――山よりほかに、…… なぞという大時代的なばかな感慨にふけって、かすかに涙ぐんだりなんかして、ひどく、だらしない。しばらく、口あいて八が岳を見上げていて、そのうちに笠井さんも、どうやら自身のだらけ加減に気がついた様子で、独りで、くるしく笑い出した。がりがり後頭部を掻きながら、なんたることだ、日頃の重苦しさを、一挙に雲散霧消させたくて、何か悪事を、死ぬほど強烈なロマンチシズムを、と喘えぎつつ、あこがれ求めて旅に出た。山を見に来たのでは、あるまい。ばかばかしい。とんだロマンスだ。 がやがや、うしろの青年少女の一団が、立ち上って下車の仕度をはじめ、富士見駅で降りてしまった。笠井さんは、少し、ほっとした。やはり、なんだか、気取っていたのである。笠井さんは、そんなに有名な作家では無いけれども、それでも、誰か見ている、どこかで見ている。そんな気がして群集の間にはいったときには、煙草の吸いかたからして、少し違うようである。とりわけ、多少でも小説に関心持っているらしい人たちが、笠井さんの傍にいるときなどは、誰も、笠井さんなんかに注意しているわけはないのに、それでも、まるで凝固して、首をねじ曲げるのさえ、やっとである。以前は、もっと、ひどかった。あまりの気取りに、窒息、眩暈をさえ生じたという。むしろ気の毒な悪業である。もともと笠井さんは、たいへんおどおどした、気の弱い男なのである。精神薄弱症、という病気なのかも知れない。うしろのアンドレア・デル・サルトたちが降りてしまったので、笠井さんも、やれやれと肩の荷を下ろしたよう、下駄を脱いで、両脚をぐいとのばし、前の客席に足を載せかけ、ふところから一巻の書物を取り出した。笠井さんは、これは奇妙なことであるが、文士のくせに、めったに文学書を読まない。まえは、そうでもなかったようであるが、この二、三年の不勉強に就いては、許しがたいものがある。落語全集なぞを読んでいる。妻の婦人雑誌なぞを、こっそり読んでいる。いま、ふところから取り出した書物は、ラ・ロシフコオの金言集である。まず、いいほうである。流石に、笠井さんも、旅行中だけは、落語をつつしみ、少し高級な書物を持って歩く様子である。女学生が、読めもしないフランス語の詩集を持って歩いているのと、ずいぶん似ている。あわれな、おていさいである。パラパラ、頁をめくっていって、ふと、「汝もし己が心裡に安静を得る能わずば、他処に之を求むるは徒労のみ。」というれいの一句を見つけて、いやな気がした。悪い辻占のように思われた。こんどの旅行は、これは、失敗かも知れぬ。 列車が上諏訪に近づいたころには、すっかり暗くなっていて、やがて南側に、湖が、――むかしの鏡のように白々と冷くひろがり、たったいま結氷から解けたみたいで、鈍く光って肌寒く、岸のすすきの叢も枯れたままに黒く立って動かず、荒涼悲惨の風景であった。諏訪湖である。去年の秋に来たときは、も少し明るい印象を受けたのに、信州は、春は駄目なのかしら、と不安であった。下諏訪。とぼとぼ下車した。駅の改札口を出て、懐手して、町のほうへ歩いた。駅のまえに宿の番頭が七、八人並んで立っているのだが、ひとりとして笠井さんを呼びとめようとしないのだ。無理もないのである。帽子もかぶらず、普段着の木綿の着物で、それに、下駄も、ちびている。お荷物、一つ無い。一夜泊って、大散財しようと、ひそかに決意している旅客のようには、とても見えまい。土地の人間のように見えるのだろう。笠井さんは、流石に少し侘びしく、雨さえぱらぱら降って来て、とっとと町を急ぐのだが、この下諏訪という町は、またなんという陰惨低劣のまちであろう。駄馬が、ちゃんちゃんと頸の鈴ならして震えながら、よろめき歩くのに適した町だ。町はば、せまく、家々の軒は黒く、根強く低く、家の中の電燈は薄暗く、ランプか行燈でも、ともしているよう。底冷えして、路には大きい石ころがごろごろして、馬の糞だらけ。ときどき、すすけた古い型のバスが、ふとった図体をゆすぶりゆすぶり走って通る。木曾路、なるほどと思った。湯のまちらしい温かさが、どこにも無い。どこまで歩いてみても、同じことだった。笠井さんは、溜息ついて、往来のまんなかに立ちつくした。雨が、少しずつ少しずつ強く降る。心細く、泣くほど心細く、笠井さんも、とうとう、このまちを振り捨てることに決意した。雨の中を駅前まで引き返し、自動車を見つけて、上諏訪、滝の屋、大急ぎでたのみます、と、ほとんど泣き声で言って、自動車に乗り込み、失敗、こんどの旅行は、これは、完全に失敗だったかも知れぬ、といても立っても居られぬほどの後悔を覚えた。 あのひと、いるかしら。自動車は、諏訪湖の岸に沿って走っていた。闇の中の湖水は、鉛のように凝然と動かず、一魚一介も、死滅してここには住まわぬ感じで、笠井さんは、わざと眼をそむけて湖水を見ないように努めるのだが、視野のどこかに、その荒涼悲惨が、ちゃんとはいっていて、のど笛かき切りたいような、グヮンと一発ピストル口の中にぶち込みたいような、どこへも持って行き所の無い、たすからぬ気持であった。あのひと、いるかしら。あのひと、いるかしら。母の危篤に駈けつけるときには、こんな思いであろうか。私は、魯鈍だ。私は、愚昧だ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけがわからない。つきつめて、何が苦しと言うならず。冗談よせ! 自動車は、やはり、湖の岸をするする走って、やがて上諏訪のまちの灯が、ぱらぱらと散点して見えて来た。雨も晴れた様子である。 滝の屋は、上諏訪に於いて、最も古く、しかも一ばん上等の宿屋である。自動車から降りて、玄関に立つと、 「いらっしゃい。」いつも、きちっと痛いほど襟元を固く合せている四十歳前後の、その女将は、青白い顔をして出て来て、冷く挨拶した。「お泊りで、ございますか。」 女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。 「お願いします。」笠井さんは、気弱くあいそ笑いして、軽くお辞儀をした。 「二十八番へ。」女将は、にこりともせず、そう小声で、女中に命じた。 「はい。」小さい、十五、六の女中が立ち上った。 そのとき、あのひとが、ひょっこり出て来た。 「いいえ。別館、三番さん。」そう乱暴な口調で言って、さっさと自分で、笠井さんの先に立って歩いた。ゆきさんといった。 「よく来たわね。よく来たのね。」二度つづけて言って、立ちどまり、「少し、おふとりになったのね。」ゆきさんは、いつも笠井さんを、弟かなんかのように扱っている。二十六歳。笠井さんより九つも年下の筈なのであるが、苦労し抜いたひとのような落ちつきが、どこかに在る。顔は天平時代のものである。しもぶくれで、眼が細長く、色が白い。黒っぽい、じみな縞の着物を着ている。この宿の、女中頭である。女学校を、三年まで、修めたという。東京のひとである。 笠井さんは、長い廊下を、ゆきさんに案内されて、れいの癖の、右肩を不自然にあげて歩きながら、さっき女将の言った二十八番の部屋を、それとなく捜していた。ついに見つからなかったけれど、おそらくは、それは、階段の真下あたりの、三角になっている、見るかげもない部屋なのであろう。それにちがいない。この宿で、最下等の部屋に、ちがいない。服装が、悪いからなあ。下駄が、汚い。そうだ、服装のせいだ、と笠井さんは、しょげ抜いていたのである。階段をのぼって、二階。 「ここが、お好きだったのね。」ゆきさんは、その部屋の襖をあけ、したり顔して落ちついた。 笠井さんは、ほろ苦く笑った。ここは別棟になっていて、ちゃんと控えの支度部屋もついているし、まず、最上等の部屋なのである。ヴェランダもあり、宿の庭園には、去年の秋は桔梗の花が不思議なほど一ぱい咲いていた。庭園のむこうに湖が、青く見えた。いい部屋なのである。笠井さんは、去年の秋、ここで五、六日仕事をした。 「きょうは、ね、遊びに来たんだ。死ぬほど酒を呑んでみたいんだ。だから、部屋なんか、どうだって、いいんだ。」笠井さんは、やはり少し気嫌を直して、快活な口調で言った。 宿のどてらに着換え、卓をへだてて、ゆきさんと向い合ってきちんと坐って、笠井さんは、はじめて心からにっこり笑った。 「やっと、――」言いかけて、思わず大きい溜息をついた。 「やっと?」とゆきさんも、おだやかに笑って、反問した。 「ああ、やっと。やっと、……なんといったらいいのかな。日本語は、不便だなあ。むずかしいんだ。ありがとう。よく、あなたは、いてくれたね。たすかるんだ。涙が出そうだ。」 「わからないわ。あたしのことじゃないんでしょう?」 「そうかも知れない。温泉。諏訪湖。日本。いや、生きていること。みんな、なつかしいんだ。理由なんて、ないんだ。みんなに対して、ありがとう。いや、一瞬間だけの気持かも知れない。」きざなことばかり言ったので、笠井さんは、少してれたのである。 「そうして、すぐお忘れになるの? お茶をどうぞ。」 「僕は、いつだって、忘れたことなんかないよ。あなたには、まだわからないようだね。とにかくお湯にはいろう。お酒を、たのむぜ。」 ずいぶん意気込んでいたくせに、酒は、いくらも呑めなかった。ゆきさんも、その夜は、いそがしいらしく、お酒を持って来ても、すぐまた他へ行ってしまうし、ちがった女中も来ず、笠井さんは、ぐいぐいひとりで呑んで、三本目には、すでに程度を越えて酔ってしまって、部屋に備えつけの電話で、 「もし、もし。今夜は、おいそがしい様ですね。誰も来やしない。芸者を呼びましょう。三十歳以上の芸者を、ひとり、呼んで下さい。」 しばらく経って、また電話をかけた。 「もし、もし。芸者は、まだですか。こんな離れ座敷で、ひとりで酔ってるのは、つまりませんからね。ビイルを持って来て下さい。お酒でなく、こんどは、ビイルを呑みます。もし、もし。あなたの声は、いい声ですね。」 いい声なのである。はい、はい、と素直に応答するその見知らぬ女の少し笑いを含んだ声が、酔った笠井さんの耳に、とても爽かに響くのだ。 ゆきさんが、ビイルを持ってやって来た。 「芸者衆を呼ぶんですって? およしなさいよ。つまらない。」 「誰も来やしない。」 「きょうは、なんだか、いそがしいのよ。もう、いい加減お酔いになったんでしょう? おやすみなさいよ。」 笠井さんは、また電話をかけた。 「もし、もし。ゆきさんがね、芸者は、つまらないと言いました。よせというから、よしました。あ、それから、煙草。スリイ・キャッスル。ぜいたくを、したいのです。すみません。あなたの声は、いい声ですね。」また、ほめた。 ゆきさんに寝床を敷いてもらって、寝た。寝ると、すぐ吐いた。ゆきさんは、さっさと敷布を換えてくれた。眠った。 あくる朝は、うめく程であった。眼をさまし、笠井さんは、ゆうべの自身の不甲斐なさ、無気力を、死ぬほど恥ずかしく思ったのである。たいへんな、これは、ロマンチシズムだ。げろまで吐いちゃった。憤怒をさえ覚えて、寝床を蹴って起き、浴場へ行って、広い浴槽を思いきり乱暴に泳ぎまわり、ぶていさいもかまわず、バック・ストロオクまで敢行したが、心中の鬱々は、晴れるものでなかった。仏頂づらして足音も荒々しく、部屋へかえると、十七、八の、からだの細長い見なれぬ女中が、白いエプロンかけて部屋の拭き掃除をしていた。 笠井さんを見て、親しそうに笑いながら、「ゆうべ、お酔いになったんですってね。ご気分いかがでしょう。」 ふと思い出した。 「あ、君の声、知っている。知っている。」電話の声であった。 女は、くつくつ肩を丸くして笑いながら、床の間を拭きつづけている。笠井さんも、気持が晴れて、部屋の入口に立ったまま、のんびり煙草をふかした。 女は、ふり向いて、 「あら、いいにおい。ゆうべの、あの、外国煙草でしょ? あたし、そのにおい大好き。そのにおい逃がさないで。」雑巾を捨てて、立ち上り、素早く廊下の障子と、ヴェランダに通ずるドアと、それから部屋の襖も、みんな、ピタピタしめてしまった。しめて、しまってから、二人どぎまぎした。へんなことになった。笠井さんは、自惚れたわけでは無い。いや、自惚れるだけのことはあったのかも知れない。いたずら。悪事が、このように無邪気に行われるものだとは、笠井さんも思ってなかった。笠井さんは、可愛らしいと思った。田舎くさい素朴な、直接に田畑のにおいが感じられて、白い立葵を見たと思った。 すらと襖があいて、 「あの、」ゆきさんが、余念なくそう言いかけて、はっと言葉を呑んだ。たしかに、五、六秒、ゆきさんは、ものを言えなかったのだ。 見られた。地球の果の、汚いくさい、まっ黒い馬小屋へ、一瞬どしんと落ちこんでしまった。ただ、もやもや黒煙万丈で、羞恥、後悔など、そんな生ぬるいものではなかった。笠井さんは、このまま死んだふりをしていたかった。 「幾時の汽車で、お発ちなのかしら。」ゆきさんは、流石に落ちつきを取りもどし、何事もなかったように、すぐ言葉をつづけてくれた。 「さあ。」その女のひとは、奇怪なほどに平気であった。笠井さんは、そのひとを、たのもしくさえ思った。そうして、女を、なかなか不可解なものだと思った。 「すぐかえる。ごはんも、要らない。お会計して下さい。」笠井さんは、眼をつぶったままだった。まぶしく、おそろしく、眼をひらくことが、できなかった。このまま石になりたいと思った。 「承知いたしました。」ゆきさんは、みじんも、いや味のない挨拶して部屋を去った。 「見られたね。まぎれもなかったからな。」 「だいじょうぶよ。」女は、しんから、平気で、清らかな眼さえしていた。「ほんとうに、すぐお帰りになるの?」 「かえる。」笠井さんは、どてらを脱いで身仕度をはじめた。下手におていさいをつくろって、やせ我慢して愚図々々がんばって居るよりは、どうせ失態を見られたのだ、一刻も早く脱走するのが、かえって聡明でもあり、素直だとも思われた。 かなわない気持であった。もう、これで自分も、申しぶんの無い醜態の男になった。一点の清潔も無い。どろどろ油ぎって、濁って、ぶざまで、ああ、もう私は、永遠にウェルテルではない! 地団駄を踏む思いである。行為に対しての自責では無かった。運がわるい。ぶざまだ。もう、だめだ。いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定をすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、 「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます。」くやしく、泣きたかった。 宿の玄関には、青白い顔の女将をはじめ、また、ゆきさんも、それから先刻の女中さんも、並んでていねいにお辞儀をして、一様に、おだやかな、やさしい微笑を浮べて笠井さんを見送っていた。 笠井さんは、それどころではなかった。もはや、道々、わあ、わあ大声あげて、わめき散らして、雷神の如く走り廻りたい気持である。私は、だめだ。シェリイ、クライスト、ああ、プウシュキンまでも、さようなら。私は、あなたの友でない。あなたたちは、美しかった。私のような、ぶざまをしない。私は、見られて、みんごと糞リアリズムになっちゃった。笑いごとじゃない。十万億土、奈落の底まで私は落ちた。洗っても、洗っても、私は、断じて昔の私ではない。一瞬間で、私はこんなに無残に落ちてしまった。夢のようだ。ああ、夢であってくれたら。いやいや、夢ではない。ゆきさんは、たしかにあのとき、はっと言葉を呑んでしまった。ぎょっとしたのだ。私は、舌噛んで死にたい。三十五年、人は、ここまで落ちなければならぬか。あとに何が在る。私は、永久に紳士でさえない。犬にも劣る。ウソつけ。犬と「同じ」だ。 どうにも、やり切れなくて、笠井さんは停車場へ行って二等の切符を買った。すこし救われた。ほとんど十年ぶりで、二等車に乗るのである。作品を。――唐突にそれを思った。作品だけが。――世界の果に、蹴込まれて、こんどこそは、謂わば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。 まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかも知れぬ。
●表記について
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