二
源吉は一心になってお諏訪様を呼んでいたが、四辺が妙にしんとなって淋しくなったので、ひょいと後を揮り返って見た。小供達はもう何人もいなくなっているので起ちあがった。 「源吉、其処におったか、俺はまあ何処へ往ったかと思いよった」 それは軽い喜びの声であった。翁の面のような顔をした痩せた襦袢に股引穿の老人が其処に立っていた。それは祖父の為作であった。 「お祖父さん」 「今まで一人で、こんな処で何をしておった、お飯が出来たから喫わそうと思うて尋めよった、お母も手伝いに往っておっても、お前のことばかり心配しよる、早う帰んでお飯にしよう」 「お祖父さん、お諏訪様は、小供が好きなの」 「お諏訪様が小供が好きかと云うか、好きとも好きとも、べっしてお前のような小供はお好きじゃとも」 「お諏訪様は、白い蛇になって出て来るの」 「それは俺にゃ判らんが、神信心する者には、お姿を拝ましてくだされるとも」 「お諏訪様は、白い蛇になって、小供といっしょに遊ぶって云ったよ」 「そんなことを何人が云うた」 「先刻、此処で遊んでた小供が云ったよ」 「そうか、そうかも判らん、良え子には、そうしてお姿を拝ましてくだされるかも判らん、さあ、帰のう」 「あい」 源吉が歩きだしたので為作もそのまま踉いて歩いた。為作は孫が可愛くてしかたがなかった。為作の悴も大工であったが、藩の江戸屋敷の改築のときに江戸へ出た悴は、江戸で腕を磨くことにして、改築が終っても帰らずにそのままずっと江戸にいるうちに、吉原で深くなった女と世帯を持ち、続いて小供も出来たと云うので、江戸へ孫を見に往こう往こうと思っていたところで、昨年の暮になって風邪が元で亡くなり、その新らしい霊牌を持って、未見の嫁と孫がまだ深かった北国の雪を踏んで尋ねて来た。数年前に老妻を失っても悴があるので何とも思わなかった為作は、非常に力を落したものの、やがて嫁と孫の気もちが判って来ると、それに慰められるようになっていた。 「お祖父さん、お諏訪様は、どうしたら、出て来てくれるの」 二人は草原を出て麦畑の間を歩いていた。 「毎日、拝みに往って、頼んでおるなら出て来てくださるとも」 「そう」 為作の家は麦畑の間を芦垣で仕切った小家であったが、それでも掘立小屋と違って、床の高い雨戸もきちんと締るようになった家であった。為作は源吉を囲炉裏の傍へ坐らして、自在鉤にかけてある鍋の中から夕飯を盛って喫わした。為作は徳利の酒を注いで飲みだした。囲炉裏の火はちらちらと燃えて、為作の翁の面のような顔を浮きあがらした。 「さあ、うんと喫わんといかんぞ、うんと喫って大きくなってくれ、お前は何になる」 「あたいは侍になるのだ」 「ほう、侍になるのか、侍になって扶持を頂戴するなら、こんな旨いことはないが、侍はまかり間ちがえば、腹を切らにゃいかんが、腹が切れるか」 「切れるよ、腹なら」 「そうか、そいつは豪い、人は心がけ一つじゃ、侍でも、学者でも、お坊さんでも、神主でも、やろうと思や何でもできる、神主と云えば、牧野の旦那は豪い神主じゃ、お前のお母は慧で、気が注くから、牧野さんで眼をかけてくだされる」 「おっ母は何時戻る」 「もう、おっつけ戻るぞ、夕飯を牧野の旦那が召しあがったら、戻って来る、牧野の旦那は豪い方じゃ、お前に云うても判らんがの」 源吉が箸を置いたところで人の跫音がして入って来た者があった。 「今晩は」 「今晩は」 為作は盃を持ったなりに月の射した縁側の方を見た。四十位の男と三十位の男の顔があった。 「秀と金次か、何か用か」 為作の詞にはあいそがない。秀と云う四十男はきまり悪そうな笑い方をした。 「べつに、そう用もないが、話しに来た」 「そうか、明日の家業にさしつかえなけりゃ、話していけ」 二人はちょっと顔を見合して何か云いあいながら腰をかけたが、今度は金次と云う三十男が云った。 「小父さん、仕事はどうぜよ」 「仕事か、飯が喫えんから、あるならするが、この年になっちゃ下廻りの仕事しかできん」 「俺の家にも、納屋を建てたいと云うて、せんから云いよるが」 「銭が出来たら建てるもよかろ、大工なら、善八でも喜六でも、腕節の達者な大工が何人でもある」 「小父さんはできんかよ」 「できんことはあるまいが、年が年じゃ、何時死ぬるやら判らん、受けあいはできんよ」 為作の詞は何処までもぶっきらぼうであいそがない。金次は笑うより他にしかたがなかった。 「姐さんは、まだ戻らんかよ、源吉が独りのようじゃが」 秀がそれとなしに云った。 「戻りとうても戻れんじゃろう、遊びに往ちょるじゃないから」 「そうじゃ、のうし」 秀も後へ続ける詞がなかった。二人は手持ぶさたになったので帰って往った。為作は舌打ちした。 「野良犬どもの対手に、飼っている嫁じゃないぞ、何をうろうろしに来る」 源吉は腹這いになっていた。 「もうお母も戻って来る、もうすこし起きておるがええ」 為作は飯にしていた。と、女の叫び声が聞えて来た。為作は箸をぴたり止めた。 「はてな」と、云って耳を傾けた為作の耳へまた女の叫び声が聞えて来た。「ありゃあ、嫁の声じゃ、畜生、源吉は家におれ、外へ出ちゃいかんぞ」 為作はそう云い云い起ちあがるなり土間へおりて、壁へ立てかけてあった枴を持って戸外へ出た。源吉はびっくりして起きあがり室の中をうろうろ歩いた。
三
お勝は月の下で背の高い一本の短い刀を差した暴漢に帯の端を掴まれていた。お勝は牧野の家を出て帰りかけたところで、月が明るいので近路をして草原の中を通って来ると、其処の松の陰にその暴漢が待っていた。 小格子ではあるがお職も張って、男あつかいに慣れている彼女は、燃えあがっている対手の心を撫でつけるようにして、隙を見て逃げようとしたところで、対手は野獣の本性をあらわして、帯の端を掴んで引もどそうとしたのであった。 お勝は絶体絶命であった。引戻されて対手の一方の手が肩にかかれば体の自由を奪われなくてはならなかった。お勝は引戻されまいとして夢中になって争った。その機に帯の結び目が解けた。黒繻子の帯の一方は暴漢の手に掴まれたなりに、痩せぎすなすっきりしたお勝の体はくるくると月の下に廻った。お勝の体はみるみる暴漢と二三尺離れたが機を喫って膝を突いた。お勝は襲いかかってくる暴漢を払いのけるように、隻手をその方にやって一方の手で起きようとした。面長な色の白いお勝の顔が艶かしかった。暴漢は帯を捨てて迫って来た。 「なにをさらす、この無法者」 物凄い怒り立つ声がして暴漢の前に枴が閃いた。暴漢は立ち縮んだ。 「きさまは、地下浪人じゃな、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ」 背の高い短い刀を差した暴漢は、手習師匠をやっている林田与右衛門と云う浪人であった。林田はぎょろりとした眼で対手を見た。何時も見なれている翁の面の為作の顔があった。 「その女子には、俺が話したいことがある、邪魔をすると只ではおかんぞ」 「それは此方から云うことじゃ、この女子は俺の家の嫁じゃ、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ、この無法者」 為作の手にした枴はまた閃いた。林田はちょと身をかわすなり、その手元につけ入って枴を奪いとってふりかぶった。その林田の眼の前にその時、不意に恐ろしいものが閃いた。それは薙刀を二つ組みあわせたような紫色を帯びた大蟹の鋏であった。林田は驚いて枴を投げ捨てて後へ退った。大蟹の鋏は其処にもあった。 「わッ」 林田は眼を押えて逃げて往った。為作とお勝は暴漢が逃げてくれたので安心して帰って来た。 「彼の無法者の逃げた容がおかしいじゃないか」 「眼を押えて逃げたのですが、どうかしたのでしょうか」 「枴の端でもあたったろうよ」 「そうでしょうか」 「そうとも、罰じゃよ」
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