![]() ![]() |
豊島与志雄著『高尾ざんげ』解説(とよしまよしおちょ『たかおざんげ』かいせつ)
|
作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-22 9:03:18 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
|
私は先夜、眠られず、また、何の本も読みたくなくて、ある雑誌に載っていたヴァレリイの写真だけを一時間も、眺めていた。なんという悲しい顔をしているひとだろう、切株、接穂、 どだい、教養というものを知らないのだ。象徴と、比喩と、ごちゃまぜにしているのである。比喩というものは、こうこうこうだから似ているじゃねえか、そっくりじゃねえか、笑わせやがる、そうして大笑い。それだけのものなのである。しかし、象徴というものはスプーンで林檎を割る。なんの意味もない。まったくなんの意味もないのだ。空が青い。なんの意味もない。雲が流れる。なんの意味もない。それだけなのである。それに意味づける教師たちは、比喩だけを知っていて、象徴を知らない。そうして、生徒たちが、その教師の教えを信奉し、比喩だけを知っていて、象徴を知らない。ほんとうの教養人というものは、自然に、象徴というものを体得しているようである。馬鹿な議論をしない。二階の窓から、そとを通るひとをぼんやり見ている。そうして、私たちのように、その人物にしつこい興味など持たない。彼は、ただ見ている。猫が、だるそうにやってくる。それを阿呆みたいに抱きかかえる。一言にしていえば、アニュイ。 音楽家で言えば、ショパンでもあろうか。日本の しかし、この頃、教養人は、強くならなければならない、と私は思うようになった。いわゆる車夫馬丁にたいしても、「馬鹿野郎」と、言えるくらいに、私はなりたいと思っている。できるかどうか。ひとから先生と言われただけでも、ひどく 教養人というものは、どうしてこんなに頼りないものなのだろう。ヴィタリティというものがまったく、全然ないのだもの。 ああ、先生も、私と同様に、だらしがない。 そうして、日本で、いちばんの教養人だってさ。 最後に、末筆で失礼であるが、私は、学生時代、先生にひどいお世話になったことを、附記しておかねばならぬ。そうしてそれは、いつも、私の遠い悲しい思い出になっている。 底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社 1980(昭和55)年9月25日発行 1998(平成10)年10月15日39刷 入力:蒋龍 校正:今井忠夫 2004年6月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
|
![]() ![]() |