「いいえ、君だって、偉いさ。ちっとも、しょげないで。」 「やるだけのことを、やっているだけです。」少し肩を張って、そう言って、それから立ちどまった。「ここです。」 見ると、やはり黒ずんだ間口(まぐち)十間ほどもある古風の料亭である。 「よすぎる。たかいんじゃないか?」私の財布には、五円紙幣一枚と、それから小銭が二、三円あるだけだった。 「いいのです。かまいません。」幸吉さんは、へんに意気込んでいた。 「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額(がく)に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。 「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。ここでなくちゃいけないんだ。さ、はいりましょう。」 何か、わけがあるらしかった。 「大丈夫かなあ。」私は、幸吉にも、あまり金を使わせたくなかった。 「はじめっから計画していたんです。」幸吉は、きっぱりした語調で言って、それから自身の興奮に気づいて恥ずかしそうに、笑い出し、「今夜は、どこへでも、つき合うって、約束してくれたんじゃないですか。」 そう言われて、私も決心した。 「よし、はいろう。」たいへんな決意である。 その料亭にはいって、幸吉は、はじめてここへ来たひとのようでも無かった。 「表二階の八畳がいい。」 案内の女中に、そんなことを言っていた。 「やあ、階段もひろくしたんだね。」 なつかしそうに、きょろきょろ、あたりを見廻している。 「なんだ、はじめてでも、なさそうじゃないか。」私が小声でそう言うと、 「いいえ、はじめてなんです。」そう答えながら、「八畳は、暗くてだめかな? 十畳のほうは、あいていますか?」などと、女中にしきりに尋ねている。 表二階の十畳間にとおされた。いい座敷だ。欄間も、壁も、襖(ふすま)も、古く、どっしりして、安普請(やすぶしん)では無い。 「ここは、ちっとも、かわらんな。」幸吉は、私と卓を挾(はさ)んで坐ってから、天井を見上げたり、ふりかえって欄間を眺めたり、そわそわしながら、そんなことを呟いて、「おや、床の間が少し、ちがったかな?」 それから私の顔を、まっすぐに見て、にこにこ笑い、 「ここは、ね、僕の家だったのです。いつか、いちどは来てみたいと思っていたのですが。」 そう聞いて、私も急に興奮した。 「あ、そうか。どうりで家のつくりが、料理屋らしくないと思った。あ、そうか。」私も、あらためて部屋を見まわした。 「この部屋には、ね、店の品物が、たくさん積みこまれて、僕たちは、その反物(たんもの)で山をこさえたり、谷をこさえたりして、それに登って遊んだものです。ここは、こんなに日当りがいいでしょう? だもんだから、母は、ちょうどあなたのお坐りになっていらっしゃるその辺に坐って、よく仕立物をしていました。十年もむかしのことですが、この部屋へ来てみると、やっぱし昔のことが、いちいちはっきり思い出されます。」静かに立って、おもて通りに面した、明るい障子を細くあけてみて、 「ああ、むかい側もおんなじだ。久留島さんだ。そのおとなりが、糸屋さん。そのまた隣が、秤(はか)り屋さん。ちっとも変っていないんだなあ。や、富士が見える。」私のほうを振りかえって、 「まっすぐに見える。ごらんなさい。昔とおんなじだ。」 私は、先刻から、たまらなかった。 「ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。」不気嫌にさえなっていた。「わるい計画だったね。」 「いいえ、感傷なんか無いんです。」障子を閉めて、卓の傍へ来て横坐りに坐って、「もう、どうせ、他人の家です。でも、久しぶりに来て見ると、何でもかんでも珍らしく、僕は、うれしいのです。」嘘でなく、しんから楽しそうに微笑しているのである。 ちっとも、こだわっていないその態度に、私は唸(うな)るほど感心した。 「お酒、呑みますか? 僕は、ビイルだと少しは、呑めるのですけれど。」 「日本酒は、だめか?」私も、ここで呑むことに腹をきめた。 「好きじゃないんです。父は酒乱。」そう言って、可愛く笑った。 「私は酒乱じゃないけど、かなり好きなほうだ。それじゃ、私はお酒を呑むから、君はビイルにし給え。」今夜は、呑みあかしてもいい、と自身に許可を与えていた。 幸吉は女中を呼ぼうとして手を拍(う)った。 「君、そこに呼鈴があるじゃないか。」 「あ、そうか。僕の家だったころには、こんなものなかった。」 ふたり、笑った。 その夜、私は、かなり酔った。しかも、意外にも悪く酔った。子守唄が、よくなかった。私は酔って唄をうたうなど、絶無のことなのであるが、その夜は、どうしたはずみか、ふと、里(さと)のおみやに何もろた、でんでん太鼓に、などと、でたらめに唄いだして、幸吉も低くそれに和したが、それがいけなかった。どしんと世界中の感傷を、ひとりで脊負(せおわ)せられたような気がして、どうにも、たまらなかった。 「だけど、いいねえ。乳兄弟って、いいものだねえ。血のつながりというものは、少し濃すぎて、べとついて、かなわないところがあるけれど、乳兄弟ってのは、乳のつながりだ。爽やかでいいね。ああ、きょうはよかった。」そんなこと言って、なんとかして当面の切(せつ)なさから逃れたいと努めてみるのだが、なにせ、どうも、乳母のつるが、毎日せっせと針仕事していた、その同じ箇所にあぐらかいて坐って、酒をのんでいるのでは、うまく酔えよう道理が無かった。ふと見ると、すぐ傍に、脊中を丸くして縫いものしているつるが、ちゃんと坐って居るようで、とても、のんびり落ちついて、幸吉と語れなかった。ひとりで、がぶがぶ酒のんで、そのうちに、幸吉を相手にして、矢鱈(やたら)に難題を吹っかけた。弱い者いじめを、はじめたのである。 「ね、さっきも言うように、君は私に逢って、さぞや、がっかりなさったことでしょうねえ。いや、わかっている。弁解は、聞きたくない。私が大学の先生くらいになっていたら、君は、もっと早く、私の東京の家を捜し出して、そうして、君は、君の妹さんと二人で、私を訪ねて来た筈だ。いや、弁解は聞きたくないね。ところが私は、いま、これときまった家さえ無い、どうも自分ながら意気地のない作家だ。ちっとも有名でない。私には、青木大蔵という名前のほかに、もうひとつ、小説を書くときにだけ使っている、へんな名前がある。あるけれども、それは言わない。言ったって、どうせ君たちは、知りやしない。いちどだって、聞いたこともないような、へんな名前である。言うだけ、損だ。けれども、君、軽蔑(けいべつ)しちゃいかんよ。世の中には、私たちみたいな種類の人間も、たしかに、必要なんだ。なくては、かなわぬ、重要な歯車の、一つだ。私は、それを信じている。だから、苦しくても、こうして頑張って生きている。死ぬもんか。自愛。人間これを忘れてはいかん。結局、たよるものは、この気持ひとつだ。いまに、私だって、偉くなるさ。なんだ、こんな家の一つや二つ。立派に買いもどしてみせる。しょげるな、しょげるな。自愛。これを忘れてさえいなけれあ、大丈夫だ。」言いながら、やりきれなくなった。「しょげちゃいけない。いいか、君のお父さんと、それから、君のお母さんと、おふたりが力を合せて、この家を建設した。それから、運がわるく、また、この家を手放した。けれども、私が、もし君のお父さん、お母さんだったら、べつに、それを悲しまないね。子供が、二人とも、立派に成長して、よその人にも、うしろ指一本さされず、爽快に、その日その日を送って、こんなに嬉しいことないじゃないか。大勝利だ。ヴィクトリイだ。なんだい、こんな家の一つや二つ。恋着しちゃいけない。投げ捨てよ、過去の森。自愛だ。私がついている。泣くやつがあるか。」泣いているのは私であった。 それからは、めちゃめちゃだった。何を言ったか、どんなことをしたか、私は、ほとんど覚えていない。いちど御不浄に立った。幸吉が案内した。 「どこでも知っていやがる。」 「母は、御不浄を一ばん綺麗にお掃除していました。」幸吉は笑いながら、そう答えた。 そのことと、もう一つ。酔いつぶれて、そのまま寝ころんでいると、枕もとで、 「萩野さんは、とても似ているというんだけど。」少女の声である。妹がやって来たんだなと思ったゆえ、私は寝ながら、 「そうだ、そうだ。幸吉さんは、私とは他人だ。血のつながりなんか、無いんだ。乳のつながりだけなんだ。似ていて、たまるか。」そう言って、わざと大きく寝がえり打って、「私みたいな酒呑みは、だめだ。」 「そんなことない。」無邪気な少女の、懸命な声である。「私たち、うれしいのよ。しっかり、やって下さい、ね。あんまり、お酒のんじゃいけない。」 きつい語調が、乳母のつるの語調に、そっくりだったので、私は薄目(うすめ)あけて枕もとの少女をそっと見上げた。きちんと坐っていた。私の顔をじっと見ていたので、私の酔眼と、ちらと視線が合って、少女は、微笑した。夢のように、美しかった。お嫁に行く、あの夜のつるに酷似していたのである。それまでの、けわしい泥酔が、涼しくほどけていって、私は、たいへん安心して、そうして、また、眠ってしまったらしい。ずいぶん酔っていたのである。御不浄に立ったときのことと、それから、少女の微笑と、二つだけ、それだけは、あとになっても、はっきり思い出すことができるのだけれど、そのほかのことは、さっぱり覚えていないのである。 半分、眠りながら、私は自動車に乗せられ、幸吉兄妹も、私の右と左に乗ったようだ。途中、ぎゃあぎゃあ怪しい鳥の鳴き声を聞いて、 「あれは、なんだ。」 「鷺(さぎ)です。」
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