二十九日。 十字架のキリスト、天を仰いでいなかった。たしかに。地に満つ人の子のむれを、うらめしそうに、見おろしていた。
手の札、からりと投げ捨てて、笑えよ。
三十日。 雨の降る日は、天気が悪い。
三十一日。 (壁に。)ナポレオンの欲していたものは、全世界ではなかった。タンポポ一輪の信頼を欲していただけであった。
(壁に。)金魚も、ただ飼い放ち在るだけでは、月余の命、保たず。
(壁に。)われより後に来るもの、わが死を、最大限に利用して下さい。
一日。 実朝をわすれず。
伊豆の海の白く立つ浪がしら 塩の花ちる。 うごくすすき。
蜜柑畑。
二日。 誰も来ない。たより寄こせよ。
疑心暗鬼。身も骨も、けずられ、むしられる思いでございます。
チサの葉いちまいの手土産で、いいのに。
三日。 不言実行とは、暴力のことだ。手綱のことだ。鞭のことだ。
いい薬になりました。
四日。 「梨花一枝。」 改造十一月号所載、佐藤春夫作「芥川賞」を読み、だらしない作品と存じました。それ故に、また、類なく立派であると思った。真の愛情は、めくらの姿である。狂乱であり、憤怒である。更に、(断)
寝間の窓から、羅馬の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙を思うよ。 一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「なんじを訴うる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐くは、訴うる者なんじを審判人にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんじは獄に入れられん。 誠に、なんじに告ぐ、一厘も残りなく償わずば、其処をいずること能わじ。」(マタイ五の二十五、六。)
晩秋騒夜、われ完璧の敗北を自覚した。
一銭を笑い、一銭に殴られたにすぎぬ。
私の瞳は、汚れてなかった。
享楽のための注射、一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術先生を避けたにすぎぬ。「水の火よりも勁きを知れ。キリストの嫋々の威厳をこそ学べ。」
他は、なし。
天機は、もらすべからず。
(四日、亡父命日。)
五日。 逢うことの、いま、いつとせ、早かりせば、など。
六日。 「人の世のくらし。」 女学校かな? テニスコート。ポプラ。夕陽。サンタ・マリヤ。(ハアモニカ。) 「つかれた?」 「ああ。」 これが人の世のくらし。まちがいなし。
七日。 言わんか、「死屍に鞭打つ。」言わんか、「窮鳥を圧殺す。」
八日。 かりそめの、人のなさけの身にしみて、まなこ、うるむも、老いのはじめや。
九日。 窓外、庭の黒土をばさばさ這いずりまわっている醜き秋の蝶を見る。並はずれて、たくましきが故に、死なず在りぬる。はかなき態には非ず。
十日。 私が悪いのです。私こそ、すみません、を言えぬ男。私のアクが、そのまま素直に私へ又はねかえって来ただけのことです。 よき師よ。 よき兄よ。 よき友よ。 よき兄嫁よ。 姉よ。 妻よ。 医師よ。
亡父も照覧。
「うちへかえりたいのです。」
柿一本の、生れ在所や、さだ九郎。
笑われて、笑われて、つよくなる。
十一日。 無才、醜貌の確然たる自覚こそ、むっと図太い男を創る。たまもの也。(家兄ひとり、面会、対談一時間。)
十二日。 試案下書。 一、昭和十一年十月十三日より、ひとつき間、東京市板橋区M脳病院に在院。パヴィナアル中毒全治。以後は、 一、十一年十一月より十二年(二十九歳)六月末までサナトリアム生活。(病院撰定は、S先生、K様、一任。) 一、十二年七月より十三年(三十歳)十月末まで、東京より四、五時間以上かかって行き得る(来客すくなかるべき)保養地に、二十円内外の家借りて静養。(K氏、ちくらの別荘貸して下さる由、借りて住みたく思いましたが、けれども、この場所撰定も、皆様一任。) 右の如く満一箇年、きびしき摂生、左肺全快、大丈夫と、しんから自信つきしのち、東京近郊に定住。(やはり創作。厳酷の精進。) なお、静養中の仕事は、読書と、原稿一日せいぜい二枚、限度。
一、「朝の歌留多。」
(昭和いろは歌留多。「日本イソップ集」の様な小説。)
一、「猶太の王。」
(キリスト伝。) 右の二作、プランまとまっていますから、ゆっくり書いてゆくつもりです。他の雑文は、たいてい断るつもりです。 その他、来春、長編小説三部曲、「虚構の彷徨。」S氏の序文、I氏の装幀にて、出版。(試案は、所詮、笹の葉の霜。)
この日、午後一時半、退院。
汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。天にいます汝らの父の子とならん為なり。天の父はその陽を悪しき者のうえにも、善き者のうえにも昇らせ、雨を正しき者にも、正しからぬ者にも降らせ給うなり。なんじら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。然らば汝らの天の父の全きが如く、汝らもまた、全かれ。
●表記について
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