、聞かしてくれてもいいでしょう」 「若い奥様ができたと思ってくださりゃいいじゃないの、それでも、しいて名が聞きたいなら、私はいつも、この緑の衣を着ているでしょう[#「いるでしょう」は底本では「いでしょう」]」 と、片手を胸にやって、その辺をちょっと撫でて見せながら、 「緑衣人とでも言ってくださいよ」 こう言って少女は面白そうに笑った。源もつり込まれて大声に笑った。 「では、緑衣人としておこう、名は、まあ、それでいいとして、所を聞きたいね」 「所なんかいいじゃありませんか、今にすぐわかりますよ、眼と鼻の間にいる者ですから」 源はふとこの女は付近の豪家に仕えている侍女でないかと思った。そう思うと双鬟に結うた髪にそれらしい面影があった。
源はある晩酒を飲んでいた。そこへ少女が入ってきた。源は少女の衣服に指をさした。 「緑の衣あり、緑の衣に黄の裳せり」 と詩経の句を歌うように言ってから、 「これはあなたのことさ」 源は面白そうに笑った。少女は顔を赧くして俯向いてしまった。詩経の句は婢妾のことを歌ったものであった。源は少女の気に障ったと思ったので、すぐ他のことに話を移してしまった。
少女はその翌晩から源の許へ姿を見せなかった。そして五六日して来た。 「何故あなたはこなかったのです、どんなにあなたを待ったか知れませんよ」 少女を待ち兼ねて懊悩していた源は、少女の顔を見るなり恨めしそうに言った。 「でも、あなたは、この間あんなことをおっしゃったじゃありませんか、私はあなたと偕老を思ってるのに、あなたは、私を、妾のように思っていらっしゃるじゃありませんか」 「いや、あれは、あなたが緑の衣を着ているから、その緑から連想して、あんな冗談を言ったばかしで、決してそんな心で言ったではなかったのです」 「そういうことならよろしゅうございますけども、私はあなたをお恨みしましたよ、しかし、それで、あなたも、私の素性をお知りになったでしょう」 「いや、私には判らない」 「もう時期がきましたから、何もかも申しますが、私とあなたとは、もと識りあっておりました、はじめて識りあったのではありません」 「そんなことがあるだろうか、私には判らないが」 源はどこで知っている女であろうかと考えたが、すぐは思い出せなかった。少女は痛痛しい顔を見せた。 「どうか驚かないで聞いてください、私はほんとうは、この世の者ではありません」 源は少女の顔を見詰めた。 「でも、決して禍をする者ではありません、あなたと私とは、夙縁があります」 源は夙縁とはどんなことであろうかと思った。 「それを聞かしてください」 「私は宋の賈秋壑の侍女でございます、もと臨安の良家に生れた者でございますが、少さい時から囲碁が上手で、十五の春、棊童ということで、秋壑の邸に召し出されて、秋壑が朝廷からさがって、半閑堂で休息する折に、囲碁の相手になって、愛せられておりました、その時、あなたは、蒼頭職主で、いつもお茶を持って奥へまいりましたが、あなたはお若くて美しい方でした、そのあなたを私が想うようになりました、ある晩、暗い所で、あなたをお待ちしていて、綉羅の銭篋を差しあげますと、あなたは私に、瑁の脂盒をくださいました、二人の間は、そうした許し合った仲になりましたが、奥と表の隔てがあって、まだしみじみとお話もしないうちに、朋輩に知られて、秋壑に讒言せられましたから、私とあなたは、西湖の断橋の下へ沈められました、それでも、あなたは、もう再生して人間になっておりますが、私はまだこうしております」 少女は絶え入るように泣いた。源は少女を抱きかかえた。 「あなたの言うことがほんとうなら、それこそ再生の縁だ、これからいっしょにおって、昔の想を遂げましょう」
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