戸田さんの家は郊外です。省線電車から降りて、交番で聞いて、わりに簡単に戸田さんの家を見つけました。菊子さん、戸田さんのお家は、長屋ではありませんでした。小さいけれども、清潔な感じの、ちゃんとした一戸構えの家でした。お庭も綺麗に手入れされて、秋の薔薇が咲きそろっていました。すべて意外の事ばかりでした。玄関をあけると、下駄箱の上に菊の花を活けた水盤が置かれていました。落ちついて、とても上品な奥様が出て来られて、私にお辞儀を致しました。私は家を間違ったのではないかと思いました。 「あの、小説を書いて居られる戸田さんは、こちらさまでございますか。」と、恐る恐るたずねてみました。 「はあ。」と優しく答える奥様の笑顔は、私にはまぶしかった。 「先生は、」思わず先生という言葉が出ました。「先生は、おいででしょうか。」 私は先生の書斎にとおされました。まじめな顔の男が、きちんと机の前に坐っていました。ドテラでは、ありませんでした。なんという布地か、私にはわかりませんけれど、濃い青色の厚い布地の袷に、黒地に白い縞が一本はいっている角帯をしめていました。書斎は、お茶室の感じがしました。床の間には、漢詩の軸。私には、一字も読めませんでした。竹の籠には、蔦が美しく活けられていました。机の傍には、とてもたくさんの本がうず高く積まれていました。 まるで違うのです。歯も欠けていません。頭も禿げていません。きりっとした顔をしていました。不潔な感じは、どこにもありません。この人が焼酎を飲んで地べたに寝るのかと不思議でなりませんでした。 「小説の感じと、お逢いした感じとまるでちがいます。」私は気を取り直して言いました。 「そうですか。」軽く答えました。あまり私に関心を持っていない様子です。 「どうして私の事をご存じになったのでしょう。それを伺いにまいりましたの。」私は、そんな事を言って、体裁を取りつくろってみました。 「なんですか?」ちっとも反応がありません。 「私が名前も住所もかくしていたのに、先生は、見破ったじゃありませんか。先日お手紙を差し上げて、その事を第一におたずねした筈ですけど。」 「僕はあなたの事なんか知っていませんよ。へんですね。」澄んだ眼で私の顔を、まっすぐに見て薄く笑いました。 「まあ!」私は狼狽しはじめました。「だって、そんなら、私のあの手紙の意味が、まるでわからなかったでしょうに、それを、黙っているなんて、ひどいわ。私を馬鹿だと思ったでしょうね。」 私は泣きたくなりました。私は何というひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。菊子さん。顔から火が出る、なんて形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。 「それでは、あの手紙を返して下さい。恥ずかしくていけません。返して下さい。」 戸田さんは、まじめな顔をしてうなずきました。怒ったのかも知れません。ひどい奴だ、と呆れたのでしょう。 「捜してみましょう。毎日の手紙をいちいち保存して置くわけにもいきませんから、もう、なくなっているかも知れませんが、あとで、家の者に捜させてみます。もし、見つかったら、お送りしましょう。二通でしたか?」 「二通です。」みじめな気持。 「何だか、僕の小説が、あなたの身の上に似ていたそうですが、僕は小説には絶対にモデルを使いません。全部フィクションです。だいいち、あなたの最初のお手紙なんか。」ふっと口を噤んで、うつむきました。 「失礼いたしました。」私は歯の欠けた、見すぼらしい乞食娘だ。小さすぎるジャケツの袖口は、ほころびている。紺のスカートは、つぎはぎだらけだ。私は頭のてっぺんから足の爪先まで、軽蔑されている。小説家は悪魔だ! 嘘つきだ! 貧乏でもないのに極貧の振りをしている。立派な顔をしている癖に、醜貌だなんて言って同情を集めている。うんと勉強している癖に、無学だなんて言ってとぼけている。奥様を愛している癖に、毎日、夫婦喧嘩だと吹聴している。くるしくもないのに、つらいような身振りをしてみせる。私は、だまされた。だまってお辞儀して、立ち上り、 「御病気は、いかがですか? 脚気だとか。」 「僕は健康です。」 私は此の人のために毛布を持って来たのだ。また、持って帰ろう。菊子さん、あまりの恥ずかしさに、私は毛布の包みを抱いて帰る途々、泣いたわよ。毛布の包みに顔を押しつけて泣いたわよ。自動車の運転手に、馬鹿野郎! 気をつけて歩けって怒鳴られた。 二、三日経ってから、私のあの二通の手紙が大きい封筒にいれられて書留郵便でとどけられました。私には、まだ、かすかに一縷の望みがあったのでした。もしかしたら、私の恥を救ってくれるような佳い言葉を、先生から書き送られて来るのではあるまいか。此の大きい封筒には、私の二通の手紙の他に、先生の優しい慰めの手紙もはいっているのではあるまいか。私は封筒を抱きしめて、それから祈って、それから開封したのですが、からっぽ。私の二通の手紙の他には、何もはいっていませんでした。もしや、私の手紙のレターペーパーの裏にでも、いたずら書きのようにして、何か感想でもお書きになっていないかしらと、いちまい、いちまい、私は私の手紙のレターペーパーの裏も表も、ていねいに調べてみましたが、何も書いていなかった。この恥ずかしさ。おわかりでしょうか。頭から灰でもかぶりたい。私は十年も、としをとりました。小説家なんて、つまらない。人の屑だわ。嘘ばっかり書いている。ちっともロマンチックではないんだもの。普通の家庭に落ち附いて、そうして薄汚い身なりの、前歯の欠けた娘を、冷く軽蔑して見送りもせず、永遠に他人の顔をして澄ましていようというんだから、すさまじいや。あんなの、インチキというんじゃないかしら。
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