ボオドレエルに就いて
「ボオドレエルに就いて二三枚書く。」 と、こともなげに人々に告げて歩いた。それは、私にとって、ボオドレエルに向っての言葉なき、死ぬるまでの執拗な抵抗のつもりであった。かかる終局の告白を口の端に出しては、もはや、私、かれに就いてなんの書くことがあろう。私の文学生活の始めから、おそらくはまた終りまで、ボオドレエルにだけ、ただ、かれにだけ、聞えよがしの独白をしていたのではないのか。 「いま、日本に、二十七八歳のボオドレエルが生きていたら。」 私をして生き残させて居るただ一つの言葉である。 なお、深く知らむと欲せば、読者、まず、私の作品の全部を読まなければいけない。再び絶対の沈黙をまもる。逃げない。
ブルジョア芸術に於ける運命
百姓、職工の芸術。私はそれを見たことがない。シャルル・ルイ・フィリップ。彼が私を震駭させただけである。私は、否、人々は、あらゆるクラスの芸術を、ふくめて、芸術と言っているようである。つぎの言葉が、成り立つ。「それを創る芸術家に、金が、あればあるほど、佳い。さもなくば商才、人に倍してすぐれ、(恥ずべきことに非ず。)画料、稿料、ひとより図抜けて高く売りつけ、豊潤なる精進をこそすべき也。これ、しかしながら、天賦の長者のそれに比し、かならず、第二流なり。」
定理
苦しみ多ければ、それだけ、報いられるところ少し。
わが終生の祈願
天にもとどろきわたるほどの、明朗きわまりなき出世美談を、一篇だけ書くこと。
わが友
ひとこと口走ったが最後、この世の中から、完全に、葬り去られる。そんな胸の奥の奥にしまっている秘密を、君は、三つか四つ――筈である。
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥
「日本浪曼派」十一月号所載、北村謙次郎の創作、「終日。」絶対の沈黙。うごかぬ庭石。あかあかと日はつれなくも秋の風。あは、ひとり行く。以上の私の言葉にからまる、或る一すじの想念に心うごかされたる者、かならず、「終日。」を読むべし。私、かれの本の出版を待つこと、切。
フィリップの骨格に就いて
淀野隆三、かれの訳したる、フィリップ短篇集、「小さき町にて。」一冊を送ってくれた。私、先月、小説集は誰のものでも一切、読みたくなかった。田中寛二の、Man and Apes. 真宗在家勤行集。馬鹿と面罵するより他に仕様のなかった男、エリオットの、文学論集をわざと骨折って読み、伊東静雄の詩集、「わがひとに与ふる哀歌。」を保田与重郎が送ってくれ、わがひととは、私のことだときめて再読、そのほか、ダヴィンチ、ミケランジェロの評伝、おのおの一冊、ミケランジェロは再読、生田長江のエッセイ集。以上が先月のまとまった読書の全部である。ほかに、純文芸冊子を十冊ほど読んだ。今月、そろそろ、牧水全集のうちの、紀行文を読みはじめていた。フィリップの「小さき町にて。」を恵与されたのは、そのころのことであった。読んでみようと思った。読了して、さらに再読しようと思った。淀野隆三の文章は、たしかに綺麗で、おっとりした気品さえ出ている。 フィリップ。これは、断じて、可愛げのある作家では無い。私、フランスのむかしの小説家の中で、畏敬しているもの、メリメ。それから、辛じて、フィリップ。その余は、名はなくもがなと思っている。淀野隆三、自らきびしく、いましめるところあってか、この本のあとにもさきにも、原作者フィリップに就いて、ほとんど語っていない。では私、駄馬ののっそり勇気、かれのまことの人となりを語らむ乎。以下、私の述べることは、かれの骨格について也。かならず、かれの小説と、混同すべからず、かれのあの、きめこまやかなる文章と。 シャルル・ルイ・フィリップの友に語った言葉のはしはし。かれ二十五歳。「昨日、僕はけだものの如くに泣いた。」「僕たちお互いが大作家になれるかどうか、それは、わからないけれども、少くとも、僕、これだけは断言できる。僕らは、将に生れんとする新しい時代に属しているということを。キリストの誕生に先だち、キリストの出現を言い当てた予言者。」「これは小さい声でいうことだが、僕は、ミケランジェロと老ダンテを思うと、からだがふるえる。それから、ニイチェ。」「僕は、ドストエフスキイの、白痴を読んだ。これこそ、野蛮人の作品というものだ。僕も書く。」かれは、ビュビュ・ド・モンパルナスを書きあげた。「君のビュビュに就いての記事、僕はずいぶんうれしかった。けれども君は、僕の強さを忘れて居る。僕は執拗な抵抗力と、勇気とを持っている。僕たちの仲で、おそらくは、いちばん強い男だ。友人たちも、みんなそういう。僕には、猛烈な意志さえあるのだよ。」「僕、ドストエフスキイよりはニイチェに近いかも知れん。」「僕は、二十八歳にして、すでに僕の半面を切った。もう半面のあることを忘れるな。僕がいま、はっきりさせた半面は、僕の意欲したところのもの。僕みずから動かした僕の発条。これこそ勇気であり、力であると御記憶ありたい。」「なんのことはない、僕は市井の正義派であった。」白面の文学青年、アンドレ・ジッドに与う。「早く男らしくなってくれ。立場をどっちかに、はっきりと、きめてくれ。」 アンドレ・ジッドは演説した。「淑女、ならびに、紳士諸君。シャルル・ルイ・フィリップは、絶倫の力と、未来とを約束しながら、昨年十二月、三十四歳で、この世に、いなくなったのです。」 かれこそ、厳粛なる半面の大文豪。世をのがれ、ひっそり暮した風流隠士のたぐいではなかった。三十四歳で死したるかれには、大作家五十歳六十歳のあの傍若無人のマンネリズムの堆積が、無かったので、人は、かれの、ユーゴー、バルザックにも劣らぬ巨匠たる貫禄を見失い、或る勇猛果敢の日本の男は、かれをカナリヤとさえ呼んでいた。 淀野隆三訳、「小さき町にて。」の出版を、よろこぶの心のあまり、ひどく、不要の出しゃばりをしたようである。許したまえ。悪い心で、したことではなかったのだから。許さぬと言われるなら、それに就いて、他日また、はっきり申しひらきいたします。
或るひとりの男の精進について
「私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。」
生きて行く力
いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。
わが唯一のおののき
考えてみると、私たちはこうして文章が書けることだけでも、まだしも仕合せであった。まかり間違って――
マンネリズム
私は、叡智のむなしさに就いて語った。言いかえれば、作家が、このような感想を書きつづることのナンセンスに触れた。「もの思う葦。」と言い、「碧眼托鉢。」と言うも、これは、遁走の一方便にすぎないのであって、作家たる男が、毎月、毎月、このような断片の言葉を吐き、吐きためているというのは、ほめるべきことでない。
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