私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。思えば、晩い志願であった。私は下宿の、何一つ道具らしい物の無い四畳半の部屋で、懸命に書いた。下宿の夕飯がお櫃に残れば、それでこっそり握りめしを作って置いて深夜の仕事の空腹に備えた。こんどは、遺書として書くのではなかった。生きて行く為に、書いたのだ。一先輩は、私を励ましてくれた。世人がこぞって私を憎み嘲笑していても、その先輩作家だけは、始終かわらず私の人間をひそかに支持して下さった。私は、その貴い信頼にも報いなければならぬ。やがて、「姥捨」という作品が出来た。Hと水上温泉へ死にに行った時の事を、正直に書いた。之は、すぐに売れた。忘れずに、私の作品を待っていてくれた編輯者が一人あったのである。私はその原稿料を、むだに使わず、まず質屋から、よそ行きの着物を一まい受け出し、着飾って旅に出た。甲州の山である。さらに思いをあらたにして、長い小説にとりかかるつもりであった。甲州には、満一箇年いた。長い小説は完成しなかったが、短篇は十以上、発表した。諸方から支持の声を聞いた。文壇を有りがたい所だと思った。一生そこで暮し得る者は、さいわいなる哉と思った。翌年、昭和十四年の正月に、私は、あの先輩のお世話で平凡な見合い結婚をした。いや、平凡では無かった。私は無一文で婚礼の式を挙げたのである。甲府市のまちはずれに、二部屋だけの小さい家を借りて、私たちは住んだ。その家の家賃は、一箇月六円五十銭であった。私は創作集を、つづけて二冊出版した。わずかに余裕が出来た。私は気がかりの借銭を少しずつ整理したが、之は中々の事業であった。そのとしの初秋に東京市外、三鷹町に移住した。もはや、ここは東京市ではない。私の東京市の生活は、荻窪の下宿から、かばん一つ持って甲州に出かけた時に、もう中断されてしまっていたのである。 私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。 ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。あと七景を決定しようと、私は自分の、胸の中のアルバムを繰ってみた。併しこの場合、芸術になるのは、東京の風景ではなかった。風景の中の私であった。芸術が私を欺いたのか。私が芸術を欺いたのか。結論。芸術は、私である。 戸塚の梅雨。本郷の黄昏。神田の祭礼。柏木の初雪。八丁堀の花火。芝の満月。天沼の蜩。銀座の稲妻。板橋脳病院のコスモス。荻窪の朝霧。武蔵野の夕陽。思い出の暗い花が、ぱらぱら躍って、整理は至難であった。また、無理にこさえて八景にまとめるのも、げびた事だと思った。そのうちに私は、この春と夏、更に二景を見つけてしまったのである。 ことし四月四日に私は小石川の大先輩、Sさんを訪れた。Sさんには、私は五年前の病気の時に、ずいぶん御心配をおかけした。ついには、ひどく叱られ、破門のようになっていたのであるが、ことしの正月には御年始に行き、お詫びとお礼を申し上げた。それから、ずっとまた御無沙汰して、その日は、親友の著書の出版記念会の発起人になってもらいに、あがったのである。御在宅であった。願いを聞きいれていただき、それから画のお話や、芥川龍之介の文学に就いてのお話などを伺った。「僕は君には意地悪くして来たような気もするが、今になってみると、かえってそれが良い結果になったようで、僕は嬉しいと思っているのだ」れいの重い口調で、そうも言われた。自動車で一緒に上野に出かけた。美術館で洋画の展覧会を見た。つまらない画が多かった。私は一枚の画の前に立ちどまった。やがてSさんも傍へ来られて、その画に、ずっと顔を近づけ、 「あまいね」と無心に言われた。 「だめです」私も、はっきり言った。 Hの、あの洋画家の画であった。 美術館を出て、それから茅場町で「美しき争い」という映画の試写を一緒に見せていただき、後に銀座へ出てお茶を飲み一日あそんだ。夕方になって、Sさんは新橋駅からバスで帰ると言われるので、私も新橋駅まで一緒に歩いた。途中で私は、東京八景の計画をSさんにお聞かせした。 「さすがに、武蔵野の夕陽は大きいですよ」 Sさんは新橋駅前の橋の上で立ちどまり、 「画になるね」と低い声で言って、銀座の橋のほうを指さした。 「はあ」私も立ちどまって、眺めた。 「画になるね」重ねて、ひとりごとのようにして、おっしゃった。 眺められている風景よりも、眺めているSさんと、その破門の悪い弟子の姿を、私は東京八景の一つに編入しようと思った。 それから、ふたつきほど経って私は、更に明るい一景を得た。某日、妻の妹から、「いよいよTが明日出発する事になりました。芝公園で、ちょっと面会出来るそうです。明朝九時に、芝公園へ来て下さい。兄上からTへ、私の気持を、うまく伝えてやって下さい。私は、ばかですから、Tには何も言ってないのです」という速達が来たのである。妹は二十二歳であるが、柄が小さいから子供のように見える。昨年、T君と見合いをして約婚したけれども、結納の直後にT君は応召になって東京の或る聯隊にはいった。私も、いちど軍服のT君と逢って三十分ほど話をした事がある。はきはきした、上品な青年であった。明日いよいよ戦地へ出発する事になった様子である。その速達が来てから、二時間も経たぬうちに、また妹から速達が来た。それには、「よく考えてみましたら、先刻のお願いは、蓮葉な事だと気が附きました。Tには何もおっしゃらなくてもいいのです。ただ、お見送りだけ、して下さい」と書いてあったので私も、妻も噴き出した。ひとりで、てんてこ舞いしている様が、よくわかるのである。妹は、その二、三日前から、T君の両親の家に手伝いに行っていたのである。 翌朝、私たちは早く起きて芝公園に出かけた。増上寺の境内に、大勢の見送り人が集っていた。カアキ色の団服を着ていそがしげに群集を掻きわけて歩き廻っている老人を、つかまえて尋ねると、T君の部隊は、山門の前にちょっと立ち寄り、五分間休憩して、すぐにまた出発、という答えであった。私たちは境内から出て、山門の前に立ち、T君の部隊の到着を待った。やがて妹も小さい旗を持って、T君の両親と一緒にやって来た。私は、T君の両親とは初対面である。まだはっきり親戚になったわけでもなし、社交下手の私は、ろくに挨拶もしなかった。軽く目礼しただけで、 「どうだ、落ちついているか?」と妹のほうに話しかけた。 「なんでもないさ」妹は、陽気に笑って見せた。 「どうして、こうなんでしょう」妻は顔をしかめた。「そんなに、げらげら笑って」 T君の見送り人は、ひどく多かった。T君の名前を書き記した大きい幟が、六本も山門の前に立ちならんだ。T君の家の工場で働いている職工さん、女工さんたちも、工場を休んで見送りに来た。私は皆から離れて、山門の端のほうに立った。ひがんでいたのである。T君の家は、金持だ。私は、歯も欠けて、服装もだらしない。袴もはいていなければ、帽子さえかぶっていない。貧乏文士だ。息子の許嫁の薄穢い身内が来た、とT君の両親たちは思っているにちがいない。妹が私のほうに話しに来ても、「おまえは、きょうは大事な役なのだから、お父さんの傍に附いていなさい」と言って追いやった。T君の部隊は、なかなか来なかった。十時、十一時、十二時になっても来なかった。女学校の修学旅行の団体が、遊覧バスに乗って、幾組も目の前を通る。バスの扉に、その女学校の名前を書いた紙片が貼りつけられて在る。故郷の女学校の名もあった。長兄の長女も、その女学校にはいっている筈である。乗っているのかも知れない。この東京名所の増上寺山門の前に、ばかな叔父が、のっそり立っているさまを、叔父とも知らず無心に眺めて通ったのかも知れない等と思った。二十台ほど、絶えては続き山門の前を通り、バスの女車掌がその度毎に、ちょうど私を指さして何か説明をはじめるのである。はじめは平気を装っていたが、おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。バルザック像のようにゆったりと腕組みした。すると、私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのである。一時ちかくなって、来た、来たという叫びが起って、間もなく兵隊を満載したトラックが山門前に到着した。T君は、ダットサン運転の技術を体得していたので、そのトラックの運転台に乗っていた。私は、人ごみのうしろから、ぼんやり眺めていた。 「兄さん」いつの間にか私の傍に来ていた妹が、そう小声で言って、私の背中を強く押した。気を取り直して、見ると、運転台から降りたT君は、群集の一ばんうしろに立っている私を、いち早く見つけた様子で挙手の礼をしているのである。私は、それでも一瞬疑って、あたりを見廻し躊躇したが、やはり私に礼をしているのに違いなかった。私は決意して群集を掻きわけ、妹と一緒にT君の面前まで進んだ。 「あとの事は心配ないんだ。妹は、こんなばかですが、でも女の一ばん大事な心掛けは知っている筈なんだ。少しも心配ないんだ。私たち皆で引き受けます」私は、珍しく、ちっとも笑わずに言った。妹の顔を見ると、これもやや仰向になって緊張している。T君は、少し顔を赤らめ、黙ってまた挙手の礼をした。 「あと、おまえから言うこと無いか?」こんどは私も笑って、妹に尋ねた。妹は、 「もう、いい」と顔を伏せて言った。 すぐ出発の号令が下った。私は再び人ごみの中にこそこそ隠れて行ったが、やはり妹に背中を押されて、こんどは運転台の下まで進出してしまった。その辺には、T君の両親が立っているだけである。 「安心して行って来給え」私は大きい声で言った。T君の厳父は、ふと振り返って私の顔を見た。ばかに出しゃばる、こいつは何者という不機嫌の色が、その厳父の眼つきに、ちらと見えた。けれども私は、その時は、たじろがなかった。人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。私は丙種合格で、しかも貧乏だが、いまは遠慮する事は無い。東京名所は、更に大きい声で、 「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った。 増上寺山門の一景を得て、私は自分の作品の構想も、いまや十分に弓を、満月の如くきりりと引きしぼったような気がした。それから数日後、東京市の大地図と、ペン、インク、原稿用紙を持って、いさんで伊豆に旅立った。伊豆の温泉宿に到着してからは、どんな事になったか。旅立ってから、もう十日も経つけれど、まだ、あの温泉宿に居るようである。何をしている事やら。
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